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間違ってもいいから思いっきり(市井人の日曜研究)

私たち人間は、言葉で物事を考えている限り、あらゆるものを「是か非か」と格付けする乱暴な○×ゲームに絶えず影響されています。ここでは、万人が強制参加させられているこの言語ゲームを分析し、言葉の荒波に溺れてしまわないための知恵を模索していきます。

ノンポリとして政治を眺める

ノンポリ
ノンポリは、英語の「nonpolitical」の略で、政治運動に関心が無いこと、あるいは関心が無い人。
元は1960-70年代の日本の学生運動に参加しなかった学生を指す用語である。
 
政治にまったく興味を持たなかった人だけではなく、政治問題に関心はあるものの次第にセクト化・過激化していった学生運動を嫌い、特定の党派に属することを拒否した人々(ノンセクト・ラジカル)なども含まれていた。
無党派の中の消極的無党派ノンポリと呼ぶことがある。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8E%E3%83%B3%E3%83%9D%E3%83%AA
 
 Wikipediaにおけるこの定義に従うならば、どんな政治運動にも荷担する気がない私の立場は「ノンポリ」に分類されます。
 これは「お前はどちらの味方か」という党派的な対立に関与するのが嫌いということであり、政治問題自体に関心がないわけではありません。
 これまでも、そういった下世話な対立の構造に簡単に組み入れられないようにと気をつけながら、自分なりに政治の問題を考えてきました。mrbachikorn.hatenablog.com
 
 とは言っても、「それを語っている当のお前は右寄りなのか左寄りなのか」とか「その発言は結局のところ現政権を批判しているのか擁護しているのか」という党派性の問題が、政治の話題をするときには必ず付いて回ります。
 この世の中では、「何が理に叶っているかを冷静に考えたい」という人の落ち着いた声よりも、「どちらの味方なのかはっきりしろ」という単細胞な人の叫び声の方が、どうしてもやかましく響きわたってしまうのです。
 
 しかし、「意見を持つこと」と「どちらかの味方をすること」は決して同じではありません。
 右派にしろ左派にしろ、私は「どちらの味方かという受け取り方しかできない湿った情念が気持ち悪い」という感性の持ち主ですので、どちらの味方とも誤解されないような言葉選びを慎重に心掛けています。mrbachikorn.hatenablog.com
 
 だからと言って「自分はどちらの味方でもなく、ただ客観的に物事を判断しているだけ」と自称する人間の言い分を鵜呑みにするのも危険です。
 それは、世に溢れる「右とか左とかではなく先入観抜きに真実だけを見つめよう」といった中立めいた発言は、多くの場合、どちらかの政治的立場に引き込むための巧妙な誘い水になっているから。
 怪しまれないようにと自身の立場を隠しながら接近して、客観的な事実を教えるようなふりをして「あなたは分かってない、本当はこうなのだ」と偏った信条を刷り込むその手法は、カルト宗教やカルトビジネスの洗脳のやり口にそっくりです。
 
 政治だろうが宗教だろうがビジネスだろうが、私は「真実に目覚めないと酷い目に会うぞ」「真剣に考えないやつがそんな態度でいるからこの世がおかしくなるんだ」などと恫喝することで自身の勢力に組み入れようとしてくる輩が、生理的に大嫌いです。
 私がこのブログで発信しようとしているのは、そんなうるさい小虫どもを遠ざけて近寄らせないための知恵でもあります。
 
 そのための一つの方法として、世間に溢れる「正論めいた脅迫」を気にしないでいられる気の持ちようを、私なりの視点から紹介しています。mrbachikorn.hatenablog.com
 特に政治の話題については、人生を豊かにするための「建設的な政治との関わり方」として4種類の在り方を紹介しました。 mrbachikorn.hatenablog.com
 
①世の中を直接動かす人になる
②政治運動に積極的に参加する
③政治を会話のネタにする
④政治に期待をかけず自分の人生に専念する
 
 この4つの順番は一応、政治にかける熱量が大きいとされる順に並べたもの。
 注意したいのは、自分の人生を豊かにするための政治との付き合い方は人それぞれであり、政治にかける熱量の大きさの差がそのまま人間性の高低に繋がるわけではないということ。
 ですがこの世には、こうした政治への熱量の差を根拠に、自分より熱量の低い相手を見下そうとする面倒くさい輩が一定数存在します。
 
 もしあなたが、そういった自称「真面目な人」から「あなたは政治に対して不真面目だ」とか「そんないい加減な人がのさばっているから世の中よくならないんだ」などと責められても、そんな使い古された決まり文句を真に受けて真剣に悩んだりする必要はありません。
 「この人はこのように言うことで自分なりの満足を守ろうとしてるんだな」ととらえて済ませればそれで十分です。mrbachikorn.hatenablog.com
 
 私に政治的な立場があるとすれば、それは「人がノンポリでいることを応援する」ということ。
 それは「ノンポリを攻撃する右派を責める」ということでも「ノンポリを攻撃する左派を責める」ということでもありません。

 そんな風に、立場の違う相手を攻撃したがる人がこの世に存在するのは、ヒトが感情を持った動物である以上仕方のないこと。
 だから、ノンポリである私たち自身が「正論めいた人格攻撃」をさらっと受け流すことのできる大人になろうという、建設的で前向きな提案なんです。

 
※当ブログの主なテーマは、この世界を支配する「正しさ」という言葉のプロレスとの付き合い方。mrbachikorn.hatenablog.com 
「正しさ」というゲームの最大の欠陥は、何を「正しい」とし何を「間違ってる」とするのかというルールや、その管理者たるレフェリーが、実際にはどこにも存在しないということ。
人類はこれまで数え切れないほどの論争を繰り広げてきましたが、それらのほとんどは「レフェリーの代弁者」という場を仕切る権限をめぐっての権力闘争でした。
 
「レフェリーの代弁者」という立場は、自分の個人的な要求でしかない主張を、まるでこの世の既成事実のように見せかけるための隠れ蓑です。
「それは正しい」とか「それは間違ってる」という言い方で裁きたがる人たちは、私はこの世のレフェリーの代弁をしているだけなんだという迫真の演技で己の発言の圧力を高めていたのです。
 
演技の迫力とは、演技者が役にどれだけ入り込めるかで決まるもの。
人々はいつしかレフェリーの代弁者のふりが説得のための演技であったことを忘れ、「どこかに本当の正しさがあるはず」といった物語を本気で信じこんでしまいます。
こうして人類の間には、「正しさ」という架空のレフェリーの存在をガチだと捉えてしまう、大がかりなプロレス社会が成立していきました。

そのプロレス的世界観を支えている固定観念の源を「記述信仰」と名付けました。
以下の記事では、この「記述信仰」の実態を上のような簡単な図まとめて解説していますので、ぜひご一読ください。mrbachikorn.hatenablog.com