間違ってもいいから思いっきり

私たち人間は、言葉で物事を考えている限り、あらゆるものを「是か非か」と格付けする乱暴な○×ゲームに絶えず影響されています。ここでは、万人が強制参加させられているこの言語ゲームを分析し、言葉の荒波に溺れてしまわないための知恵を模索していきます。

真理ムラの癒着と圧力

 日本における原子力発電の安全神話は、2011年3月11日に起きた福島第一原発の危機的事故をきっかけに崩壊しました。
 ですが、それまでの日本では原発推進が国の規定路線としてまかり通っており、反原発を声高に唱えるような人は社会的圧力によって村八分にされていました。

 電力会社・プラントメーカー・監督官庁・大学などの研究機関・政治家・マスコミなどは、原子力発電を巡る巨額の利権によって結ばれた「原子力ムラ」という共犯関係を築いていると言われています。
 原発推進派は「原発は安全で経済的で環境にも優しいから国のエネルギー政策には必要不可欠」という見解を常識にしていくために、圧倒的な金の力で世論を煽動し、反対派の影響力を封じ込めてきたのです。

 3.11の事故をきっかけに、マスコミにも原子力ムラの癒着体質を非難する言論が現れ始め、推進派による封じ込め戦略にも若干のほころびが出てきたかのように見えます。
 ですが、原子力ムラを築いてきた利権の構造自体は手付かずのまま温存されており、「現実問題としてまだ日本には原発が必要だ」とする言論人もメディアではいまだに健在です。
 原発はもうこりごりだという人が大勢現れた一方で、それでも生きるために原発の利権が健在であって欲しいと願う人もまだまだ力を持っているのです。

 原子力ムラがここまでしぶといのは、その既得権益が現行の権力機構に深く入り込んでいるから。
 そして、この原子力ムラよりも遥かに巨大なスケールで幅を利かせている勢力に「正しさ」があります。

 「正しさ」という視点の持ち方は、他の動物には見られない人間独特のローカルな習性です。
 公平さ、客観性、厳密性、再現性、独立性、価値、意味、善悪、平等、神聖さ、誠実さ、寛大さ、人間らしさ、成熟度、常識、理性、品性、適性、合法性、民主性、秩序、安全性、経済性、などありとあらゆる「正しさ」が、人間同士の説得の場面で行使されています。

 これらの「正しさ」には、人類共通のグローバルな基準などどこにも存在していません。
 「正しさ」とは、その時々の利用者の都合によって発言のたびに造られていく便利な説得ツールなんです。
 そして、各人の都合はそれぞれ違っていますから、巷に溢れる好き勝手な「正しさ」たちはしばしば対立関係に陥ることになります。

 こうした「どちらの正しさを優先すべきか」というパワーゲームのストレスを避けるため、世の多くの人々は「共通の正しさ」という揺らぐことのない権威を求めます。
 この「共通の正しさ」というアイデアは、宗教や哲学やスピリチュアルなどの世界では「真理」と名付けられており、科学の世界では「客観性」「厳密性」「再現性」などとやや控え目に言い換えられています。

 また、身近な世界においてもこの「共通の正しさ」は引っ張りだこです。
 家庭における兄弟同士のやり取りであれば親がその役目を果たします。
 学校・道場・習い事・各種セミナーなどの場であれば、先生と呼ばれる人々がその役割を果たすことになっています。
 そして、法治国家においては司法がその役割を演じることになります。

 こうした「共通の正しさ」というコンセプトは、言葉による印象操作・洗脳・煽動・説得などの威力を爆発的に引き上げるための大発明。
 例えて言うならば、言葉版の原子力発電のようなものです。

 しかし、この大発明も結局は人の都合によって生まれたものであり、公平無私な「共通の正しさ」というのは言葉が生み出した大がかりなフィクションに過ぎません。
 この作り話の欺瞞を指摘する声は大昔からありましたが、騙したがりの権力者や信じたがりの多数派によってそれらの反論は長らく封じ込められてきました。
 この「共通の正しさ」を巡る利権と癒着の構造は、「真理ムラ」と呼んでも差し支えない人類史上最大の茶番劇です。

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 この真理ムラへの疑惑を忘れさせ、反論を牽制するための武器として、「理性」という方便があります。
 この作り話は「人間は他の動物よりも上等な生物である」という暗黙の前提をベースにしており、人間たちの自尊心をくすぐるご機嫌取りとして機能しています。

 人間は他の動物にはない理性を持っており、その理性のおかげで「共通の正しさ」を見出だすことができる。
 発見された「共通の正しさ」に従って 「あるべき姿」「正しい道」を選択しようと欲する性質こそ、人間が万物の霊長たる所以である。
 と、こういう寸法です。

 この「人間は他の動物よりも上等な生物である」という人間にとって好ましい結論は、真理ムラの住人にならないと得られない恩恵です。
 つまり「理性」という作り話は、真理ムラが人間たちにプレゼントした数多くの賄賂のうちの一つなのです。

 しかもこの賄賂を受け取らない者に対しては、「動物と同レベルの下等な人間だ」という侮蔑による報復措置まで用意してあります。
 こうした印象操作によって罵倒されてきた思想の代表格が「相対主義」です。

 相対主義とは、人間には絶対的な共通の認識はないとする立場のこと。
 古代ギリシャソフィストであるプロタゴラスの有名な言葉に「万物の尺度は人間である」というものがあります。
 これは客観性や絶対的判断基準といった「共通の正しさ」の実在を疑い、世の中で振りかざされる「正しさ」というものさしはどれも個人の主観にしかよらないと痛烈に皮肉ったものです。

