間違ってもいいから思いっきり

私たち人間は、言葉で物事を考えている限り、あらゆるものを「是か非か」と格付けする乱暴な○×ゲームに絶えず影響されています。ここでは、万人が強制参加させられているこの言語ゲームを分析し、言葉の荒波に溺れてしまわないための知恵を模索していきます。

岸見アドラー学の功績

宗教が力を持っていた時代であれば、まだ救いもあったでしょう。
神の教えこそが真理であり、世界であり、すべてだった。
その教えに従ってさえいれば、考えるべき課題も少なかった。
 
しかし宗教は力を失い、いまや神への信仰も形骸化しています。
頼れるものがなにもないまま、誰もが不安に打ち震え、猜疑心に凝り固まっている。
みんな自分のことだけを考えて生きている。
それが現代の社会というものです。
 
 これは、アドラー心理学の啓蒙活動を行っている哲学者岸見一郎とフリーライター古賀史健による共著『嫌われる勇気――自己啓発の源流「アドラー」の教え』に登場する青年の台詞です。
 この本は岸見一郎をモデルとした哲学者と、悩み多き青年との対話という形式で進んでいきます。
 「人は変われる、世界はシンプルである、誰もが幸福になれる」というアドラー心理学の教えに対して、青年が反論として述べたのが冒頭に引用した世界観です。

嫌われる勇気―――自己啓発の源流「アドラー」の教え

嫌われる勇気―――自己啓発の源流「アドラー」の教え

 
 青年が主張する「宗教が力を失ったせいで人々には従うべき確かな基準がなくなり『自分はこれで良いのか』という不安を拭えない人が救われにくくなった」という問題意識自体は特に珍しいものではありません。
 多くの人にとって「何をするかは己の責任で判断すべき」という自己責任の考え方は少々荷が重いもの。
 どんなに時代が変わっていっても、 占い、宗教、科学、スピリチュアル、自己啓発など、自分以上の権威に判断を委ねたいと願ってしまう人々の性分はそれほど変わっていません。 mrbachikorn.hatenablog.com
 
 たとえば、フロイトから精神分析を学び臨床の現場でカウンセリングに携わっていたユングも、現代の心の問題の多くは神話を持たないことによって生じる虚無感や孤独感が一因となっているという問題意識を持っていました。
 「人は何のために生きているのか」という理由を神話の中に見出だすことができた時代は自分の存在意義について思い悩むことは少なかったが、人々の支えとなる神話が単なる迷信として解体されてきた現代ではそうした確信を持つことが難しい。
 そんな問題意識から彼は西洋と東洋それぞれに伝わる神話や伝説などの言い伝えには洋の別に関係なく共通の要素を数多く発見できたことから、人類の心の奥深くには共通した「集合的無意識」が存在するという仮説を編み出します。
 
 「深い部分ではみんな繋がっている」という風に解釈できる集合的無意識の概念は、悩める人々を救うための「失われた神話」の代替物とも呼べるもの。
 ユングの心理学には「グレートマザー」「老賢者」「セルフ」といった神秘的な用語が多用されているためかオカルト的な救いを求めたがる人々には好評で、その分かりやすい方便はカウンセリングの場面でも効果的に機能しています。mrbachikorn.hatenablog.com
 
 心理学の父と呼ばれるフロイトは「オカルト的な要素を科学に持ち込むべきでない」と、ユングのこうした独自のやり方を否定していました 。
 フロイト自身は「心の問題の根本には必ず性的欲求(リビドー)が関係する」という仮説で無意識の構造を説明し、カウンセリングの場面で効果をあげていましたが、フロイトのこの理論自体も「性欲だけでは人の心理は説明できない」とか「無意識などという実証しようがない概念を科学に持ち込むべきでない」といった批判を受けています。mrbachikorn.hatenablog.com
 
 このように科学と臨床の2つの顔を持つ心理学では、「その理論は本当に正しいのか」という科学的な厳密さへのこだわりと「どうすれば人は救われるのか」という臨床の場面での効能を求める姿勢との間で食い違うことがしばしばあります。
 二人と同時代に活躍した心理学者のアドラーは、この三人の中でも「どうすれば人は救われるのか」という後者の視点にもっともこだわった人物と言えます。
 『嫌われる勇気』においてもアドラー心理学は「幸せになるための思想」として扱われており、それ自身が科学として厳密であるかどうかという前者の視点にはさほどこだわっていないようです。
 
 つまり、最近流行りの「アドラー心理学」は、科学的に発見された客観的な事実というよりは、人が救われるためにはどうすればいいかという問いに対するアドラーなりの個人的な処方箋だと言えるでしょう。
 まずは『嫌われる勇気』の目次から一部を抜粋して、彼の処方箋の概要を覗いてみたいと思います。
 
