間違ってもいいから思いっきり

私たち人間は、言葉で物事を考えている限り、あらゆるものを「是か非か」と格付けする乱暴な○×ゲームに絶えず影響されています。ここでは、万人が強制参加させられているこの言語ゲームを分析し、言葉の荒波に溺れてしまわないための知恵を模索していきます。

自分の「湿り気」を自覚していますか?

 前回、私は2015年6月1日の改正道路交通法の施行に関して、「自転車運転に関する禁止事項が増えたわけではない」とする見解を述べました。
 そもそも法改正以前から「歩行者による信号無視」ですら厳密には違法行為なのですが、歩行者や自転車はバイクや自動車に比べて取り締まりがルーズだったというだけ。
 今回の法改正は、ただ単に「これまで違法なはずなのに見逃されてきた自転車の危険運転」への取り締まりを、改めて引き締めていくための単なるきっかけに過ぎません。
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 私がこの記事を書いたのは、法律として書かれてある通りの内容と、取り締まりの場面での実際の運用のされ方と、世間での受け取られ方との間には、大きな隔たりがあるということを単に指摘するため。
 タイトルの「道交法違反は犯罪なんです」は、この認識のズレに対して「法律をマニュアルとして文面通りに解釈すればそういうことになるんですよ」と改めて確認しようとするニュアンスを込めたものです。
 
 自転車利用者を締め付けるために「危険運転は犯罪なんだからこれからは調子に乗るな」と言いたかったわけでもないし、だからといって自転車を利用する立場から「厳罰化は不当であり承服できない」とアピールしたかったわけでもありません。
 というよりはむしろ、私自身が常日頃からその種の「最初から結論を決めつけているポジショントーク」に嫌気がさしているので、「もう少しドライに事態を見つめる努力をしてみませんか?」と提案したかっただけでした。

 私は大学で数学を専攻していた20歳のころから、日常的な議論におけるこうした「湿り気」の問題が気にかかっていました。
 ここで私が言う「湿り気」とは、議論の結論をどちらか一方に持っていきたがる私たちの感情や現実世界の力関係のこと。
 
 数学という非日常の場面では、議論の結論は主張する人の感情やポジションには左右されません。
 公理や形式論理という数学の世界の約束事に従って、「証明ができたか」という基準だけでことの正否はドライに判定されます。
 
 真だと証明できればそれは正しい。
 偽だと証明できれば間違っている。
 どちらとも証明できなければその問題は「未解決問題」として保留しておく。
 
 数学の世界でこうしたきっちりとした判定ができるのは、数学が「公理と形式論理」という限られた世界の中でのゲームに過ぎないからです。
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 ですが、私たちが生きる日常的な世界では、「公理や形式論理」のような参加者全員が守るべきルールが、数学のようにきっちりとは定められていません。
 宗教にしろ科学にしろ法律にしろ、そこから提案される諸々のルールには、主張者自身の「こうあってほしい」という感情や現実世界における力関係が必ず反映されています。
 そもそも人には、公正な視点による結論を、感情やポジションに左右されずにドライに導き出す能力など備わっていないのです。
 
 人はそれぞれ違った好みや立場を持っていますから、こうした感情的な対立がなくなることは原理的にありえません。
 こうした「じめじめした対立」を解決するためのマシな手段の一つとして、これまで人類は民主制という仕組みを工夫してきました。
 民主制とは、集団における意思決定のプロセスに、「最終的には多数決で決定する」という比較的ドライなルールを採用したものです。
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 つまり、社会に民主制が導入されてきた背景には「人の営みにはじめじめとした対立がある」という大前提の人類知があるのです。
 しかし、民主制がある程度普及しきってしまった社会では、この大前提が忘れ去られることがあります。
 その結果、民主的な話し合いによって追求すべきなのは、客観的で理性的で感情に左右されない結論だとする妄想めいた理想論が生まれたりします。
 
 そうではなく、私たちのじめじめとした情念を叶えるための方便として、「ドライなふりをする」「情よりも理を優先するふりをする」という方法が一部の人に対して説得力を持っているというだけ。
 理想主義者が望むような真にドライな討論なんて、私たち人類はこれまで一度も経験していません。
 真実や「正しさ」なんていかにもドライぶった物言いは、じめじめとした感情や立場が言わせているものでしかないんです。
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 数学というこの世でもっともドライな世界にいた私は、日常の現実世界で持て囃されている表向きのドライさが「中途半端な偽物」にしか見えていません。
 というわけで、そんな私が一番嫌いなのは、ドライでクールな正論を吐いているつもりのびちゃびちゃに湿った人。
 ですから、このブログでは世間に流通している中途半端なドライさを取り上げて、「正論ぶってドライに見せかけているけど、その背景は随分とじめじめしてるよね」と指摘することを目的の一つとしています。
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 私はそうした「湿り気への無自覚」を毛嫌いする性格を持ってしまっているので、できる限り「己の湿り気」で理を汚してしまわないように語ろうと努力します。
 もっとドライに人心の誘導だけに徹するならば「中途半端なドライさ」を割り切って利用した方が効果的なのでしょうが、私は「そういうやり方は恥ずかしいし気持ち悪い」というウェットな感情を抱えているため、「ドライさを偽装しない伝え方」にこだわってしまいます。
 
 そんなわけで、私はどんな案件に関しても「どちらの立場に味方するか」という自分の好みに過ぎないものをドライぶって正当化するのを控えて、好き嫌いという「己の湿り気」を相対化した上での視点を探っていきます。
 そんな傾向こそが私の「湿り気」なので、これからも感情やポジション的には分かりにくい話ばかりを扱っていく所存です。
 立場を明らかにしない記事ばかりを見せてしまって、まことに申し訳ありません。

※当ブログの主なテーマは、この世界を支配する「正しさ」という言葉のプロレスとの付き合い方。

http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2014/03/12/175400
※そのプロレス的世界観を支えている「記述信仰」の実態を、簡単な図にしてまとめています。

http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2014/07/06/051300