以前勤めていた高校で10人にも満たない少人数クラスを受け持っていた頃、教室内にミニチュアの七夕飾りを作ったことがありました。
そのときはクラスの全員が短冊に願い事を書き、教室で育てている鉢植えにそれらを吊るしていきました。
「10キロ痩せたい」
「お金持ちなイケメンに出会えますように」
「いいことがありますように」
「クラス全員が英検に合格しますように」
「人類に貢献できる偉大な人物になる」
「いつもと同じように幸せでいられますように」
などなど、願い事は人によってさまざま。
私も自分自身とクラスのことを念頭に置きながら、こんなことを書いてみました。
「今見えている景色とは違う景色が見えるようになりますように」
すると、ある生徒に「先生の願い事は抽象的で難しすぎる」と指摘されました。
そこで私は、内田樹が説く「学びのダイナミクス」について、私なりにざっくりと要約して以下のように伝えました。
学びとは、自己が変革していく過程のこと。
その意味では、努力と引き換えに知識や技能を手に入れるというだけの過程は、学びとは呼べない。
それは「欲しかったものを手に入れる」という単なる等価交換であり、広い意味での消費活動の一環に過ぎない。
真に学びが発動したならば、ただ単に「欲しかった知識や技能を手に入れる」というだけでは済まされない。
それまで見えていた景色とは違う景色が見えるようになり、「何を欲するか」という己の欲求の在り方すら変わっていく。
そんなダイナミックな変革の過程こそを学びと呼ぶ。
とまあ、だいたいこんな風に内田樹は言っているわけ。
何を以て「学び」と呼ぶかは人それぞれだと思うけど、少なくとも等価交換としての学びよりも内田樹の言っている学びの方が、人として成長している気がしないかな。
後になって自分を振り返ったときに「今現在の自分の望み」が幼く見えたとしたら、それは「成長できた」ってことなんだと思うよ。
短冊にこう書いた私の意図は、学校教育で頻繁に行われるある典型的な刷り込みの緩和にありました。
教育の現場では「夢を持て」「将来のビジョンを描け」「目的をしっかり持って進路を選択しろ」といったメッセージが頻繁にアナウンスされています。
それはしばしば、人生の先輩たちの経験から導かれる教訓として伝えられます。
「目的を持って計画的に取り組んできたから望みを叶えることができた」
「目標を持たずにダラダラとここまで来てしまったけど、若いころから目標を持って人生に取り組んでくれば良かった」
ですが、いくら目標や願いを持ったしても、その望み自体が途中で変わってしまうというのはよくある出来事。
そうした「目標の途中変更」については、様々な解釈の可能性があるでしょう。
「自分の本当の願いが何なのか」を理解できていなかったから、目標も途中で変わるハメになった。
こう捉える人は、目標に対する過去の不十分な検討を反省して「しっかりとした目標の検討」を説きます。
幼い頃に持っていた「本当の夢」を諦めて、安易に現実的な路線へと妥協してしまった。
そう捉える人は、過去の目的意識の弱さを反省して「強い目的意識の堅持」を訴えます。
ですが、「目標が変わったのは自分が成長したから」と捉えられる人は、現時点で目標を持っていないことも、しっかりとした目標を持っていることも、目標を途中変更してしまうことも、全てを成長のプロセスとして受け止めることができます。
ビジョンを描けないのは単なる不真面目さの現れではないし、ビジョンを持ち続けられないのは単なる弱さの現れではない。
どんな状態であっても立派な成長過程の一部なのです。
記述信仰という固定観念からの卒業を促すために当ブログを更新している私の現状は、短冊を書いた3年前には全く想定していなかったもの。
3年前の私の願い事は、どうやら無事に叶えられたようです。
※当ブログの主なテーマは、この世界を支配する「正しさ」という言葉のプロレスとの付き合い方。
http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2014/03/12/175400
※そのプロレス的世界観を支えている「記述信仰」の実態を、簡単な図にしてまとめています。