日本では、選挙のたびにその投票率の低さが問題になります。
メディアやネットには、選挙に行かない人の言い分を封じ込めるために、「投票しないやつには政治に意見する資格などない」「選挙に行かないやつは非国民だ」といった主張が溢れます。
それに対して「政治に意見するのに資格がいるなんて法はない」という反発も起こります。
この「投票に行くこと」ばかりを大袈裟に取り沙汰する風潮に対して、「日本は民主主義を根本的に誤解している」と説くのは弁護士の升永英俊です。
彼は東京プレスクラブからのインタビューに、以下のように応じています。
「民主主義っていうのはね、権力闘争なんだよ!」
民衆は権力闘争のプレーヤーなんだよね、本当は。
ところが観客の意識でしょ。
その代わり罵詈罵倒するんだ。
日本は権力闘争やることを馬鹿にして軽蔑して見下すでしょ。
民主主義の発想違うんですよ。
(権力闘争を軽蔑する民衆によると)
権力闘争やるのは政治家なんだよ。
あれは下劣な奴がやる事だ。
我々は大所高所に立って政治家をあれこれ見下すのが仕事だと。
(こういう当事者意識がない人は)
自分がだれに投票するかしか関心がない。
だから権力闘争にならないわけですよ。
こんなの一票なんてのはね一億人中の一人分しか発言力ないんだから。
この一票を二十票にして自分の発言力を増やして権力を握ろうと、自分の発言する政党に権力を握らせようという利害関係を感じてないんですよ。
投票に行く事はなんかいい人のすることで、行かない人は悪い人という仕分けじゃなくて。
要するにお金の取り合いでゴリゴリの権力闘争をやろうよっていうことじゃないと。
選挙っていうのはそういうもんだよと。
だからあなた一人で行ったってしょうがないんだよと。
行こうよってのはあなた一人で行こうよってことでしょ?
あなた一人で行ったって、たった一票じゃないのと。
あなた、自分と同じ意見の人を百人そろえるのに一年かけて頑張んなさい。
そういう運動をしなきゃ駄目だよ。
(支持者なり支持政党なりに)
寄付しなさいと。
そして彼は、税金の使い道をめぐって国民同士で堂々と権力闘争を繰り広げるアメリカの例を述べながら、日本はそのような実のある民主主義を一回も経験していないと断じます。
さらに、そんなアメリカでも実際の投票率は日本より低いのだから、日本の民主主義の成熟に必要なのは、投票率の向上よりも権力闘争のプレーヤーとしての当事者意識の方だと言うのです。
そう言う彼自身は、権力闘争のプレーヤーの一員として、日本に「健全な権力闘争ができる環境」を整えるための運動をしています。
全国民に平等な一票が与えられていない現在の選挙区割では、互いに権力闘争をしようにも国民一人一人の条件が全くフェアではありません。
だから、一票の格差問題に違憲判決を行わない最高裁判事を国民審査という正統な手続きでやめさせて、国会や内閣や裁判所に「一人一票」を実現するための圧力をかけていこうというのが彼の活動目的だそうです。
「東京は一人0.23票、北海道は0.21票しかない。これで得をしているのは政治家だけです」
「『一人一票』に反対する最高裁判事を罷免することで本当の民主主義を実現しよう」
私自身は、升永氏の「民主主義とは権力闘争だ」という見解そのものには全面的に賛成です。
ですが、具体的な政治運動に加担しようとしない日本の民衆が、権力闘争に全く参加していないとも思いません。
そうではなく、積極的な政治運動を嫌い、投票率をめぐる低レベルな口論くらいしか起きないこの冷めた現状こそが、日本で長らく積み重ねられてきた民衆同士の扇動合戦の結果なのです。
民主主義がその他の統治システムよりもマシなのは、権力闘争に参加するためのルールが「公開されている」という点にあります。
もしこのルールが公開されていなければ、封建主義時代のように暴力を背景にした統治者が力ずくで好き勝手をすることができます。
一般の民衆がその権力闘争に加わろうと思ったら、民衆の方も武力蜂起などの暴力に訴えるしかありません。
ですが、現代の日本は民主主義のルールが公開されているおかげで、暴力的な手段を持たない一般の民衆でも権力闘争の輪に加われることになっています。
日本の政治を変えたいと思う人がいれば、自分の意思に賛同する人を数多く集めて、国会議員の過半数を当選させれば良いのです。
このように、選挙とは「どれだけ大規模に徒党を組み合えるか」という国民規模での派閥争いでしかありません。
そして、日本人が得意とするのは論点をあらわにして正々堂々と議論することではなく、集団心理による同調圧力に訴えかけて他人の行動を遠回しに制限することです。
升永氏が問題視する権力闘争を見下す傾向も、日本人らしい遠回しな説得工作の一つに過ぎません。
この日本人特有の同調圧力の結果として、「表立った政治運動には加わらないが投票にだけは行く人が偉そうにしている」という、なかなか不思議な現象が起きているのです。
これは、日本における権力闘争のされ方が分かりにくいというだけで、日本国民が権力闘争をしていないというわけではありません。
日本の民衆の間では、金のぶん取り合いである民主主義のシステムよりも、メンツや体裁をめぐるマウンティングの方が流行ってしまっているということだけのことです。
日本の低い投票率は、これまで日本で行われてきた国民同士の粘着質なやり込め合いの結果でしかありません。
「選挙に行かない人は一人前と認めない」という類いの同調圧力は使い古され過ぎて既に賞味期限が切れかかっていますので、今さら日本の投票率を上げるのに役には立たないでしょう。
そもそも「正しさを盾に人をやり込める」というやり口の効力自体が、だんだんと薄れている時代です。
自分の賛同者を増やしたいのに思うようにいかずに「世の中間違ってる」と八つ当たりの説教ばかりしてしまっているような人は、「不愉快な説教」以外の魅力的な説得の手段を考えた方が賢明でしょうね。
※当ブログの主なテーマは、この世界を支配する「正しさ」という言葉のプロレスとの付き合い方。
http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2014/03/12/175400
※そのプロレス的世界観を支えている「記述信仰」の実態を、簡単な図にしてまとめています。