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間違ってもいいから思いっきり(市井人の日曜研究)

私たち人間は、言葉で物事を考えている限り、あらゆるものを「是か非か」と格付けする乱暴な○×ゲームに絶えず影響されています。ここでは、万人が強制参加させられているこの言語ゲームを分析し、言葉の荒波に溺れてしまわないための知恵を模索していきます。

伝えきれない想い

 伝えたいことがあるのに言葉ではなかなか表現できない。
 どんなに言葉を尽くしても、言いたいことを正確には描写しきれない。

 そんな経験が皆さんにもありますか。
 今回は、そういった心理現象がなぜ起きてしまうのかという原因について、私なりの受け止め方を語っていきたいと思います。

 この疑問への解答としては、言葉そのものが私たちの想いを表すには不完全な手段だから、という説明の仕方が一般的ではないでしょうか。
 しかしその主張の前提には、まず先に言いたいことの存在があって、言葉はそれを描写するための手段でしかないという思い込みが隠れています。
 世にはびこるこの暗黙の前提こそが私にとっての人生の課題です。

 私の考えでは、言葉の持つ本来の役割は「物事の描写」なんかではありません。
 人類の歴史において言葉が果たしてきた重大な役割とは、「説得」というヒトの脳波への干渉行為。
 これまで宗教、哲学、科学など、世の中の仕組みに言及する勢力は、私たちの使う言葉の枠組みを造り出し、脳波への影響を左右することで、人間社会の在り方をデザインしてきました。

 そうした言葉による説得を円滑に進めるための仕組みとして、文明人の間ではある壮大な作り話が共有されています。
 それこそが「言葉は物事を記述するために存在している」という固定観念です。

 「言いたいことを正確には描写しきれない」などと思ってしまうのは、この「記述」という物語が疑うまでもない前提として心の奥底にまで刷り込まれてしまっているから。
 ですが言葉とは、それを発することで世の中に影響を生む物理的な装置であり、正確な描写なんてものは「説得」という言葉の働きの実態を覆い隠すためのフィクションでしかありません。
 このとき叶わなかったのは正確な描写という架空の物語の方ではなく、発言者の納得という脳内での説得効果の方だったのです。

 この物語の刷り込みはすでに大規模な成功を修めており、世の多くの人は「記述」という説得のために造られた方便を真に受けてしまっています。
 ですから、今さらそれが作り話だと指摘されてもどういう意味だか分からないという人が大半かもしれません。

 しかし、「記述」というフィクションに騙され傷付いている人にとって、こうした考察が少しでも役に立つのであれば、このブログの存在も無駄ではないかもしれません。
 これほどまでに徹底された洗脳の現状に対してどこまで対抗できるかは分かりませんが、 これからも言葉の限りを尽くして立ち向かっていきたいと思います。


※当ブログの主なテーマは、この世界を支配する「正しさ」という言葉のプロレスとの付き合い方。

http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2014/03/12/175400
※そのプロレス的世界観を支えている「記述信仰」の実態を、簡単な図にしてまとめています。

http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2014/07/06/051300