トラウマは、存在しない
人は怒りを捏造する
過去に支配されない生き方
あなたの不幸は、あなた自身が「選んだ」もの
なぜ自分のことが嫌いなのか
すべての悩みは「対人関係の悩み」である
劣等感は、主観的な思い込み
承認欲求を否定する
「あの人」の期待を満たすために生きてはいけない
「課題の分離」とは何か
対人関係のゴールは「共同体感覚」
なぜ「わたし」にしか関心がないのか
あなたは世界の中心ではない
より大きな共同体の声を聴け
叱ってはいけない、ほめてもいけない
ここに存在しているだけで、価値がある
自己肯定ではなく、自己受容
普通であることの勇気
無意味な人生に「意味」を与えよ
 
 これらの目次を見ても分かるように、アドラー心理学には特別な専門用語がほとんど使われておらず、常識的な範囲の平易な言葉がふんだんに使われています。
 その言葉遣いの分かりやすさのおかげなのか、デール・カーネギー著の『人を動かす』、スティーブ・コヴィー著の『7つの習慣』、リチャード・カールソン著の『小さなことにくよくよするな』など、アドラー思想の要素を採り入れた著書は世界的なヒットとなり、今日に至る自己啓発ブームの礎を築きました。
 
 ギリシャ哲学を専門としていた岸見一郎は、初めてアドラー心理学と出会ったとき、それがギリシャ哲学をルーツとする思想であることに気付き、その幸福論の洞察の深さに感銘を受けて、ギリシャ哲学と平行してアドラー心理学を学ぶことになります。
 アドラー心理学に使われているギリシャ哲学とは、その前提となっている認知論(人は客観的な世界ではなく自分が意味付けした主観的な世界に生きている)や、「どこから」という原因ではなく「どこへ」という目的を問う目的論など。
 
 アドラーに拠れば、トラウマなど過去の経験に現在の症状の原因を見出だすフロイト流の精神分析は、「あらゆる結果の前には原因がある」とする原因論や「現在・未来の私は過去の出来事によって決定済み」とする決定論に繋がるもの。
 そのように原因論や決定論に囚われている限り、現在の症状は過去の経験から生まれる必然としてしか意味付けされず、前に進むための原動力にはならないというのが、フロイトのトラウマ理論に対するアドラーの異議申し立てでした。
 目的論を採るアドラーにとっての心理的症状とは、過去の経験から導き出される仕方のない結果ではなく、己の目的を叶えるために使用される手段でしかなかったのです。mrbachikorn.hatenablog.com
 
 そういった哲学的な観点からアドラー心理学の目的論を支持していた岸見一郎にとって、原因論への囚われや他人を操作したがる欲求を捨てきれない「形だけのアドラー心理学」がアドラー研究者の間で蔓延している状況や、フロイトユングの陰に隠れてアドラーの功績がほとんど知られていないという日本国内での知名度の低さなどがもどかしかったのでしょう。
 彼は1996年からアドラーの著作の翻訳書を出し始め、1999年からは自分でもアドラー心理学に関する入門書を次々と出していくことで、啓蒙活動を精力的に行っていきます。
 
 そして2013年に古賀史健と共に出版した『嫌われる勇気』がベストセラーになったことで、日本でもようやくアドラーの名前が一般にまで浸透し始めました。
 「心理学の三大巨頭」「自己啓発の源流」といった謳い文句とも相まって、ブームに乗ったアドラー関連の書物が次々と出版されるようになっています。
 
 このブームに乗ってアドラー心理学に手を出す人のうち、どれだけの人が認知論や目的論など岸見一郎の重視する哲学的な観点を理解するかは分かりません。
 薄っぺらな理解で「使えない」と放り出して次の人生指南を求める人や、「今のトレンドはアドラー」とばかりにビジネスライクにつまみ食いするだけの人には、どうでもいい面倒な話として流されていくでしょう。
 
 しかし、中には本当に哲学的な観点から幸せというものを見つめ直して、これ以上他の人生指南に手を出す必要がなくなる人も出てくるはずです。
 ビジネスにおける箔付けや民衆の扇動のためにいい加減に利用されることの多い心理学の世界ですが、どうせなら「それだけじゃないんだよ」と語る専門家の声にしっかりと耳を傾けていきたいものですね。mrbachikorn.hatenablog.com
 
  
※当ブログの主なテーマは、この世界を支配する「正しさ」という言葉のプロレスとの付き合い方mrbachikorn.hatenablog.com

※そのプロレス的世界観を支えている「記述信仰」の実態を、簡単な図にしてまとめています。mrbachikorn.hatenablog.com