間違ってもいいから思いっきり

私たち人間は、言葉で物事を考えている限り、あらゆるものを「是か非か」と格付けする乱暴な○×ゲームに絶えず影響されています。ここでは、万人が強制参加させられているこの言語ゲームを分析し、言葉の荒波に溺れてしまわないための知恵を模索していきます。

どちらを想定外にしますか?

 「何でこんな簡単なこともできないんだ?」というのは、教えるのが下手糞な人の決まり文句です。
 できない人に教えるための第1歩は「できないということがどこまでありうるか」という想像力の範囲を広げること。
 
 このことを、中学校の理科で習う電流計にたとえてみましょう。
 電流計のマイナス端子には、5A・500mA・50mAの3種類が用意されています。
 たとえば75mAの電流を測りたいと思ったらどの端子を選べばよいのでしょうか。
 
 50mAの端子を選んだ場合、測ることのできる最大の電流が50mAまでしかないということですから、75mAの電流を測ろうと思ったら針が振り切れてしまいます。
 この場合だと電流が50mAより大きいということは分かりますが、100mAかもしれないし、1Aかもしれないし、どれくらい大きいかということが分かりません。
 
 5Aの端子を選んだ場合、5Aとは5000mAのことですから、75mAは目盛り全体の1.5パーセント程度しかありません。
 電流計の目盛り自体がそんなに大きくないので、電流が小さいことはわかりますが、細かな差はよく分かりません。
 
 500mAの端子を選んだ場合、針は目盛り全体の15パーセントのところを指すことになり、かなり正確な測定をすることができます。
 
 さらに多くの端子を備えた電流計を想像してみましょう。
 5pA(1兆分の5A)・50pA・500pA・5nA(10億分の5A)・50nA・500nA・5μA(100万分の5A)・50μA・500μA・5mA(1000分の5A)・50mA・500mA・5A・50A・500A・5kA(5000A)・50kA・500kA・5MA(500万A)・50MA・500MA・5GA(50億A)・50GA・500GA・5TA(5兆A)・50TA・500TAなど端子が多ければ多いほど、さまざまな大きさの電流をより正確に測定することができます。
 
 ここで生徒の実力の「高さ」を、電流の「小ささ」「細かさ」でたとえてみましょう。
 そうすると、生徒の実力が高ければ高いほど電流は小さくなるので細かい枠組みで測定せねばならず、生徒の実力が低ければ低いほど電流は大きくなるので大きな枠組みで測定せねばなりません。
 つまり、さまざまなレベルの生徒に合わせて指導できるのは、この端子の種類を豊富にとり揃えている指導者だというわけです。
 
 「何でこんな簡単なこともできないんだ?」と腹を立てる指導者は、この端子の品揃えが悪い先生です。
 最大で5Aまでの端子しか持っていない指導者は、4.2Aの実力の生徒が3.8Aに向上するのをサポートすることはできます。
 しかし23.5Aの生徒については、その実力を測ろうとしても針が振り切れてしまいますから手の施しようがありません。
 
 では23.5Aの実力しかない生徒について、この指導者は対応できないのでしょうか。
 それは、この指導者が50Aの端子を身につけようとするかどうかにかかってきます。
 もし教師が50Aの端子を身につけることができれば、生徒はその教師のもとで23.5Aの実力を20A→15A→10A→5Aと上げることができ、当初の目的である5Aの端子の範囲内での指導に移ることができるでしょう。
 
 しかしそれが分からない指導者は、ここで努力とか才能とかいう概念を持ってきます。
 自分の指導できる枠組みに生徒が入ってこれないのは、「本人の努力が足りないからだ」とか「どうがんばってもあいつの能力では無理だ」という方法で説明してしまうのです。
 
 「やればできる」とか「自分から取り組まなきゃ駄目だ」という精神論や、「できるやつにはできる、できないやつにはできない」という才能論で、自分の技術の低さをごまかすのは簡単です(指導の技術としての精神論もありだと思いますがここでは取り上げません)。
 しかし、ここで自分の技術の低さを認めて必死で想像力を働かせられる指導者は、自分の使用できる端子の種類を増やしていくことができます。
 
