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間違ってもいいから思いっきり(市井人の日曜研究)

私たち人間は、言葉で物事を考えている限り、あらゆるものを「是か非か」と格付けする乱暴な○×ゲームに絶えず影響されています。ここでは、万人が強制参加させられているこの言語ゲームを分析し、言葉の荒波に溺れてしまわないための知恵を模索していきます。

確信できなくても大丈夫

 前回「確固たる信念なんていらない」という記事を書かせてもらいましたが、これによって「そもそも信念なんていらない」と訴えているかのような誤解も招いたようです。

http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2015/01/04/102726
 そうではなく、私が書きたかったのは「個々の信念が確かなものである必要はない」ということであり、「自分の信念が確固たるものだと思い込める人によって正しさのマウンティングがしばしば引き起こされる」ということでした。

 たとえば、「霊を信じるか?」という質問をされた場合、自分はどういう態度をとるかという問題があります。
 私は子どものころから「霊なんているわけがない!」「いいや、霊はいる!」といういがみ合いをする人たちのことをなんとなく「馬鹿みたいだな」と思っていましたが、それがどういう考えに基づくものかは説明できないので、自分のこの問いに対する態度を上手く打ち出せないでいました。

 しかし、大学生のころから私は「霊が存在することも信じないし、存在しないことも信じない」と、自信を持って答えられるようになりました。
 なぜなら私は、霊が存在することも証明できないし、霊が存在しないことも証明できないからです。

 数学を専攻していた私にとって「信じる」「信じ込む」というのは証明ができていない予想を勝手に正しい定理だと思い込むようなものでした。
 証明ができていない予想については「まだわからない」と答えるのが数学の節度ですから、霊がどうのという以前に「信じる」「信じ込む」という行為そのものが私にとってはマナー違反だったのです。
 こうして私は、証明できないような現実世界のほとんど全ての事柄に対して、「信じない」「自分には分からない」と胸を張って言えるようになりました。

 科学の理論ももちろん例外ではありません。
 この頃から「万有引力の法則を信じない」なんてことも抵抗なく主張できるようになりました。
 万有引力の法則だって「もしそうなら観測結果と辻褄が合う」という程度の仮説であり、「なぜこの現実世界においてそんな法則が成り立つのか」という理路がすっきり説明されたわけではありませんから。
 「なぜ成り立つか」と聞かれても「実際に観測してみたらそれっぽくなっているから」としか答えられないでしょう。

 ただこの主張については「霊の話なんかと一緒にするな」という科学の側からの反論が予想できましたし、私も霊の話と科学の話が同じだとは思っていませんでした。
 ここで数学的な意味での「証明」と現実世界の可能性との関係について考えてみましょう。

 もし「***であること」が証明された場合、実際に***である可能性は100パーセントになります。
 もし「***でないこと」が証明された場合、実際に***である可能性は0パーセントになります。
 「***であること」も「***でないこと」も証明されていない場合、実際に***である可能性は0パーセントより大きく100パーセントより小さいとしか言えません。

 ちなみに最後の場合、実際に***である可能性は0パーセントと100パーセントの間で幅があり、「それっぽさ」の度合いがどれも同じというわけではありません。
 霊の話にしても万有引力の法則にしても、証明ができない以上は「それっぽさ」の次元での話であり「正しい」「正しくない」と結論を下せるような問題ではありません。
 しかし、両者の持つ「それっぽさ」の度合いは全然違うだろうと思っていました。

 私の中でのまともな科学とは、100パーセントの理論なんて無茶な大風呂敷を広げずに、考えうる範囲でよりそれっぽい仮説を探していこう、そして地道な検証によって仮説の持つそれっぽさを高めていこうという節度をもったシステムのことでした。
 その意味で「霊はいない!」と決めてかかる既存科学の盲信者はまともな科学者には見えませんでしたし、「霊はいる!」と言い切る人が提出する証拠も十分なものには見えませんでした。

 私がこの両者に共通して感じたのは「そのように断言してよいものか」という節度の無さだったというわけです。
 では、数学的な証明という手段が通じない現実世界を語る際に、科学が取り入れている節度とはどんなものなのかを見てみましょう。

 たとえば「すべてのカラスは黒い」という仮説を立てたとします。
 この仮説を証明するためには何羽かのカラスが黒いことを言うだけでは足りません。
 全てのカラスを観察してどれもこれも黒いことを確認しなければなりませんし、たとえ全てのカラスを確認できたとしても「本当に全てのカラスを観測したのか?まだ発見できていないカラスがいるんじゃないのか?」という問いに対して納得のいく説明が必要になります。

 逆にこの仮説が間違っていることを証明するのは簡単です。
 「全てのカラスは黒い」の否定は「黒くないカラスが存在する」ですから、黒くないカラスを一羽連れてくることができれば仮説が間違っていることを証明できます。

 そして仮説が正しいことも間違っていることも証明できない場合には、その仮説が「どの程度それっぽいか」という説得力の違いが出てきますが、ここから先の議論にはもう数学的な「真か偽か」といった語り口は意味を持ちません。
 この説得力というのは聞き手が受け取る印象の話ですから、そんな個人個人の感情の絡んでくる問題をすっきり説明しようとするのは難しいでしょう。
 世の中には「霊はいる!」という言い分に説得力を感じる人もいれば、「霊はいない!」という言い分に説得力を感じる人もいるわけですから。

