間違ってもいいから思いっきり

私たち人間は、言葉で物事を考えている限り、あらゆるものを「是か非か」と格付けする乱暴な○×ゲームに絶えず影響されています。ここでは、万人が強制参加させられているこの言語ゲームを分析し、言葉の荒波に溺れてしまわないための知恵を模索していきます。

集団心理という災害

 東日本大震災が起きた2011年3月11日の昼すぎ、私はライブハウスで和太鼓演奏のためのリハーサルをしていました。
 そのときはライブの準備で忙しくしていたため、「東北の方で地震が起きたらしい」という以上の大した情報は入ってきませんでした。
 そうして夜はほとんど何も知らない状態で演奏し、ライブ後にメンバー同士で反省会をしてからすぐに帰宅して、そのまま深い眠りにつきました。

 翌朝目覚めてからインターネットに接続してみたところ、前日の地震が未曾有の大惨事へと発展していたことを初めて知りました。
 そしてSNSは数日のうちに、「電気がもったいないからコンビニや飲食店は深夜営業をするな」「企業はもっと救援物資を送れ」「有名人はもっと寄付しろ」といった他人に社会貢献を強要したがる声や、「私は節電をする」「今日は募金をしてきた」などと自らの善行をアピールする声で溢れていきました。
 というか、この種の「震災のための発信」しか許されないような威圧感がSNS内を支配しており、その雰囲気を少しでも乱そうものなら【非国民】の烙印を押されかねないような勢いすら感じられました。

 これほどまでに国民全員に震災へのシンパシーを強要するこのムードは、戦前の日本を戦争に向かわせたヒステリー状態と似ているんだろうなという思いが何となくありました。
 ですが、そんな見解をインターネット上にアップしようものならヒステリーに囚われた人々から徹底的に糾弾されるだろうと思い、SNSに何かを書き込むときは思い入れの激しい人々にも届きやすい言葉を慎重に選びながら「被災地にいない自分たちは落ち着いていつも通りの生活に専念しよう」という発信を恐る恐る続けていました。

 そんな折、震災から10日目の3月21日に、Twitterで作家の高橋源一郎のつぶやきと出会いました。
 集団ヒステリーを気にしながら言葉を選んでいた貧弱な私とは違い、高橋源一郎は「被災地のために良いことをしろと強要してくる世間の声に押しつぶされるな」と、巷を支配する正論強弁者たちと真っ向からぶつかるような言葉を吐いていたのです。
 以下にそのつぶやきの全文を引用したいと思います。

「午前0時の小説ラジオ・震災篇」・「祝辞」・「正しさ」について
http://togetter.com/li/114124

今年、明治学院大学国際学部を卒業されたみなさんに、予定されていた卒業式はありませんでした。
代わりに、祝辞のみを贈らせていただきます。

いまから四十二年前、わたしが大学に入学した頃、日本中のほとんどの大学は学生の手によって封鎖されていて、入学式はありませんでした。
それから八年後、わたしのところに大学から「満期除籍」の通知が来ました。
それが、わたしの「卒業式」でした。
ですから、わたしは、大学に関して、「正式」には「入学式」も「卒業式」も経験していません。
けれど、そのことは、わたしにとって大きな財産になったのです。

あなたたちに、「公」の「卒業式」はありません。
それは、特別な経験になることでしょう。
あなたたちが生まれた1988年は、昭和の最後の年でした。
翌年、戦争と、そしてそこからの復興と繁栄の時代であった昭和は終わり、それからずっと、なにもかもが緩やかに後退してゆきました。
そして、あなたたちは、大学を卒業する時、すべてを決定的に終わらせる事件に遭遇したのです。

おそらく、あなたたちは「時代の子」として生まれたのですね。
わたしは、いま、あなたたちに、希望を語ることができません。
あなたたちは、困難な日々を過ごすことになるでしょう。
あなたたちの中には、いまも就職活動をしている者もいます。
仮に就職できたとして、その会社がいつまでも続く保証はありません。

かつて大学生はエリートとされていました。
残念ながら、あなたたちはもはやエリートではありません。
この社会に生きる大多数の人たちと同じ立場なのです。
だからこそ、あなたたちの生き方が、実は、この社会を構成する人たちみんなの生き方にも通じていることを知ってください。

わたしは、この学校に着任して六年、知識ではなく、あなたたちに「考える」力を持ってもらえるよう努力してきました。
その力だけが、あなたたちを強くし、この社会で生き抜くことを可能にすると信じてきたからです。
あなたたちは、十分に学びましたか?
だったら、その力を発揮してください。
まだ、足りないと思っていますか? 
では、社会に出てからも、努力し続けてください。

あなたたちの顔を見る最後の機会に、一つだけ話したいことがあります。
それは「正しさ」についてです。

あなたたちは、途方もなく大きな災害に遭遇しました。
確かに、あなたたちは、直接、津波に巻き込まれたわけでもなく、原子力発電所から出る炎や煙から逃げてきたわけでもありません。
けれど、ほんとうのところ、あなたたちはすっかり巻き込まれているのです。

