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間違ってもいいから思いっきり(市井人の日曜研究)

私たち人間は、言葉で物事を考えている限り、あらゆるものを「是か非か」と格付けする乱暴な○×ゲームに絶えず影響されています。ここでは、万人が強制参加させられているこの言語ゲームを分析し、言葉の荒波に溺れてしまわないための知恵を模索していきます。

寄生獣に見る「過大な正義感」の正体

地球上の誰かがふと思った

人間の数が半分になったらいくつの森が焼かれずにすむだろうか……

 

地球上の誰かがふと思った

人間の数が100分の1になったらたれ流される毒も100分の1になるのだろうか……

 

誰かがふと思った

『生物の未来を守らねば……』

 

 これは、岩明均の名作漫画『寄生獣』の冒頭で投げかけられるメッセージです。

 作品のテーマを一言でまとめてみるならば、「生物同士の共生をどのように考えるか」ということになるでしょう。 

寄生獣(1) (アフタヌーンKC)

寄生獣(1) (アフタヌーンKC)

 

 この物語に登場するのは、人体に潜り込み脳味噌を食べて頭部と同化する寄生生物。

 そうして人の体を乗っ取った寄生生物は、頭部を無数の刃に変形させ、人を切り刻んで「捕食」します。

 

 単なるスプラッタものとの違いは、寄生生物は人間の言葉を理解できる程度の知能を持っており、自らの生命を守るためにそれぞれが身に付けた知恵を徐々に活かしていくこと。

 最初のうちは本能に任せて手近な人間を食べ漁る寄生生物ですが、騒がれたり駆除されたりするうちに人間の社会を学習し、自分達の「食事」をより安全に行うために人の姿で街中に紛れ込むようになります。

 

 主人公の新一は、この寄生生物に潜り込まれながらも脳の替わりに右腕を乗っ取られてしまった高校生です。

 人食いの本能に目覚めなかった右腕の寄生生物はミギーと名付けられ、新一との奇妙な共同生活の中でヒトの生態を学習し、テレビや書物やなどからも人間社会に関する知識を熱心に勉強していきます。

 

 他の寄生生物に人食いの習性があることを知った新一は、ミギーと共生していることで知り得た寄生生物に関する知識を、自分だけが知っていていいんだろうかと葛藤します。

 人類全体のために自らの知っていることを公表せねばという義務感にかられる新一に対し、ミギーは「そんなことをすれば自分は実験台にされるし新一もまともな社会生活が送れなくなる」と反論します。

 

 このミギーの冷静な見解を新一は頭では理解できますが、それでも感情の問題として「今この瞬間に人間が寄生生物に食われているかもしれない」という状況を見過ごすことができません。

 どうにかして人間たちを寄生生物から守るべきだと考える新一は、ミギーと口論になってしまいます。

 

シンイチの理屈はよくわからん

わたしの『仲間』はただ食ってるだけだろう……

生物なら当然の行為じゃないか

 

シンイチにとっては同種が食われるのがそんなにイヤなことなのか?

当たりめえだろ!

人の命ってのは尊いんだよ!

 

わからん……

尊いのは自分の命だけだ……

わたしはわたしの命以外を大事に考えたことはない

 

 この「人間性に欠ける発言」に対して新一がムキになって侮辱すると、危険の芽を感じとったミギーは「自分の身を守るためなら口がきけない程度に新一を傷付けることもできる」と脅します。

 恐れおののいた新一は「悪魔!」という非難の言葉をぶつけますが、その後ミギーにこう反論されてしまいます。

 

シンイチ……

『悪魔』というのを本で調べたが……

いちばんそれに近い生物はやはり人間だと思うぞ……

 

人間はあらゆる種類の生き物を殺し食っているがわたしの『仲間』たちが食うのはほんの1〜2種類だ……

質素なものさ

 

 このようなやりとりを通して、私たち現代人の人間中心主義的な偏見が相対化されていくのがこの作品の魅力です。

 高い知能を誇る「田宮良子」という寄生生物とのやりとりも見所。

 彼女は高校の数学教師として働いてみたり、人間としての妊娠や出産や子育てを経験したり、大学の講義を受けたりしながら、人間と自分たち寄生生物の生態とを比較研究しており、新一とも以下のような対話を何度か重ねていきます。

 

寄生生物も成長しているのよ

ただやみくもに人間を食い殺しつづけることが安全な道ではないことにもう気づいているわ

これからはある意味で人間たちとの共存を考えなきゃいけないところにきていると思うのよ

 

ふ……ふざけるな!

