『機動警察パトレイバー』とは、レイバーというロボット技術を応用した作業機械が、軍事や海底探査や大規模な建設工事の場面にまで広く普及した近未来を描いたSF作品。
この物語に登場するのは、レイバーを悪用した犯罪やテロに対応するため、警察内に設置されたレイバー部隊。
といっても「作業ロボットが頻繁に登場する」という設定以外は私たちとほとんど変わらない日常が舞台となっており、ロボットアクションというよりむしろ現代社会の複雑な利害関係の中で起こる人間模様の方がリアルに描かれています。
2015年公開の『THE NEXT GENERATION パトレイバー 首都決戦』は、1993年のアニメ作品『機動警察パトレイバー 2 the Movie』の続編と言うべき作品。
両作品の監督である押井守は22年前の前作において、東京で起こった疑似クーデター事件を描き、竹中直人が演じる荒川という自衛官に「日本の戦争観の幼稚さ」を語らせています。
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俺たちが守るべき平和。
だがこの国のこの街の平和とは一体何だ。
かつての総力戦とその敗北。
米軍の占領政策。
ついこの間まで続いていた核抑止による冷戦とその代理戦争。
そして今も世界の大半で繰り返されている内戦、民族衝突、武力紛争。
そういった無数の戦争によって合成され支えられてきた、血まみれの経済的繁栄。
それが俺たちの平和の中身だ。
戦争への恐怖に基づくなりふり構わぬ平和。
正当な対価を、よその国の戦争で支払い、そのことから目を反らし続ける不正義の平和。
平和という言葉が、嘘つきたちの正義になってから、俺たちは俺たちの平和を信じることができずにいる。
戦争が平和を生むように、平和もまた戦争を生む。
その成果だけはしっかり受け取っていながら、モニターの向こうに戦争を押し込め、ここが戦線の単なる後方に過ぎないことを忘れる。
いや、忘れたふりをし続ける。
荒川が言う「嘘つきたちの正義になった平和」とは、例えば「戦争や人殺しは絶対悪であり決して許されない」というレッテル貼りであり「世界中の皆が武器を捨て戦争を止めれば平和が訪れる」といった非現実的な妄想のことでしょう。
歴史を見れば「戦争と平和」は表裏一体の概念でしかなく、戦争や殺人から切り離された「無垢な平和」など過去に存在した試しがありません。
今日私たちが野生動物から食い殺される脅威に怯えずに済むのは、「そこにいたはずの動物たち」を殺したり追い出したりして人間専用の居住地を切り開いてくれた先人がいてくれたから。
今日私たちが日本国内で治安の保たれた暮らしを享受できているのは、過去の数々の戦によって国土が統一され、殺人や略奪を取り締まれるだけの実力を持つ行政組織ができたから。
今日私たちが他国からの武力侵攻に合わずに済んでいるのは、武力にものを言わせて世界を席巻してきたアメリカの軍隊を国内に駐留させているから。
どれだけ高潔な理想論をかざしたところで、誰かがどこかで武力を備えてくれなければ、私たちは自分の身の安全を守れていないはずです。
ですが、現代の日本社会は敗戦のトラウマや戦後教育から戦争行為や暴力行為が必要以上にタブー視されてしまっているため、実際に武力を用いて我々の安全を守ってくれている人々の存在はほとんど顧みられることがありません。
ですから私たちは、私たちの安全を保障するために、いくつもの前線で武力がふるわれているという事実をいとも容易く忘れてしまいます。
ですが、限りあるこの地球上で、生きる糧を得るための戦いが途絶えたことはありません。
そして、生きるための糧を確保し、外敵から身を守るために、人類が編み出したが独自の戦略こそが「武器の使用」です。
荒川が言うように、私たちがぬくぬくと暮らしているこの「平和」な日常の世界は、単なる「戦線の後方」に過ぎないのです。
「どんな理由があっても人殺しは許されない」といった道義的な主張が優勢でいられるのも、それを押し付けられるだけの軍隊や警察といった殺傷能力の後ろ楯があってこそ。
mrbachikorn.hatenablog.com
どれだけきれいごとを並べ立てたところで、人殺しを抑えこめるのは「人を殺せる力」でしかありません。
mrbachikorn.hatenablog.com
もし仮に「戦争や人殺しは絶対悪であり決して許されない」とか「世界中の皆が武器を捨て戦争を止めれば平和が訪れる」といったお題目を唱えながら、別の局面では「野生動物に食い殺されるのは嫌だ」とか「隣人や隣国に襲われるのは嫌だ」なんて自分の身の安全を優先しているのであれば、それはまさに「嘘つきの正義」でしょう。
言うなれば、他人に「汚れ仕事」をさせておきながら「人は手を汚してはならない」と叫んで「汚れ仕事の従事者」を貶めるような、厚顔無恥な行為です。
物語の終盤、疑似クーデターの首謀者である柘植は、埋め立て地から東京の街を眺めながら「あの街が蜃気楼の様に見える」と語ります。
彼の犯行の動機は政権の転覆などではなく、いかにも「戦争とは無縁だ」という素振りで経済的繁栄を享受しているこの国の人々に、「この見せかけの平和は無数の武力行使による血まみれの獲得品であり、空虚な平和論を唱えるだけで維持できるものではない」と知らせることだったのでしょう。
警察官という立場で街の治安を守る南雲は「例え幻であろうとあの街ではそれを現実として生きる人々がいる」と応答し、住民たちの「平穏な生活」を脅かした柘植を逮捕します。
「俺もその幻の中で生きてきた。そしてそれが幻であることを知らせようとした」と答える柘植は、疑似クーデターを通じて「平和ボケした国民への啓発」という当初の目的をすでに達成していたために、甘んじて逮捕を受け入れます。
この柘植と同じ目的の啓発行為を、映画という手段で行っているのが押井守と言えるでしょう。
22年前に一度アニメで表現されたテーマが、今度は実写でどう描かれているのでしょうか。
http://patlabor-nextgeneration.com/movie/patlabor-nextgeneration.com
※当ブログの主なテーマは、この世界を支配する「正しさ」という言葉のプロレスとの付き合い方。
http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2014/03/12/175400
※そのプロレス的世界観を支えている「記述信仰」の実態を、簡単な図にしてまとめています。