なぜ、あなたたちは「卒業式」ができないのでしょう。
それは、「非常時」には「卒業式」をしないことが「正しい」といわれているからです。

でも、あなたたちは納得していませんね。
どうして、あなたたちは、今日、卒業式もないのに、少し着飾って、学校に集まったのでしょう。
あなたたちの中には、少なからず疑問が渦巻いています。
その疑問に答えることが、あなたたちの教師として、わたしにできる最後の役割です。

いま「正しさ」への同調圧力が、かつてないほど大きくなっています。
凄惨な悲劇を目の前にして、多くの人たちが、連帯や希望を熱く語ります。
それは、確かに「正しい」のです。

しかし、この社会の全員が、同じ感情を共有しているわけではありません。
ある人にとっては、どんな事件も心にさざ波を起こすだけであり、ある人にとっては、そんなものは見たくもない現実であるかもしれません。

しかし、その人たちは、いま、それをうまく発言することができません。
なぜなら、彼らには、「正しさ」がないからです。

幾人かの教え子は、「なにかをしなければならないのだけれど、なにをしていいのかわからない」と訴えました。
だから、わたしは「慌てないで。心の底からやりたいと思えることだけをやりなさい」と答えました。
彼らは、「正しさ」への同調圧力に押しつぶされそうになっていたのです。

わたしは、二つのことを、あなたたちにいいたいと思っています。
一つは、これが特殊な事件ではないということです。
幸いなことに、わたしは、あなたたちよりずっと年上で、だから、たくさんの本を読み、まったく同じことが、繰り返し起こったことを知っています。
明治の戦争でも、昭和の戦争が始まった頃にも、それが終わって民主主義の世界に変わった時にも、今回と同じことが起こり、人々は今回と同じように、時には美しいことばで、「不謹慎」や「非国民」や「反動」を排撃し、「正しさ」への同調を熱狂的に主張したのです。

「正しさ」の中身は変わります。
けれど、「正しさ」のあり方に、変わりはありません。
気をつけてください。
「不正」への抵抗は、じつは簡単です。
けれど、「正しさ」に抵抗することは、ひどく難しいのです。

二つ目は、わたしが今回しようとしていることです。
わたしは、一つだけ、いつもと異なったことをするつもりです。
それは、自分にとって大きな負担となる金額を寄付する、というものです。
それ以外は、ふだんと変わらぬよう過ごすつもりです。

けれど、誤解しないでください。
わたしは「正しい」から寄付をするのではありません。
わたしはただ寄付をするだけで、偶然、それが、現在の「正しさ」に一致しているだけなのです。

「正しい」という理由で、なにかをするべきではありません。
「正しさ」への同調圧力によって、「正しい」ことをするべきではありません。

あなたたちが、心の底からやろうと思うことが、結果として、「正しさ」と合致する。
それでいいのです。
もし、あなたが、どうしても、積極的に、「正しい」ことを、する気になれないとしたら、それでもかまわないのです。

いいですか、わたしが負担となる金額を寄付するのは、いま、それを心からはすることができないあなたたちの分も入っているからです。
三十年前のわたしなら、なにもしなかったでしょう。
いま、わたしが、それをするのは、考えが変わったからではありません。
ただ「時期」が来たからです。

あなたたちには、いま、なにかをしなければならない理由はありません。
その「時期」が来たら、なにかをしてください。
その時は、できるなら、納得ができず、同調圧力で心が折れそうになっている、もっと若い人たちの分も、してあげてください。
共同体の意味はそこにしかありません。

「正しさ」とは「公」のことです。
「公」は間違いを知りません。
けれど、わたしたちはいつも間違います。
しかし、間違いの他に、わたしたちを成長させてくれるものはないのです。
いま、あなたたちが、迷っているのは、「公」と「私」に関する、永遠の問いなのです。

最後に、あなたたちに感謝のことばを捧げたいと思います。
あなたたちを教えることは、わたしにとって大きな経験でした。
あなたたちがわたしから得たものより、わたしがあなたたちから得たものの方がずっと大きかったのです。
ほんとうに、ありがとう。

あなたたちの前には、あなたたちの、ほんとうの戦場が広がっています。
あなたを襲う「津波」や「地震」と、戦ってください。
挫けずに。
さようなら。
善い人生を。

 この力強いメッセージに、当時の私は強烈に胸を打たれました。
 そして、「正しさ」に抵抗する難しさという一大テーマを、このように生々しく語ることができる高橋源一郎に強烈な憧れを抱きました。

 私がブログを始めたきっかけも、そんな論者たちへの憧れからだったのかもしれません。
 このブログでは、私たちに襲いかかる言葉の「津波」や「地震」と向き合っていくため、「正しさ」に抵抗する私なりの術を描いているつもりです。


確固たる信念なんていらない - 間違ってもいいから思いっきり

 

 私の場合はまだまだ理屈っぽくて、内田樹高橋源一郎など憧れの人たちの説得力には遠く及びません。
 ですが、それでも今の私にできる精一杯をここで表現していきますので、今後ともお付き合いいただければ幸いです。


※当ブログの主なテーマは、この世界を支配する「正しさ」という言葉のプロレスとの付き合い方。

http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2014/03/12/175400
※そのプロレス的世界観を支えている「記述信仰」の実態を、簡単な図にしてまとめています。

http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2014/07/06/051300