 では、私自身がどうやってこの端子を増やしてきたかについて説明してみましょう。
 私がまず思い当たったのは「自分も生まれたときからできていたわけではない」というシンプルな事実でした。
 つまり私はできない状態からできる状態に変化してきたわけです。
 
 その変化が起こったのは、できるために必要な「ステップの超え方」を知ったからです。
 私は、この「ステップの越え方」のほとんどは才能として生まれ持ったものではなく、無意識のうちに知識として身につけたものだと考えました。
 
 問題は、そのとき知った「ステップの越え方」がどんなものだったかということです。
 今では当たり前だと思っている「できる状態」を、自分はどのような「ステップの越え方」を用いて手に入れてきたかと必死に想像力を働かせることで私はこの端子の数を増やしてきました。
 
 そう考えるようになったきっかけは、家庭教師を始めた大学1年のときに「数学と理科がまるでできない」という生徒と出会ったこと。
 この生徒は高校受験を控えていましたが、数学は計算問題くらいしか手がつかないし、理科は計算が絡むとほとんど無理で、天体の動きや化学変化などの仕組みも理解できていませんでした。
 
 しかし、この生徒には明確な目標とやる気を備えていました。
 生活リズムを自分の責任で管理し、毎日の勉強のスケジュールをみっちり組んで実行していました。
 分からないことがあると納得できるまで喰らいついてくる根性もありました。
 
 そんな意志の強さに尊敬の念を覚えながら、私はこの生徒が理解できるような説明を必死で考えました。
 小・中・高と暗記の絡まない分野に関しては特に苦労することなく習得してこれた私は、「どうして自分にそんな偶然が起こったんだろうか」と思い返してみました。

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 自分は数学を分かっていくために必要な数量や論理の概念を、たまたま日常から実感として身につけていたから分かっていたのです。
 つまり、分からない生徒はそれらの機会とたまたま出会っていなかったというだけ。
 私の役割は、その出会いを再現して提供することでした。
 
 まずは自分が分かってきた概念や感覚をくだけた言葉で説明して、直感的に理解してもらうことからはじめました。
 抽象的な数式で説明するのは後回しです。
 そのような実感を伝えることで徐々に説明を具体的なものから抽象的なものへとランクアップさせていき、とうとう数式を用いて問題が解けるところまで持っていくことができました。
 
 生徒も私も大喜びでした。
 そうして生徒は無事に、第一希望の高校へ行くことができました。
 このような幸せな出会いを経て、私はさまざまな段階の端子を用意するという方法を覚えたのです。
 
 さてここから先は、指導者がある程度多くの端子を持っていると仮定しましょう。
 「初めて出会う生徒」にものを教える場合、指導者はその豊富な選択肢からどの端子を選べばよいのでしょうか。
 ここは指導者によって意見が分かれるかもしれませんが、私の意見は「自分が持っている端子の中で、1番大きなものから使い始める」というものです。
 
 最初に2番目以降の大きさの端子を使うということは、相手がそれより大きな端子のレベルをすでにクリアしていると仮定しているということです。
 言い換えるなら、「相手はこのくらいできるだろう」と勝手に期待してしまっているのです。
 
 勝手に期待していたことが裏切られたらどうなるでしょうか。
 電流計の喩えで言えば、針が振り切れます。
 ただ振り切れるだけなら端子を選びなおすだけで話は済みますが、振り切れるときに針には衝撃が加えられるので故障の原因になるかもしれません。
 
 これを生徒に当てはめると、「このくらいできるだろう」というつもりで与えられた説明を理解できなかった生徒はショックを受けます。
 後に1ランク下からの説明をされたとしても、「自分のレベルへの認識を下方修正された」という事実が残ってしまいます。
 
 「そんなことでいちいちショックを受けるのがおかしい」という意見ももっともですが、私は無用なショックは与えないに越したことがないという考え方をします。
 生徒の耐性によっては、その程度のショックでもやる気をなくしてしまう場合があるからです。
 指導の最終目的は、生徒ができるようになることであって生徒ができないことを指摘して裁くことではありませんから、「いかに生徒をやる気にさせるか、いかにやる気を削がないか」というのは重要な問題です。
 
