あなたは何ものかに喰い殺されそうになったことがありますか。
私自身は幸運にも、まだそのような補食の危機を経験したことがありません。
ですが野生の動物たちにとって、喰ったり喰われたりは当たり前の日常です。
私がこれまで何ものにも喰われることなく無事でいられたのは、この現代にヒトとして生まれ、発達した文明社会で育ち、そうした野生の現実から隔離されて生きてこられたから。
ではもし仮に、自分のことを獲物として狙う補食者が目の前に現れたとしたら、私たちには何ができるでしょう。
言葉が通じる相手であれば話し合いによる説得の余地があるかもしれません。
そうでなければ、闘う、威嚇する、逃げるなど、言葉によらない物理的な抵抗を試みるしかありません。
こうして考えてみると、我々人類が文明によっていかに手厚く守られているかが分かるでしょう。
私たち文明人の生活は、一見してそうした弱肉強食の世界とは無縁のもののように見えます。
しかし、お上品な文明社会の舞台裏には、大型獣を駆除するハンターや、人同士の争いを抑止する警察や軍隊の存在などがあります。
私たち人間の社会は、言葉のコミュニケーションによる組織力とその圧倒的な武力を背景に、この弱肉強食の世界を力ずくで支配しているのです。
そして、一見お上品そうに見えるこの文明社会の内部も、その実状は人間同士で富を奪い合う、形を変えた弱肉強食の舞台でしかありません。
先ほど紹介した野生の闘争との違いは、言葉という新たな武器が加わっていること。
言葉という音の刺激は聴き手の脳波に影響を及ぼし、直接的な武力とは少しだけ違ったやり方で相手の行動に変化をもたらします。
このことを、まずは犬の調教というシンプルな例を通して見てみましょう。
「お手」「おかわり」「待て」などの犬へのしつけは、言葉を使った立派なコミュニケーションの一つです。
これらのしつけのほとんどは言葉と餌を使って行われます。
犬たちが餌にありつくためには、飼い主の発する「言葉」という音声信号を聞き分け、そのシグナルに応じた行動をとる必要があります。
こうした一連の反応の仕方を上手く学習することができれば、犬たちは人間からペットとして可愛がられ、その身の安全を守られながら餌をもらい続けることができます。
犬たちにとって人間の言葉を聴き分けることは、この弱肉強食の世界を生き抜いていくための極めて現実的な手段なのです。
犬のしつけの適齢期は、他者と自分との区別が付き始めた頃。
この時期に認識し始めたものは「そういうもの」と受け入れやすく、様々な物事を「そういうもの」として覚えさせることができます。
自分にとってのリーダーは誰か、人間の住む世界にはどんなものがあるか、こういったことを適齢期に教え込めば、人間社会に適した聞き分けの良い犬へと仕立てあげていけます。
ヒトの子どももペットの犬と同じ様に、他者と自分との区別が付く頃からそのしつけが始められ、言葉によって様々な物事を「そういうもの」として覚えさせられていきます。
倫理道徳、遵法意識、権利思想、世の中の仕組みなど、様々な物語を「そういうもの」だと刷り込まれることで、この世界を力ずくで支配している文明社会の構成員として育てられます。
私たち人間は、文明社会が刷り込んでくるそれらの物語の内部をただ当たり前に生きているだけで、他の動物への武力弾圧や人間同士の言論闘争の輪にいつのまにか組み込まれているのです。
こうした言い分を聞いて、「人間はもっと理性的な生き物だ」と異を唱えたくなる人もいるでしょう。
そこで次回は、文明人たちがついついそのように思ってしまう、二段構えの洗脳の構造について語っていきたいと思います。
※当ブログの主なテーマは、この世界を支配する「正しさ」という言葉のプロレスとの付き合い方。
http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2014/03/12/175400
※そのプロレス的世界観を支えている「記述信仰」の実態を、簡単な図にしてまとめています。