 ここで私好みの意見を言わせてもらえば、仮説の説得力はどれほどの反証をくぐってきたかという実績に裏付けられます。
 「カラスは黒いに決まってるんだから黒いカラスをいっぱい見つけてきてやろう」という人が100羽の黒いカラスを連れてきても、そのように節度の欠けている人の言うことは信用に値しません。

 なぜなら、そんな人は仮に黒くないカラスを見つけたとしても、自分が出したい結論に不利になる結果は無視するかもしれないからです。
 霊がどうのという議論の場にはこういった方々が数多くいらっしゃるように見えたので、私は「まず結論ありき」のその姿勢にうんざりしていたのでした。

 しかし、「黒くないカラスもいるかもしれないからカラスの色を一羽ずつ確かめていこう」という節度をもって100羽のカラスを観察した人の言うことなら、「なるほどそれっぽいね」という説得力を感じられます。
 そしてこの「それっぽさ」は、検証したカラスの数が多ければ多いほど高まっていきます。
 一億羽の検証データをもってこられたら、それが真理であることの証明にはなっていなくても、「だいたいそうだろうね」という気分にはなってきます。

 つまり私にとってのまともな科学とは、たとえ「それが真理だ」と証明できなくても、実際のデータによって「だいたいそうだろう」ということが言えれば「まあそれで良し」とする節度をもったシステムのことなのです。
 この節度を保っているかという意味において、「科学は真理を述べており絶対に正しいはずだ」という固い信仰を持つ人はまともな科学者とは呼べません。

 不確かな要素を含む現実世界を語ることに関して、節度を持って取り組んできた歴史が科学にはある。
 自分もそんな科学を見習って、現実世界においては「だいたいそうだろう」と思える「それっぽさ」を追求していこう。
 確信のようなものが得られることはまずないだろうけど、別にそれでもかまわないじゃないか。

 当時の私は苦心の末にこんな結論を出しました。
 しかし今度は哲学のほうから文句をつけられるかもしれません。

そんなことを言っても自分が今立っている大地が明日なくなるかもしれないとは疑ってないだろう?
それは大地が明日も存在し続けると信じてるってことじゃないか。

 でも私はもうこんな言いがかりにはびくともしません。
 この言い分は、「確信していなければ疑っているということであり、疑っていなければ確信しているということだ」という二者択一的な考えを前提としています。

 しかし私は「疑いの余地は残してあるけど積極的に疑ったりはしない」という中途半端な立ち位置もありだと考えました。
 私は「大地が明日も必ずある」とは信じていません。
 ですが、「大地が明日も本当にあるだろうか」といちいち疑ったりもしませんし、「明日も大地はあるだろう」ということを無言の前提として先々の予定を組んでいます。

 私が言いたいのは、「現実世界における行動は、どれもこれも確信を根拠としたものじゃないといけないのか」ということです。
 そういうのは節度を知らない子どもの言い分だと思います。
 「だいたいそうだろう」というあやふやな根拠が行動の基準でもかまわないじゃないですか。

 科学は「それが真理である」という根拠を提出することはできませんが、「だいたいそうだろう」という仮説を積み重ねることでたくさんの成果を出しています。
 今では結核だって治療できるし月にロケットだって飛ばせます。

 これらの成果に「その理論を真理として確信しているか」という信仰的な要素は大して関係ありません。
 「これは絶対に正しい」と思ってたって、「だいたいこんなもんじゃないかなあ」と思ってたって、同じことさえやっていれば同じ結果が出せるでしょう。
 別に根拠があやふやだって、人は行動できるし前にも進めるのです。

 そしてこの両者の間では「実は仮説が間違っていた」というときの対応力が違います。
 「これは絶対に正しい」と思い込んでる人は、そうではない現実と出会ったときに「こんなことが起こるなんてありえない!」という裏切りのショックで、目の前で起きている現実を許容するのに苦労するでしょう。
 もとの仮説への未練から、「それが真理だ」と思い込むことができた過去に想いを馳せて「絶対に正しかったはずなのに・・・」と感傷に浸ることに時間をとられ、そのためにこれからの自分の行動に必要となってくる「目の前の現実に適応する」という建設的な作業に遅れが生じてしまいます。

 しかし、「だいたいこんなもんじゃないかなあ」とアバウトに捕らえている人は違います。
 「これは絶対に正しい」と思い込んでるわけではないので、そうではない現実と出会っても「なんだ違ったのか」と、はずれてしまった予想をあっさり撤回するだけです。
 もともと証明できていることなんて何ひとつなかったんだから、そこで無駄にショックを受けてる暇があったら目の前の現実を新たな考えの材料としてさっさと受け入れて、「だいたいそうだろう」と思えるような次の仮説の可能性を検討し始めればよいのです。

 思い通りになるはずのない現実をただの思い込みで決め付けておいて、それが裏切られたからといって認めないなんて私には身勝手で傲慢な行為にしか思えません。
 「現実はこうあるべきだ」なんて勝手な期待はかけずに、たまたま予想したとおりの結果と出会えれば幸運だったと喜ぶ、というのが現実に対しての節度ある付き合い方だと私は思います。
 このような考えにも裏付けられて先ほどの結論に至ったのです。

現実世界においては「だいたいそうだろう」と思える「それっぽさ」を追求していこう。
確信のようなものが得られることはまずないだろうけど、別にそれでもかまわないじゃないか。


※当ブログの主なテーマは、この世界を支配する「正しさ」という言葉のプロレスとの付き合い方。

http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2014/03/12/175400
※そのプロレス的世界観を支えている「記述信仰」の実態を、簡単な図にしてまとめています。

http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2014/07/06/051300