共存なんて……

人食いの化け物どもと!

 

例えば人間と家畜は共存してるとは言えない?

もちろん対等ではないわ

ブタから見れば人間は一方的な人(ブタ)食いの化け物になるわけだしね

 

人間たち自身がもっと雄大な言い方をしてるじゃない

「地球の生物全体が共存していかねばならない」

 

 そしてこの雄大な思想を持っている人間の一人として、広川という男が描かれます。

 彼は「地球の生物全体が共存していくためには人間の数を減らさなければならない」と信じており、市長選に立候補して自治体を合法的に掌握し、寄生生物たちが人間を穏便に連れ込むための「食堂」を行政の力で密かに整備します。

 

 これに対し、警察や自衛隊は寄生生物たちの一大拠点となった市役所を完全に包囲し、寄生生物たちの一斉掃討作戦を実行に移します。

 一般人の巻き添えも厭わずに寄生生物たちを銃殺し続ける部隊に向けて、広川市長がぶった演説は以下のようなものです。

 

こと「殺し」に関しては地球上で人間の右に出るものはない

 

もうしばらくしたら我々という存在の重要さに気づき保護さえするようになるはずだ

きみらは自らの「天敵」をもっと大事にしなければならんのだよ

 

地球上の誰かがふと思ったのだ

生物の未来を守らねばと……

 

環境保護も動物愛護もすべては人間を目安とした歪なものばかりだ なぜそれを認めようとせん!

人間1種の繁栄よりも生物全体を考える!!

そうしてこそ万物の霊長だ!!

 

人間に寄生し生物全体のバランスを保つ役割を担う我々から比べれば人間どもこそ地球を蝕む寄生虫!!

いや……寄生獣か!

 

 この大規模な寄生生物掃討作戦への協力者として新一は目を付けられ、最強の寄生生物「後藤」に命を狙われてしまいます。

 ミギーとの必死の共闘でなんとか「後藤」を撃退した新一は、瀕死の状態から蘇生しかけている「後藤」にトドメをさすかどうかの決断をミギーから委ねられます。

 己の責任でジャッジを下すことに躊躇する新一と、それを見守るミギーとのやりとりがこの物語のクライマックスと言えるでしょう。

 

好きにしろ

いやならやめればいい

今のうちに遠くへ逃げるという手もある

 

でも……

それじゃまた人が何人も殺されることになる!

それなら何も考えることは……

 

(弱っている「後藤」の姿を見て)

こいつらも……

必死に生きてるんだな……

 

そりゃそうさ

 

寄生生物はだいたい何のために生まれてきたんだ

増えすぎた人間を殺すため?

地球を汚した人間を減らすためか?

 

生き物全体から見たら人間が毒で……

寄生生物は薬ってわけかよ

 

誰が決める? 

人間と……

それ以外の生命の目方を誰が決めてくれるんだ?

 

殺したくない……

正直言って……

必死に生きぬこうとしている生き物を殺したくはない……

 

そうだ……

殺したくないんだよ!

殺したくないって思う心が……

人間に残された最後の宝じゃないのか

 

こいつは人間とは別の生き物なんだよ

人間の都合ばかり押しつけたくない

 

おれは今……

人間としてとんでもない重罪を犯そうとしているのかもしれない ……

 

でも 人間に害があるからってその生物には生きる権利がないっていうのか

人間にとって不都合だとしてもそれは地球全体にしてみればむしろ……

 

 このように考えた新一は、人間の利益のみを優先する傲慢さへの反省から、人間の勝手な都合でトドメをさすことを一旦は思いとどまります。

 人食いの化け物を見逃すことが人間として許されるのかと迷いながらも地球の生物全体のバランスを尊重しようとする新一ですが、そんな借り物の主張に振り回される様をミギーは冷静に見ています。

 

シンイチ……きみは地球を美しいと思うかい?