 また、教える側の心理も重要です。
 期待したレベルを生徒がクリアしてなかった場合、「これもできないのか」とがっくりしてしまうのです。
 それが積み重なると苛立ちに変わっていきます。
 
 「私は人にものを教えるのが苦手」という人には、この苛立ちを我慢できないという人が多いです。
 しかし、最初から相手のレベルに期待せずにもっとも大きな端子から使い始めれば、教えられる側・教える側双方のリスクを最小限に抑えることができるのです。
 
 「最初から生徒の実力に期待しないのは失礼だし、レベルの高い生徒は馬鹿にされたと感じるだろう。」という反論もあるかもしれませんが、私はそうは思いません。
 生徒のレベルよりかなり低いところから説明をスタートしたとしましょう。
 その生徒にとって、説明されているステップはすでにクリアしてしまったところなので簡単にクリアできます。
 簡単なレベルから順を追うことで、これからやるステップの全体的な位置づけも分かりますし、注意深い生徒ならそこまでの説明を自分なりに噛み砕いて人に伝えることもできるでしょう。
 少なくとも「分からない説明をされて苦痛を覚える」ということはありません。
 
 また、指導者は「生徒は何も知らなくて当たり前」だと仮定しているので、思いもかけない生徒のレベルの高さに「分かってるなら話が早い、次の説明に移ろう!」と喜ぶことができます。
 指導者が自分の能力への認識を上方修正して喜んでいるのを見て、生徒も悪い気はしません。
 生徒のレベルにフォーカスを合わせるまでの短い間に「え?あれもできるの?これもできるの?できない人も多いんだよ、すごいね君!」という、双方にとって幸せな前置きが出来上がるのです。
 このように、「これくらい分かるだろう」と決め付けない、勝手な期待をせずに一番大きな端子から始める、というのは教える側と教えられる側の双方にとって望ましい理想的な戦略だと思います(徹底して実践するのはなかなか難しいですが)。
 
 そして、このことは対人一般にも拡張することができます。
 私は対人関係において「人に勝手な期待をかけない」というマナーを採用することにしています。
 これは「どうせ人には何も期待できない」というネガティブな思い込みとは違います。
 「人に何かが期待できる」ことも「人には何も期待できない」ことも決め付けずに、節度を持って「期待できるかどうかは分からない」とだけ認識しておこうということです。
 
 この節度が守れずに他人に対して期待していることが多すぎる人は、対人関係のどんなすれ違いにも過敏に傷ついてしまいます。
 仲良くなれない、意見が合わない、理解されない、親切にされない、愛されない、などといちいち愚痴っている人は、そもそも仲良くなれて意見がかみ合って理解されて親切にされて愛されるのが「当たり前」なのかを冷静に検討してみましょう。
 
 最初からどれも満たされていないのが「当たり前」だととらえていれば、どれか1つでも満たされていると感じられれば自分の中でプラスに受け止めることができます。
 しかし、どれもこれも満たされている状態を「当たり前」に設定している人は、1つでも満たされないことがあればマイナスに換算してしまうわけです。
 
 「期待する」ことにするか「期待しない」ことにするか。
 私なら、「人に勝手な期待を抱いて、想定外のマイナス要素と出会ったときにピーピー嘆く」よりは、「人に何も期待しないで、想定外のプラス要素と出会ったときに素直に喜ぶ」ほうが自分の心の健康にも良いと考えます。
 そういう意味で「人に勝手な期待をかけない」というのは、教える場面だけでなく対人関係一般においてなかなか効果的な戦略だと思いませんか。

幸せはいつもちょっと先にある―期待と妄想の心理学

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※当ブログの主なテーマは、この世界を支配する「正しさ」という言葉のプロレスとの付き合い方。
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そのプロレス的世界観を支えている固定観念の源を「記述信仰」と名付け、その実態を以下のような図にまとめて解説しています。
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