間違ってもいいから思いっきり

私たち人間は、言葉で物事を考えている限り、あらゆるものを「是か非か」と格付けする乱暴な○×ゲームに絶えず影響されています。ここでは、万人が強制参加させられているこの言語ゲームを分析し、言葉の荒波に溺れてしまわないための知恵を模索していきます。

科学が存在する意義



 私たちのものの考え方は、物質的な状況や思想的な流行といった時代ごとの背景に大きく左右されています。
 以前の記事では、レヴィ=ストロースの提唱した構造主義やその著書『野生の思考』が現代社会を生きる私たちに与えている影響について、ごくごく簡単な一例を紹介させていただきました。

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 ざっくり言うと、「普遍的な真理を解明するためのもの」という昔ながらの科学観は西欧独特のただの偏見だと徹底的に指摘したのがレヴィ=ストロースです。
 そして、科学や思想というのは「私たちにとっての世界」を作っていくためのツールに過ぎないんだから、道具としての利便性や弊害をその都度確かめながら試行錯誤をただただ繰り返していこうとする制度設計の考え方こそが構造主義です。

 今回は、構造主義の登場によって問い直されてしまった「科学の目的」について、「世界の普遍的な真理の解明」という伝統的な解釈と「私たちが生きる世界の構築」という現代的な解釈との根本的な違いを考えてみたいと思います。
 フェリス女学院大学高田明典は、その著書『知った気でいるあなたのための構造主義方法論入門』の中で、「制度設計の道具として有用な科学とはどんなものか」という切り口で以下のような解説をしています。  

知った気でいるあなたのための構造主義方法論入門

知った気でいるあなたのための構造主義方法論入門

 

 「人が食事をするのはなぜか?」という質問には答えられません。
少なくとも、「科学者」はそのような質問に答えるべきではありませんし、事実答えることができない筈です。

そのような質問に答えることができるのは、神学者や宗教者です。
それはいわば「神の視点」に立脚した質問だからです。

しかし、「ある個人に食事をさせるためにはどうすればよいのか」という質問になら、答えることができます。
それは「真理」とは関係のない質問だからです。
そして、おそらく科学とはその程度のものです。

質問はつねに状況と目的を含んだ形式で為される必要があります。
つまり、「Aは何故か?――<形式0>」という質問は無目的かつ無意味だということです。

もちろん、一般的な文脈ではこの形式の質問は私もよく使います。
しかし重要なのは、それを「Bという状態にするにはどうすればよいのか?――<形式1>」という質問の形態に変換することです。
すべての「Aは何故か?」という類の質問は、<形式1>の形に変換することが可能です。

<形式1>の質問に対しての答えは、大きく三種類に分類されます。
一つは「できない」であり、もう一つは「する必要がない」です。
そして最後の一つが「~というようにする」という具体的なものであり、これこそが「有意な回答」であるといえます。

「有意な回答」は「有効」か「無効」かという試金石でその価値を試すことができます。
これが「有効な回答」であるか否かを試すのは簡単です。
やってみればいいわけですから。

従来の諸科学は「~とは何か」とか「~のはなぜか」という枠組みに捕らわれていました。
それは前述したように<形式0>の質問です。

構造主義の扱う質問はつねに「~するにはどうするばいいのか」<形式1>の形をとります。
そしてこうすることによって初めて「貴族の遊び道具」であった学問を「役に立つ・意味のある」ものに変化させることができるのです。

 高田氏が述べる科学の目的とは、単にこの世界がどうなっているかを解明することではなく、実際にこの世界を変えていくための具体的かつ煽動的な発信をすること。
 「ただ真理を知ろうとしている」だけに見える科学や哲学であっても、いかにも正しそうに聴こえる説明に影響を受けた人たちの行動によって世の中が動くことは多々ありますし、私たちの住む社会も実際にそうやって築かれてきました。
 「~とは何か」や「~のはなぜか」といった<形式0>の問題に答えているだけ見える発言も、「どのようにして世の中を変えていくか」 という<形式1>の問題に対する具体策の一例となりうるのです。

 こうした科学による世の中への作用のことを高田氏は「制御」と呼び、これこそが科学の本来の役割だと主張します。
 そして、レヴィ=ストロースの行った「制御」についてこう解説しています。

西洋の文化や考え方のみが「先進的」であってそれ以外の文化圏の文化は「劣っている」ものだという偏見を持っている人たちがいたとしましょう。
彼らに対して「基本的な部分は全く同じであって、違うのはこことここの部分だけだ」ということを提示したらどうでしょうか。
少なくともむやみやたらな「自文化中心主義」の呪縛からは脱却できるできる可能性があります。

レヴィ=ストロースの業績の意義は、おそらくそこにあります。
『野生の思考』が当事のヨーロッパに衝撃を与えたのは、その意味においてです。

レヴィ=ストロースの研究には、隠されていて表面には出ていないものの「制御」の対象が明らかに存在します。
本当のことを知りたいとか「真理に近づきたい」というような要求に基づいているのではなく、現実社会に存在する問題を解決する道具としてソシュール言語学や初期の構造主義記号論の概念を用いたのが、レヴィ=ストロースです。

この「目的意識」が存在しないところに「科学」は存在しません。
「知的好奇心」を満足させるための「真理の探究」は科学の目的ではなく、単なる趣味です。
「制御」こそが科学の唯一の目的です。

 この高田氏の文章は、いまだに伝統的な科学観にしがみついて正しいことを言いたがる人々への痛烈な皮肉です。
 「制御」こそが科学の唯一の目的だなんて何の根拠もない決め付けだ、といった反論は彼には通じません。
 だって彼は「科学の目的とは何か」という<形式0>の質問への応対には最初から全く興味がなく、「真理の探究という時代遅れな偏見から読者を卒業させるにはどうすればいいか」という<形式1>の質問への具体的な回答として、敢えて決め付けて書いているのですから。

 レヴィ=ストロース高田明典も内田樹構造主義者たちは皆、いつまでも「何が正しいか」にこだわってあら探しばかりしている素朴な批判者とは別の次元でものを語っています。

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 私自身も「何を発信していくか」という「制御」の意志を持って生きていきたいし、このブログではそうした「制御」の意志を持った人の発信を紹介していきたいと思います。

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※当ブログの主なテーマは、この世界を支配する「正しさ」という言葉のプロレスとの付き合い方。

http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2014/03/12/175400
※そのプロレス的世界観を支えている「記述信仰」の実態を、簡単な図にしてまとめています。

http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2014/07/06/051300