間違ってもいいから思いっきり

私たち人間は、言葉で物事を考えている限り、あらゆるものを「是か非か」と格付けする乱暴な○×ゲームに絶えず影響されています。ここでは、万人が強制参加させられているこの言語ゲームを分析し、言葉の荒波に溺れてしまわないための知恵を模索していきます。

数学を勉強して何の役に立つのか

 私は高校の非常勤講師として、パートタイムで数学を教えています。
 このような仕事をしていると、「数学を勉強して何の役に立つんですか」という質問を受けることがあります。

 このワンパターンな質問に対して、私は「どう役に立つのか」と愚直に解説することはあまりありません。
 こういう質問をする人は、「なぜ数学なんかを学校でやらなきゃいけないのか」といった反感を持っている場合がほとんど。
 そんな人相手に数学の魅力や有用性を説いたところで教師側からの押し付けと捉えられるだけで、反感を払拭する理由にはならないからです。

 ちなみに「なぜやらなきゃいけないのか」という質問に対して、高校生全般に通じる最大公約数の説明は「将来役に立つから」ではなく「日本の法律では数学の単位を取らないと高校卒業の資格が取れないから」です。
 そしてその次に来る理由が「受験に数学が必要なこともあるから」というもの。

 受験科目に数学が必要なければ受験数学をやる必要はありませんし、高卒の資格がいらなければ高校数学自体やる必要がありません。
 その上で数学をやるかやらないかは本人が選択すれば良いことです。
 このように、私は「なぜやらなきゃいけないのか」という質問に対しては、現行の制度についての解説しかしないことにしています。

 ですがそれは数学に魅力や有用性がないということではありません。
 数学への反感から「数学なんて何の役にも立たないじゃないか」というニュアンスで挑戦してくる人に対しては、以下のような返答を準備しています。

私自身は、どんな状況においても無意識のうちに数学で鍛えた発想力を役立てています。
ただ、どんな学びにも共通して言えることですが、学んだことを役立てられるかどうかは本人の学ぶ姿勢次第。

最初から学んでいるもの自体を軽視している人にとっては、どんなに実用的とされる学問であっても無用の長物でしかないでしょう。
数学が役に立たないと感じているのであればそうしてしまっているのは他でもない学習者自身ですので、役に立てられないことを数学という学問のせいにしてしまうのはお門違いです。

 この「どんな状況においても役立てられる」という返答に対して、「高校の数学なんて日常の場面でどうやって役に立てるのか」 と疑問に思う方もいらっしゃるでしょう。
 それについては以前勤めていた高校のホームページの教員紹介で少しだけ触れたので、ここで引用してみます。

内田樹の『寝ながら学べる構造主義』という書籍に次のような文章があります。

技芸の伝承に際しては『師を見るな、師が見ているものを見よ』ということが言われます。
弟子が『師を見ている』限り、弟子の視座は『今の自分』の位置を動きません。
『今の自分』を基準点にして、師の技芸を解釈し、模倣することに甘んじるならば、技芸は代が下がるにつれて劣化し、変形するほかないでしょう。

数学を学ぶ際にも同じことが言えます。
ただ公式を覚えて解法を暗記するだけでは、『その問題と初めて向き合った人』がどう考えてこの解法を編み出したかを理解することはできません。
そのような『未知の問題に出会った時の発想法』こそが、数学を学ぶことで得られるもっとも大きな財産です。

『師を見るな、師が見ているものを見よ』

皆さんも解法を学ぶ際は、まず『その問題と初めて向き合った人』の視座に立って疑問を持ち、どのような経緯で解法を編み出したかを追体験していってください。
『未知の問題に出会った時の発想法』とは、そのような追体験の積み重ねによって培われるのです。

寝ながら学べる構造主義 (文春新書)

寝ながら学べる構造主義 (文春新書)

 

  この教員紹介の補足になりますが、数学のことを「公式を使って問題を解く競技」としか捉えていない人は、「そもそも何故そのような問題を解く必要があったのか」という歴史的な背景を見落としがちです。
 ですが実際にはその時代ごとで「こういった問題を解決したい」という動機が先に存在していたわけで、まず最初に公式ありきではなかったのです。

