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間違ってもいいから思いっきり(市井人の日曜研究)

私たち人間は、言葉で物事を考えている限り、あらゆるものを「是か非か」と格付けする乱暴な○×ゲームに絶えず影響されています。ここでは、万人が強制参加させられているこの言語ゲームを分析し、言葉の荒波に溺れてしまわないための知恵を模索していきます。

おすすめの叱り方を紹介します

 あなたは正しい叱り方を知っていますか。
 「叱る」という行為は、家庭・学校・習い事・職場など、社会のさまざまな場所で行われます。
 中には「どう叱っていいのかわからない」と悩んでいる人もいるでしょう。

 私は「このように叱るのが正しい」と言える方法なんて知りませんが、「叱るときの心がけ」で良ければ私のおすすめを紹介できます。
 それは、自分が与えるかもしれないすべての不快感に責任を持つということです。

 私の言う「責任を持つ」とは、誰かに文句を言われたときに「自分のせいでその不快感が起こったのだな」とシンプルに受け止められる精神状態のこと。
 何はともあれ、自分に向けて文句が来るからには、自分の何かが相手を不快にしたということです。
 仮に相手の主張する内容に正当性が全くなかったとしても、残念ながら「自分が相手を不快にした」という過去は動かせません。

 こうした私の言い分に対して、自分は間違った行動を正しているのだけなのにそれを不快に思われたからと言って「自分のせい」と受け止めるなんて納得がいかないという人もいるでしょう。
 そのように思ってしまう人は事態をシンプルには受け止め切れておらず、ことの責任を「正しさ」という自分以外のものに押し付けようとしています。

 自分のやったことが正しかろうが正しくなかろうが、結果として自分が相手を不快にしたことには変わりありません。
 「正しさ」という理屈に逃げてしまわずに、まずは自分の引き起こした結果をシンプルに認めるところから始めてみましょう。

 私は別に、どんな理由があっても相手を不快にさせたなら自分の非を認めるべきだと言っているわけではありません。
 そうではなく、「間違っていたなら非を認める」とか「正しい行為なら許さなれる」なんて余計なことを考えている時点で、自分の引き起こした事態を冷静に受け止められる精神状態になっていないと言っているのです。
 「責任を持つ」というのは、「自分に返ってくるリアクションはすべて自分が引き起こした」という現実から逃げないというただそれだけのことです。

 教育に関わる人の多くは、「相手の将来のためにはこうすることが必要だ」と思って教育を行います。
 ですが、教育者は神ではありませんから、そうして行われた教育活動が本当に相手のためになるかどうかは結局のところ分かりません。

 その教育活動は、すんなりと相手に受け入れられるかもしれませんし、激しい反発に会うかもしれません。
 また、そのときは反発されたとしても将来「おかげさまで今の自分がある」と感謝されるかもしれないし、逆にすんなり受け入れられているように見えても将来「あの不当な支配のせいで前向きに生きられなくなった」と糾弾されるかもしれません。

 教育は相手あっての営みですから、教育者自身がいかに熟練しようとも、望んだ結果だけを引き起こすことは不可能です。 
 もちろん「できるだけ多くの望んだ結果を出したい」と教育方法を試行錯誤するのは大事なことです。
 しかし、「望んだ結果しか出したくない」と駄々をこね、「望んだ結果が出ないのは相手が悪かったから」「正しい教育法を誰も教えてくれなかったから」などと自分以外のものに責任を押し付けるのは大人のすることではありません。  

 ですから、指導的な立場の人は「自分の行いが望まない結果を引き起こす可能性だってあるが、それでも自分はこう関わる」と覚悟を決める必要があります。
 それが、自分が与えるかもしれないすべての不快感に責任を持つということです。

 私は『どうせなら背中で語ろう』という記事の中で、他人から「しなければならない」と無理強いされたものに前向きな興味なんて抱けるはずがないと書きました。

mrbachikorn.hatenablog.com


 これも、「しなければならない」と強制するのが間違った教育で、何も強制しないのが正しい教育だと述べたわけではありません。
 そもそもどんな動物だって弱肉強食という「強制の応酬」の下に生きていますし、私たち人間も基本的には同じ原則の中で生きています。

