間違ってもいいから思いっきり(市井人の日曜研究)

私たち人間は、言葉で物事を考えている限り、あらゆるものを「是か非か」と格付けする乱暴な○×ゲームに絶えず影響されています。ここでは、万人が強制参加させられているこの言語ゲームを分析し、言葉の荒波に溺れてしまわないための知恵を模索していきます。

堂々となんとなく生きる

揺るぎない信念を持とう。
その信念が、あなたの思考を力に変えるのだ。
信念が願望や目標と結びついたとき、あなたの望みは実現する。

思考は現実化する―アクション・マニュアル、索引つき

思考は現実化する―アクション・マニュアル、索引つき

 

 これは、全世界で7000万部を売り上げたというナポレオン・ヒルの著書「思考は現実化する」の有名な一節です。
 この文章に出てくる「信念」は、個人の願望を実現する素敵な魔法のようなものとして描かれています。

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確固たる信念なんていらない。
個々の信念が確かなものである必要はない。
自分の信念が確固たるものだと思い込める人によって、正しさのマウンティングがしばしば引き起こされる。

 そしてこれは、このブログで前々回から書いてきた私の言葉です。
 ここで私が使っている信念という言葉は、ナポレオン・ヒルや他の自己啓発ビジネスが使う便利な道具としての信念とは少々意味合いがズレています。
 このズレは、焦点をあてているのが個人のあり方なのか、他人を含めた世の中のあり方なのかという違いから生まれます。

 自己啓発ビジネスなどが関与したいのは個人のあり方を支えるための信念。
 「世の中はこうだ」「だから人はこう生きるべきだ」と固く信じて疑わずにいられれば、「だから私はこう生きる」という自分の選択が「ゆえに私はこれで良い」と保証されたかのような安心感が得られるのか、こうした自己啓発ビジネスには一定のニーズがあります。

 「ゆえに私はこれで良い」というカウンセリング効果や、「だから私はこう生きる」という個人的な行動の促進のために信念が使われること自体、私は別に反対ではありません。
 そうだと思い込むことでその人が生きやすくなると言うのなら、本人にとっては万々歳でしょう。

 しかし、「世の中はこうだ」「だから人はこう生きるべきだ」といった世の中のあり方についての信念が、他人のあり方にまで口を挟もうとする場面があれば話は別です。
 自己肯定感や個人の行動を促進するための手段でしかない信念が、他人のあり方を裁く武器として使われるのなら、私は「正しくない」とマウンティングされる側の味方になろうと思います。


確固たる信念なんていらない - 間違ってもいいから思いっきり


 たとえば、「自然由来でない食品は体に有害だ」「だから人は自然な食品だけを食べるべきだ」と確信する人が「だから私は自然食だけを食べる」と実践したおかげで「ゆえに私はこれで良い」と自己肯定できて生きやすくなっているのなら、それはそれで素晴らしいことだと思います。
 ですがその信念を確固たる正しいものだと思い込んだがゆえに「あなたが食べているそれは有害だからもう食べない方がいい」と他人を裁きにかかる人がいれば、私はそう脅迫されて「食べない方がいいのだろうか」とモヤモヤしている人の方をフォローしたいです。

 そもそも動物はみな、個々の性質と不確かな現状認識に基づいて、さまざまな行動を次々と決定していく生き物。
 ヒトも動物の一種ですから、他の動物と同様に個々の性分や大雑把な勘や身に付いた習慣を根拠に行動しています。

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 文明人は自分たちのことを実態よりも理性的な存在だと思いたがる節がありますが、実際は勘や好みや習慣によって無意識的に下してしまった決定を「合理的に正しく判断した」などと後付けのこじつけで賢そうに装っているだけ。
 「私は確固たる信念を持っている」と自称する人も、そんなものは持たずになんとなく生きているという人も、結局は動物的にしか生きていないのであり、質的に大した差などありません。

 ですから、揺るぎない信念を持っていると自称する人を相手にしても、別に気後れする必要なんてないのです。
 相手は「こちらには揺るぎない信念と正当性がある」という思い込みにすがって動物的なマウンティングを仕掛けてきているだけであって、本当にあなたより正しいわけではありませんから。

 私たちが生きている人間界は「信念を持って生きる姿こそが美しい」といった刷り込みが横行している圧力社会です。
 その刷り込みが行き届いた弱肉強食の猿山では、分かりやすい正しさを上手にショーアップできた人こそが、自作自演のハッタリによって相手をマウンティングすることができます。

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 この同調圧力によって、分かりやすい信念を持たない人は「自分はなんとなく生きていて良いのだろうか」といった罪悪感を感じさせられています。
 逆に言えば、こうした信念至上主義の刷り込みにさえ屈しなければ、ストレスフルな茶番とも付き合わずに済むはずです。

 一見偉そうに見える信念の人も、勘や好みや習慣でなんとなく生きている同じ動物でしかありません。
 暑苦しい人々の押し付けがましいハッタリや雑音は放っておいて、堂々となんとなく生きちゃいましょう。


※当ブログの主なテーマは、この世界を支配する「正しさ」という言葉のプロレスとの付き合い方。

http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2014/03/12/175400
※そのプロレス的世界観を支えている「記述信仰」の実態を、簡単な図にしてまとめています。

http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2014/07/06/051300