夢とは元々、眠っているときの脳内体験のことを言います。
夢の中での出来事はバーチャルなものですから、覚醒している時とはかけ離れた体験をすることもあります。
ですから、私たちが使用する「夢のような」という喩え文句には、「現実離れした」といった意味合いが含まれています。
一般の庶民からすると、テレビに出ている芸能人やスポーツ選手、さらには大富豪たちの生活は、現実離れした絵空事のようなもの。
そんな一部の人々しか味わえないライフスタイルのことを、そのリアリティのなさから「夢のような人生」と呼ぶ人もいます。
そして、庶民がそうした分かりやすい成功者像を目指すことを、「夢を追うような生き方」と表したりもします。
眠っているときに見る「夢」という言葉が「いつか実現したい理想」や「将来の願望」などを意味するようになったのは、「dream」の訳語として「夢」が当てはめられた明治以降のこと。
日本における「夢を叶える」とか「将来の夢」なんて言い回しに、それほど古い歴史は存在しません。
こうして「夢」が「未来の目標」という意味合いでも使われるようになり、現実とかけ離れているわけではない手軽な目標にも「小さな夢」といった使われ方がされるようになりました。
「夢」はどのようにでも解釈できる便利な言葉へと姿を変え、「夢を叶える」とか「将来の夢」などの新しい用法も今では日常的に氾濫しています。
そのため、家庭教育や学校教育など日常的な場所から、ビシネス書や自己啓発セミナーといったあまり一般的ではない所まで、「夢を持とう」「夢を叶えよう」という常套句が言葉の上では同じように使われています。
この「夢」という言葉の解釈の多様性が、世の中に不幸な誤解を生んでいるのではないかというのが今回のお話です。
家庭教育や学校教育の場で最も気楽に使われている「将来の夢」とは、「意欲的に生きて欲しい」「将来を見据えて努力できる人になって欲しい」といった常識的な目的から来るものです。
また、家庭教育の場では「自分が叶えられなかった夢を叶えて欲しい」という親側のエゴから、特定の目標を子どもに強制する目的で「将来の夢」が刷り込まれるという事態も多発しています。
その他にも、テレビや歌や漫画などのメディアを通じて「大きな夢を持て」というメッセージは無責任に乱発されていますから、「夢」という刷り込みの現場は家庭や学校のみに留まりません。
様々な場面で「夢」を持たされる子ども達ですが、大人達の言葉を真に受けていつまでもその「夢」を追いかけていると、「いい加減に夢を追いかけるのはやめろ」という言い方でいつの間にか梯子を外されたりもします。
一方では「夢」を持つことが奨励されるのに、もう一方では「夢」を持つことが非難されるというどっち付かずの状況に、子ども達はいつも振り回されているわけです。
この理不尽な事態を上手く消化できずに大きくなった子ども達の中には、「それでも夢を持て」「それでも夢は叶う」と甘言してくれるビシネス書や自己啓発セミナーにすがる者も出てきます。
幼い頃に植え付けられた「夢」という言葉の呪縛は、大人になってからもこんな形で尾を引いてしまうのです。
私は現在、非常勤の数学教師として私立高校に勤務していますが、この「将来の夢」という言葉はもちろん私の職場でも何気なく氾濫しています。
こうした刷り込みの現状に対して自分なりの発信が何かできないかというのが私の人生のテーマですから、校内新聞の場に新任教師の自己紹介文として以下のような文章を掲載してもらいました。
紹介用に一部を修正した上で、ここに引用してみたいと思います。
皆さんの将来の夢は何ですか。
はっきりと決まっている人もいれば、まだ決まっていないという人もいるでしょう。
私自身は、高校卒業の時点でも将来どうなりたいという目標は定まっていませんでした。
ですが、大学時代のアルバイトの経験を通じて「教えること」の面白さにハマり、それをきっかけに大学院生だった24歳から教師を目指し始めて、今では本校の教壇に立つことができています。
今の時点で将来のことがよく分からないとしても、経験を積み重ねていくことで未来は自ずと切り開いていけるものです。
皆さんもよく学び、多くの出会いを積み重ねてください。
そうしてそれぞれのペースでそれぞれの道を見い出していきましょう。
この校内新聞で取り沙汰した「将来の夢」という言葉は、中高の教育現場では「卒業後の当座の進路」を生徒に決定させるための方便として良いように使い回されている常套句です。
たまたま進路選択に直結した将来像をすんなりと描ける生徒にとっては「将来の夢から明確な目的意識を持つ」という喩え話がしっくりくるのかもしれませんが、世の中には明確な目的意識を持たなくとも立派に自立していった人がいくらでもいます。
わざわざ言うまでもない当たり前の話ですが、「将来の夢」というのは個人の社会的自立にとって絶対に必要な条件ではありません。
しかし、この方便を真に受けながらも適切な「将来の夢」をでっちあげられない生真面目な人にとって、「まずは将来の夢から」という物語は重苦しい足枷となってしまいます。
さきほどの自己紹介文は、大人の都合から濫用される「将来の夢」というフィクションに振り回され、「将来のビジョンが描けないから前に進めない」と深刻になってしまいかねない生徒に向けてのメッセージとして書いたものです。
「将来の夢」なんて焦って決めるようなものではないし、「決めないと駄目」みたいな思い込みに囚われて杓子定規に悩む必要はないんだと伝えるために。
そもそも言葉とは、私たちの脳に無数の思い込みを書き込んでいく暗示プログラムのようなもの。
そうした自覚も無しに不用意に植え付けられた浅はかな思い込みは、その人の生き方を無闇に縛りつけてしまいます。
先に示した「夢」という教育現場や自己啓発のマーケットで使い古されているお題目も、その使い方によっては不必要な呪縛と成りうる危険因子だと常々懸念を覚えていました。
ですから、校内新聞に掲載される機会を活用して、その呪縛を少しでも緩和しようと試みたわけです。
そもそも「夢のない生き方は不幸」といった考え方自体が、人為的に造られたある種の刷り込み。
「夢のない生き方はつまらない」と言われることで「自分は夢のないつまらない生き方をしているのか」と疑念を抱いている子がいるのなら、「そんな外野の声は気にしなくていい」と言ってあげたいですね。
「夢」という概念が不幸の種にならないことを願うばかりです。
私たち人間は言葉を使って生きている限り、絶えず何らかの刷り込みを生み出し続けるしかない存在です。
そうした言葉の影響力を当たり前に考慮に入れて全ての言動と付き合うという態度を、成熟した大人の当たり前のマナーとして世の中に登録すること。
それこそが私の壮大な「夢」ですので、これからも私なりの発信を草の根レベルから続けていきたいと思います。
※当ブログの主なテーマは、この世界を支配する「正しさ」という言葉のプロレスとの付き合い方。
http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2014/03/12/175400
※そのプロレス的世界観を支えている「記述信仰」の実態を、簡単な図にしてまとめています。