間違ってもいいから思いっきり

私たち人間は、言葉で物事を考えている限り、あらゆるものを「是か非か」と格付けする乱暴な○×ゲームに絶えず影響されています。ここでは、万人が強制参加させられているこの言語ゲームを分析し、言葉の荒波に溺れてしまわないための知恵を模索していきます。

なぜ勉強しなければならないのか

 なぜ勉強しなければならないのか。
 これは、近代教育の制度がすでに完備された国々で、多くの子どもたちが頻繁に口にする愚痴です。


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 逆に、近代的な学校教育の制度が整備されていない国では、そのような声を聴くことは稀です。
 土着の伝統的な価値観の中で育っていく子どもたちは、その世界で生きていくのに無関係な「学校の勉強」なんて強制されることがないからです。

 そんな伝統的な価値観が支配する国でも「教育を受けたい」「教育を受けさせたい」と切望する人々が現れることがあります。
 それは、国全体でより多くの人々が生き残っていくためには、発達した近代テクノロジーの助けが必要だと判断するからでしょう。

 ですが、こうした近代教育の導入には激しい抵抗が起こることもあります。
 それは、近代教育がもたらすものがテクノロジーだけではないから。 
 近代教育に付き物である合理主義思想が持ち込まれることによって、彼らの大切にしてきた伝統的な価値観が危機にさらされることを恐れるからです。

 国家が教育を制度化する目的は、テクノロジーの発展と価値観の刷り込み。
 「国家による価値観の刷り込み」という営み自体は、北朝鮮でも中国でも韓国でも日本でもアメリカでもイギリスでもドイツでもフランスでも、どんな国でも多かれ少なかれ行われています。

 というか、家族、学校、会社、地域社会、国家など、たとえそれがどんな共同体であっても、その共同体が存続していくためにはメンバー同士が何らかの流儀を共有する必要があります。
 つまり、共同体が存続したいと願っている限り、そこに価値観の刷り込みという営みが生じていくこと自体は仕方のないことです。

 ですが、西欧で始まった近代化の背景には「支配の現実から人間を解放すべきだ」という、強大な大義名分が控えています。
 この近代思想はあくまでもヨーロッパ発祥のローカルな思想のはずですが、近代教育はこの大義名分を「ある地方における特殊な思想」としてではなく、合理的な理性によって発見された「全人類共通の普遍的な法則」として刷り込んでいきます。

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 人間はすべて自由を求め、物質的に豊かになることを求め、対等になることを求め、衛生的で健康的な生活を求めるものであり、共同体はそれらの価値を実現すべく進歩していくものである。
 こう刷り込んでいく近代思想は、結果的に世界中で育まれてきたそれぞれの伝統的な価値観を「不条理なもの」「非合理的な思い込み」「近代化を阻む障害」として一掃しようと働いてしまいます。

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 こうして、近代合理主義思想の刷り込みだけは「必要な教育」として正当化されるが、それに反する思想の刷り込みは時代遅れだと糾弾される国際的な同調圧力が出来上がります。
 「近代思想が理想とする価値の実現にどれだけ貢献したか」を評価して褒め称えるノーベル賞なども、こうした政治的圧力の一端を担っています。

 国連は「人権」「人道」という大義名分を掲げて価値観を画一化しようと圧力を強めていますが、実際に「伝統的な価値観がどこまで解体されているか」という事情は国によってさまざま。
 日本もこの近代思想の圧力の中でいくつもの伝統的な価値観を解体して「西欧型価値観を共有する良きパートナー」を演じてきましたが、それでもまだ「欧米に比べて遅れている」という批判を頻繁に被っています。


 一方、ロシア、中国、中東諸国などは西欧型価値観の伝染に抵抗しており、自由や民主主義などを普遍的な価値とは認めていません。
 それでも、西欧型近代思想は現代のこの世界で強大な影響力を行使しているため、価値観を共有しないこれらの国々もある程度までは近代思想と歩調を合わせざるを得ない場面が出てきます。 

 こうして眺めてみると、近代とはこの文明社会を牛耳っている巨大なヤクザ組織のようなものです。
 国連という寄り合いで一応の盃を交わしあった国民国家という組員たちは、近代思想の存在を完全に無視してこの国際社会を渡っていくことはできません。

 つまり、私たち現代人が命懸けのサバイバルをせずともぬくぬくと生きていけるのは、近代という巨大なヤクザ組織の傘下で文明社会のおこぼれに預かっているからです。
 他の動物に食い殺される心配をしなくて済むのは、大型獣を駆除できるだけの武力が人間にはあるから。
 地域住民からの略奪や殺人などをそれほど警戒しなくても済むのは、その共同体ごとの価値観や掟が住民に刷り込まれており、そこから逸脱しないよう法律や警察によって取り締まられているから。
 他国からの侵略戦争を常に警戒せずに済んでいるのは、国防を軍隊や自衛隊などに丸投げし、互いに「国際社会の仲間同士」という役柄を演じることでよその国からの軍事侵攻を牽制し合っているから。

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 ですから国家は、国という共同体が生き残っていくために、教育制度を通じて国内のテクノロジーを発展させ、国民に価値観を刷り込んでいこうとします。
 そこで国民に強制されるのが学問であり、そのおかげで「なぜ勉強しなければならないのか」という愚痴が生まれていくのです。

 この愚痴を緩和して国民を学問に誘導するために使われるのが「勉強は個人の幸せに繋がる」という方便であり、勉強の成果次第で社会的上昇を保証する公務員試験などの社会システムです。
 これによって「求める人が自ら望んでやるもの」だった学問は、「共同体存続のために押し付けられるもの」「社会的上昇への野心をくすぐる道具」へと貶められていきました。

 こうした世の中の状況をいくら嘆いたところで、近代という巨大勢力は現に圧倒的な支配力を行使し続けています。
 私たち文明人は近代という地上最強のヤクザの構成員として生まれてきましたので、その現実が気に入らないのならこの文明社会から脱退する道を探るしかありません。

 しかし、近代的な文明社会から脱退する覚悟がないのであれば、現に存在しているこの力関係と折り合いをつける必要があります。
 学問に興味のない人であっても学校で獲られるものが何かあるとすれば、それはこの社会と折り合っていくための生活の知恵。

 私自身は「数学を教える高校教師」という役割を演じることで、この西欧型文明社会の支配的な圧力と折り合いをつけています。

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 私は近代思想が作り上げた「個人の幸せのために勉強は必要」という方便を生徒に堂々と刷り込んでいける「理想的な教師」ではありませんが、やらざるを得なくて数学に取り組んでいる生徒たちに対して「支配される苦悩に共感を示しつつ彼らが必要とする範囲で数学を伝える」という仕事にはとてもやり甲斐を感じています。

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 なぜ勉強しなければならないのか。
 それは私たちが近代的な文明社会に支配されているからです。


※当ブログの主なテーマは、この世界を支配する「正しさ」という言葉のプロレスとの付き合い方。

http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2014/03/12/175400
※そのプロレス的世界観を支えている「記述信仰」の実態を、簡単な図にしてまとめています。

http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2014/07/06/051300