 その時々で関心のある未解決問題をクリアするために、模索の末に生み出された便利な発明品というのが数学における公式の位置付けです。
 そういった『未知の問題に出会った時の発想法』の宝庫が数学という学問であり、学習者にそのつもりさえあれば「見たことのない問題に対峙したとき、いかに振る舞うべきか」という発想のヒントを掴むこともできるのです。

 数学というのは、数ある学問の中でも圧倒的なバリエーションの問題を、未解決状態から解決済み状態にクリアしてきた実績を持っています。
 私自身は学生時代の授業の場でそれらのプロセスを勝手に追体験していたので、論理的思考の経験を効率よく積み重ねることができました。
 そして、校外模試などの度に味わえる「知らない問題に対して自分はどれほどの対応ができるか」という思考トレーニングの面白さにハマり、大学まで数学を専攻してしまったというわけです。

 大学で専門分野での数学の世界を味わい、しばらくすると「己の理解力を試す」という数学そのものへのワクワク感がなくなってしまいました。
 そして私の興味は数学そのものから遠ざかっていき、そこで培った発想力を用いて自分を取り巻く現実世界を豊かにしていくことの方に移り変わっていきました。

 そのために19歳のころから取り組み始めたのが、自分はどのような信念のもとに生きていくのかという問題です。
 数学における隙のない論理展開にハマっていた自分にとって、巷に転がっている数多の主義・主張・哲学などはどれもこれも合理性の低い粗悪品ばかりで、参考にして受け入れる価値のあるものはほとんど見いだせませんでした。
 そこで必然的に、自分にとってより合理性の高い信念の在り方を模索し始め、20代前半のうちに以下のような考え方にたどり着きました。

「正しさ」というのは集団心理によってでっちあげられた概念に過ぎず、そんな他人の言い分に振り回されて生きるのは馬鹿馬鹿しい。
どうせならば自分好みの世界観でのびのびと生きていこう。

幸せのために最優先で取り組むべき課題は「楽しみ」を生み出すことであり、人生におけるその他の要素は2番手以降の雑事に過ぎない。
そして世の中の全ての不幸は、その優先順位の取り違えから生まれる。

 数学の世界で「真偽」という正しさの基準に向き合い続けてきたからこそ、世の中で振り回されている「正しさ」の欺瞞にどこまでも敏感になれたんだと思います。
 というわけで、数学を勉強して役に立つことは、少なくとも私の場合はこれくらいありました。
 全ては学ぶ人の姿勢次第です。


※当ブログの主なテーマは、この世界を支配する「正しさ」という言葉のプロレスとの付き合い方。

mrbachikorn.hatenablog.com
「正しさ」というゲームの最大の欠陥は、何を「正しい」とし何を「間違ってる」とするのかというルールや、その管理者たるレフェリーが、実際にはどこにも存在しないということ。
人類はこれまで数え切れないほどの論争を繰り広げてきましたが、それらのほとんどは「レフェリーの代弁者」という場を仕切る権限をめぐっての権力闘争でした。
 
「レフェリーの代弁者」という立場は、自分の個人的な要求でしかない主張を、まるでこの世の既成事実のように見せかけるための隠れ蓑です。
「それは正しい」とか「それは間違ってる」という言い方で裁きたがる人たちは、私はこの世のレフェリーの代弁をしているだけなんだという迫真の演技で己の発言の圧力を高めていたのです。
 
演技の迫力とは、演技者が役にどれだけ入り込めるかで決まるもの。
人々はいつしかレフェリーの代弁者のふりが説得のための演技であったことを忘れ、「どこかに本当の正しさがあるはず」といった物語を本気で信じこんでしまいます。
こうして人類の間には、「正しさ」という架空のレフェリーの存在をガチだと捉えてしまう、大がかりなプロレス社会が成立していきました。

そのプロレス的世界観を支えている固定観念の源を「記述信仰」と名付けました。
以下の記事では、この「記述信仰」の実態を上のような簡単な図まとめて解説していますので、ぜひご一読ください。

mrbachikorn.hatenablog.com