 

わたしは恥ずかしげもなく「地球のために」と言う人間がきらいだ……

なぜなら地球ははじめから泣きも笑いもしないからな

 

なにしろ地球で最初の生命体は煮えた硫化水素の中で生まれたんだそうだ

 

 ミギーがここで指摘したのは、地球全体の立場とやらを勝手に代弁しようとする人間特有の思い上がり。

 そもそも新一という個人には、人類の立場も、ましてや地球上の生物全体の立場など、代表する資格なんてない。

 ミギーの言葉からそう気付かされたのか、新一は自分の身の丈に応じて力を奮う覚悟を決めます。

 

おれはちっぽけな……1匹の人間だ

せいぜい小さな家族を守る程度の……

 

……ごめんよ

きみは悪くなんかない……

でも……ごめんよ……

 

 こうして新一は自らの手で「後藤」にトドメをさします。

 これは別に生物全体のバランスよりも人類にとっての平和を優先したとか、そんな大層な話ではありません。

 ただ単に、自分の命を脅かしかねない敵を確実に仕留めることで、新一自身の生存率を高めたというだけのことです。

 

自分が生きるために他の命を犠牲にする

動物はそうやって生きているのだ

 

 ミギーは新一に向かって、常日頃からこう言って聞かせていました。

 人間社会の教育によって刷り込まれた建前論に散々振り回され続けた新一ですが、あまりにも多くの命のやりとりに巻き込まれていく中で、食物連鎖の中を生きるただのプレイヤーとしての立場にようやく立ち返ることができたわけです。

 後に新一は、自らの価値観の変化をこう総括します。

 

他の生き物を守るのは人間自身がさびしいからだ

環境を守るのは人間自身が滅びたくないから

 

人間の心には人間個人の満足があるだけなんだ

でもそれでいいしそれがすべてだと思う

人間の物差しを使って人間自身を蔑んでみたって意味がない

 

 この世はもともと、お互いが自由に影響し合う世界です。

 殺し合い、奪い合い、脅し合い、騙し合い、妥協し合い、協力し合う。

 このように、生存を賭けてそれぞれが好き勝手に影響し合っているのが生物たちの実態です。

 

 「世界全体のバランスから見た善し悪し」なんてものは、世界の管理者としての資格が自分にはあると思い込める者の身の程知らずな誇大妄想でしかありません。

mrbachikorn.hatenablog.com

 「善良なる管理者の思想」として掲げられてきたエコやロハスサステナブルといった生き方も、やっている本人たちはまあ気分がいいのでしょう。

 

 1988年から連載された『寄生獣』という作品は、 世間で口うるさく強調されるこうした共生の思想が、人間たちの自己満足のあり方の一部に過ぎないと徹底的に相対化し続けました。

 過大な正義を追いかける広川のような理想主義者の生き方も、新一のような一個人としての等身大の生き方も、「自己満足を求める生き方」という意味では何ら変わりはない。

 こう描くことで、世間で叫ばれる歯切れの良い正しさに媚びなくても別に後ろめたさを感じる必要はないんだと、読者を勇気づけてくれていたのだと思います。


堂々となんとなく生きる - 間違ってもいいから思いっきり



※当ブログの主なテーマは、この世界を支配する「正しさ」という言葉のプロレスとの付き合い方。 mrbachikorn.hatenablog.com 
「正しさ」というゲームの最大の欠陥は、何を「正しい」とし何を「間違ってる」とするのかというルールや、その管理者たるレフェリーが、実際にはどこにも存在しないということ。
人類はこれまで数え切れないほどの論争を繰り広げてきましたが、それらのほとんどは「レフェリーの代弁者」という場を仕切る権限をめぐっての権力闘争でした。  

「レフェリーの代弁者」という立場は、自分の個人的な要求でしかない主張を、まるでこの世の既成事実のように見せかけるための隠れ蓑です。
「それは正しい」とか「それは間違ってる」という言い方で裁きたがる人たちは、私はこの世のレフェリーの代弁をしているだけなんだという迫真の演技で己の発言の圧力を高めていたのです。  

演技の迫力とは、演技者が役にどれだけ入り込めるかで決まるもの。
人々はいつしかレフェリーの代弁者のふりが説得のための演技であったことを忘れ、「どこかに本当の正しさがあるはず」といった物語を本気で信じこんでしまいます。
こうして人類の間には、「正しさ」という架空のレフェリーの存在をガチだと捉えてしまう、大がかりなプロレス社会が成立していきました。 そのプロレス的世界観を支えている固定観念の源を「記述信仰」と名付けました。
以下の記事では、この「記述信仰」の実態を上のような簡単な図にまとめて解説していますので、ぜひご一読ください。 mrbachikorn.hatenablog.com