 ですが、こうした相対主義は現存する社会の枠組みを危うくする可能性もはらんでいるため、真理ムラの住人たちはその指摘の的確さにはとりあわずに、「人のあるべき道に唾する反社会勢力」といったレッテルを貼ることでその言論を封殺しようとしてきました。
 その試みは概ね成功しており、高校の倫理の教科書などでも、プラトンを始めとする真理の提唱者こそがギリシャ哲学の正統として紹介され、プロタゴラスなどの相対主義者はまるで敵役のように扱われています。

 このような印象操作をしてまで真理ムラの住人たちが守りたがっている「共通の正しさ」という作り話の難点は、その影響力の暴走にあります。
 中近世における宗教戦争や、近代帝国主義による侵略戦争などは、「共通の正しさ」という原発が暴走することで起きた悲惨なメルトダウンです。

 第二次世界大戦後に現れた「構造主義」という立場はそれまでの近代思想への反省から生じたもので、「共通の正しさ」に頼らない方法で前向きにより住み良い社会を築こうとする試みでした。

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 この構造主義の登場は20世紀以降の社会に大きな影響を及ぼし、価値観の多様化や個性尊重の傾向といった成果を世界中に広めていきます。

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 ですが、価値観の多様性や個性の尊重といった構造主義の達成は、構造主義が目指していた場所からだんだんと離れていきいます。
 より住み良い社会を築くために「共通の正しさ」の危うさを避けようとして発生した「価値観の多様化」や「個性の尊重」のはずなのに、そのお題目自体が新たな「共通の正しさ」として暴走を始めたのです。
 モラルハザードと呼ばれるこうした社会現象は「かえって世の中を住みにくくした」と非難を受けており、その責任は「価値観の多様化」や「個性の尊重」の格上げに加担した構造主義に押し付けられる傾向にあります。

 しかし、当初の構造主義とは、「共通の正しさ」に頼らない方法で前向きにより住み良い社会を築こうとする試みのことでした。
 モラルハザードの原因は「共通の正しさ」の否定にあったのではなく、より住み良い社会を築くという構造主義の初志が伝えられないままに、「価値観の多様化」や「個性の尊重」が新たな「共通の正しさ」と位置付けられて暴走したから。
 モラルハザードを巡る構造主義へのクレームは、真理ムラの住人同士による自作自演の茶番劇に過ぎないのです。 

 こうした引きずり下ろし工作の甲斐あって、構造主義も当初のような威光を失ってしまいました。
 ですが私は、「共通の正しさ」の威力に頼らずにより住み良い社会を築こうとしていた目的意識そのものに、深く共感しています。
 私は「世の中の全ての発言は記述ではなく説得である」という風に言語そのものへの捉えられ方を変更していくことによって、同様の目的を果たせたらと願っています。

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 宗教や科学といった「共通の正しさ」は過去に何度もメルトダウンを起こしてきましたが、真理ムラの住人にとってそれらは大した問題ではありません。
 「過去の原発が基準を満たしていなかっただけだ」としていまだに原発推進を謀ろうとする原子力ムラのように、真理ムラの住人たちも「過去の共通の正しさ」が間違っていただけだととらえ、「共通の正しさ」という発想そのものに欠陥があったとは決して考えようとしないのです。
 最近の真理ムラでは、宗教や科学といった既存の派閥には見切りをつけて、スピリチュアルや疑似科学といった代わりの「正しさ」を「共通の正しさ」に格上げしていこうとする派閥も徐々に勢いを付けているようです。

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 真理ムラの既得権益は人類規模で広がっているため、いくら糾弾したところで「共通の正しさ」を巡る癒着の構造はなかなか消えそうにありません。

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 脱真理への道のりは、日本における脱原発への道のりよりも遥かに遠いでしょう。
 現状でのそうした圧倒的な力関係を踏まえつつ、それでも「共通の正しさ」に頼らずに住み良い世界を築いていくため、これからも自分なりの発信をしていく所存です。

 

 

※当ブログの主なテーマは、この世界を支配する「正しさ」という言葉のプロレスとの付き合い方。

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「正しさ」というゲームの最大の欠陥は、何を「正しい」とし何を「間違ってる」とするのかというルールや、その管理者たるレフェリーが、実際にはどこにも存在しないということ。
人類はこれまで数え切れないほどの論争を繰り広げてきましたが、それらのほとんどは「レフェリーの代弁者」という場を仕切る権限をめぐっての権力闘争でした。
 
「レフェリーの代弁者」という立場は、自分の個人的な要求でしかない主張を、まるでこの世の既成事実のように見せかけるための隠れ蓑です。
「それは正しい」とか「それは間違ってる」という言い方で裁きたがる人たちは、私はこの世のレフェリーの代弁をしているだけなんだという迫真の演技で己の発言の圧力を高めていたのです。
 
演技の迫力とは、演技者が役にどれだけ入り込めるかで決まるもの。
人々はいつしかレフェリーの代弁者のふりが説得のための演技であったことを忘れ、「どこかに本当の正しさがあるはず」といった物語を本気で信じこんでしまいます。
こうして人類の間には、「正しさ」という架空のレフェリーの存在をガチだと捉えてしまう、大がかりなプロレス社会が成立していきました。

そのプロレス的世界観を支えている固定観念の源を「記述信仰」と名付けました。
以下の記事では、この「記述信仰」の実態を上のような簡単な図まとめて解説していますので、ぜひご一読ください。

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