間違ってもいいから思いっきり

私たち人間は、言葉で物事を考えている限り、あらゆるものを「是か非か」と格付けする乱暴な○×ゲームに絶えず影響されています。ここでは、万人が強制参加させられているこの言語ゲームを分析し、言葉の荒波に溺れてしまわないための知恵を模索していきます。

わざわざ絡みに行くのがチンピラです

 2013年に少しだけ話題になった「繊細チンピラ」とは、己の不遇な境遇をや傷つきやすい繊細な感受性を武器に「幸せな人は幸せそうにしているだけで不幸な私を傷つけるので一生黙っててください」というようなクレームをしらみ潰しに繰り返して他人の言動を封じようとする人のこと。
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 この言葉が現れた当時、このネーミングセンスに対して「よくぞ言ってくれた!」と賛同する人も大勢いましたが、それとは逆に「ひどいレッテル貼りがまた一つ増えてしまった」と嘆く人もいました。
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 私自身は、レッテルはレッテルでも他人の言動を封じようと絡んでくる人を牽制するためのレッテル貼りなら、そんなもの大歓迎に決まってると感じていました。
 他人の言動を封じたがっている人が「私の妨害活動に繊細チンピラというレッテル貼りは邪魔だ」と訴えたところで、そもそもそんな人がやっている「幸せそうに振る舞わせない活動」自体が不愉快ですから願ったり叶ったりでしかなかったのです。
 
 ただ、 発案者の意図とは異なる誤解も生まれているようだとも感じていました。
 それは、ただ単に傷つきやすく繊細なだけで他人に絡んだりするわけではない人の中に「傷つきやすい人はチンピラと見なされるの?そんなのひどいレッテル貼りだ!」と、的外れな受け止め方をする人がいたことです。
 
 この問題を思い出すきっかけになったのが、2015年9月26日に放送された「バカリ山里若林と坂上忍の提案型バラエティ よろしくご検討下さい!」というテレビ番組です。
 その番組では、世の中に対して妬み・嫉み・恨み・辛みを抱えた「心の闇4」と呼ばれる出演者たちが、彼ら自身のわがままな要求を「世の中をよくするための提案」として紹介していました。
 
 若林正恭は、コンビニの冷たいドリンク棚の前で選んでいる人や、居酒屋の前で「二次会行く人こっち」などと溜まっている人などに「どけよ!」と思うことが多いことから「腕時計にクラクションをつける」ことを提案。
 バカリズムは、野球部に所属していた男子校時代に「女性がいるかどうか」という共学校との環境の差に大きなハンデを感じたことから「男子校が甲子園に出たら2対0から開始」というルール改定を提案。
 坂上忍は、15歳年下の女性と付き合った時に「あなたと一緒にいるとホント疲れる」と言われて傷ついた体験から、「40代男性に告白した20代女性に手当金を出す」という提案を発表しました。
 
 そして、山里亮太は若者たちがプリクラ撮影時にキス写真を撮っているという傾向を問題視して、「キスプリクラを撮影する時に警告文を表示する」というよく分からない提案をしました。
 その理由はアイドルのキス写真が後に出回るのを避けるためであり、そんな悲劇を予防するためにも「デビューの予定はありませんか?」という警告文が必要だというのです。
 
 しかし、山里のこの主張に他の出演者の同意は得られませんでした。
 キスプリなんて自分達には関係ない話だと割り切るバカリズムは「僕らって大体…、自分の敷地内で何か迷惑だったりとか困ったことがあるから文句だとか言うんですけど…、山ちゃんの提案は自分の敷地ではなく人ん家の芝生に農薬を撒くような提案」とつっこみ、無関係な他人に対して「勝手に幸せになりやがって!」と怒りを燃やして絡みにいく山里とは違うと明確に区別しました。
 
 この山里のように、本来自分に実害はないはずの他人の敷地内の出来事に勝手に傷ついて農薬を撒きにくる人こそ、チンピラと呼ばれるべき存在です。
 ですから、たとえ傷つきやすい繊細な性格であっても、他人に絡みに行かない人は別にチンピラではないのです。
 
 この点を勘違いして、今まさに傷ついている人のところに「お前は繊細チンピラだ」とレッテルをわざわざ貼りに行くのは、ただのがさつなチンピラです。
 それとは別に、「繊細チンピラとはよくぞ言ってくれた」と溜飲を下げている人に対して「繊細な人をチンピラと呼ぶなんてひどい」などと勝手な解釈で絡んでいく人も、まさしく繊細チンピラと呼ばれるべき存在でしょう。
 
 その人がチンピラであるかどうかは、わざわざ他人の敷地にまで絡みに行くかどうかで決まります。
 人に絡む趣味なんてもの、どうか存分に邪魔されてくださいね。
 繊細な人がチンピラなわけではありませんよ。
 
 
※当ブログの主なテーマは、この世界を支配する「正しさ」という言葉のプロレスとの付き合い方。
mrbachikorn.hatenablog.com 
「正しさ」というゲームの最大の欠陥は、何を「正しい」とし何を「間違ってる」とするのかというルールや、その管理者たるレフェリーが、実際にはどこにも存在しないということ。
人類はこれまで数え切れないほどの論争を繰り広げてきましたが、それらのほとんどは「レフェリーの代弁者」という場を仕切る権限をめぐっての権力闘争でした。
 
「レフェリーの代弁者」という立場は、自分の個人的な要求でしかない主張を、まるでこの世の既成事実のように見せかけるための隠れ蓑です。
「それは正しい」とか「それは間違ってる」という言い方で裁きたがる人たちは、私はこの世のレフェリーの代弁をしているだけなんだという迫真の演技で己の発言の圧力を高めていたのです。
 
演技の迫力とは、演技者が役にどれだけ入り込めるかで決まるもの。
人々はいつしかレフェリーの代弁者のふりが説得のための演技であったことを忘れ、「どこかに本当の正しさがあるはず」といった物語を本気で信じこんでしまいます。
こうして人類の間には、「正しさ」という架空のレフェリーの存在をガチだと捉えてしまう、大がかりなプロレス社会が成立していきました。

そのプロレス的世界観を支えている固定観念の源を「記述信仰」と名付けました。
以下の記事では、この「記述信仰」の実態を上のような簡単な図まとめて解説していますので、ぜひご一読ください。
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