 私が危惧していたのは、「正しい」と思って強制を正当化している人ほど己の行動が相手に与えた不快感に鈍いということ。
 いくら「正しいこと」をしたからって強制には不快感という副作用がともないます。
 「その副作用を避けたいと思うのなら背中で語るという方法もある」というのがこの記事の意図でした。

 逆に、「副作用があったとしてもここだけは従わせなきゃいけない」「興味の質は前向きでなくてもかまわない」と思えるのであれば、潔癖的に強制を避ける必要はないでしょう。
 大事なのは「リスクはあってもそれを踏まえた上で私はやる」という有責感の自覚であって、「正しい強制ならば許される」という責任逃れのための言い訳ではありませんから。

 また、『なぜ勉強しなければならないのか』という記事では、私たちは近代的な文明社会に支配されているから学校での勉強を強制されているという話をしました。


なぜ勉強しなければならないのか - 間違ってもいいから思いっきり


 この理屈から言えば、現役の高校教師である私は、授業の中で子どもたちに勉強を強制する存在。
 もし授業を成立させるための指示に従わない生徒がいれば、何らかの指導を与えて指示に従わせようと試みます。

 ですから、授業の中で私から受けるこうした支配に、不快感を覚える生徒も少なからずいるはずです。
 私はそのことについて、生徒に悪いとも思いませんし、逆に理屈を付けて正当化しようとも思いません。 
 ただ、「これを不快に思う子もいるだろうな」と想定し、そのリスクも承知の上で「それでもやる」と覚悟を決めて選択するだけです。

 この「想定の上でそれでもリスクを選ぶ」という心理的プロセス抜きに、単純に「正しいからこうする」と信じこんでいるだけの人は、自分が与えている不快感の質にどこまでも鈍感になれます。
 正しさを信じて鈍感でいられるのはある意味幸せなことかもしれませんが、相手が鬱になるなどして「自分は鈍感なだけだった」と気付かされたときには、信じていた分だけショックも大きいでしょう。

 リスクの想定と覚悟という考え方については『責任ある大人のマナー』という記事の中で、自分が相手に及ぼす影響を当たり前に考慮に入れて全ての言動と付き合うことの重要性を説いています。 


責任ある大人のマナー - 間違ってもいいから思いっきり

 
 人が他人に対して何かを訴えているとき、そこで起こっているのは無垢な心情の告白や事実の記述なんかではなく「己の影響力の拡大」という手垢まみれの説得工作です。
 「是か非か」という作られた基準にばかり捉われていると、「自分がその泥臭い説得合戦の渦中にいる」ということをついつい忘れがちになります。

 しかし、叱るというのは自分の影響力を行使する行為です。
 どこの誰が「この叱り方が正しい」と保証したところで、「力を使う」という事実に変わりはありません。

 「自分が与えるかもしれないすべての不快感に責任を持つ」とは、「自分は力を使っている」という犯意を当たり前に自覚して生きるということでもあります。
 たとえ自分の叱り方が下手でも、「自分が力を使えば相手に影響を及ぼすことになる」と自覚することで、誰かが決めた「正しい叱り方」とやらに振り回されずに覚悟を決めることができます。

 「正しい叱り方が分からない」とオロオロするのは、覚悟が定まっておらず責任から逃れたいからです。
 生きている限り「影響力の応酬」という現実から逃れることはできません。

 「正しさ」という理想郷に逃げこんだところで、自分がやっていることに鈍感になれるだけで、あなたは結局力を行使し続けるのです。
 「こうあるべきだ」と保証してくれる思考停止の誘惑に悩まされている暇があったら、この世界で力を使いながら生きていく覚悟をとっとと決めてしまいましょう。



※当ブログの主なテーマは、この世界を支配する「正しさ」という言葉のプロレスとの付き合い方。

http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2014/03/12/175400
※そのプロレス的世界観を支えている「記述信仰」の実態を、簡単な図にしてまとめています。

http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2014/07/06/051300