間違ってもいいから思いっきり

私たち人間は、言葉で物事を考えている限り、あらゆるものを「是か非か」と格付けする乱暴な○×ゲームに絶えず影響されています。ここでは、万人が強制参加させられているこの言語ゲームを分析し、言葉の荒波に溺れてしまわないための知恵を模索していきます。

人類を飼い慣らした物語

 ヒトを文明社会の担い手へと仕立て上げてしまう言葉の影響力には、ある巧妙なトリックが隠されています。
 今回はこのトリックの種明かしをすることで、言葉の荒波に溺れてしまわないための基本的なモノの見方を掴んでいきたいと思います。

 喰うか喰われるかの食物連鎖の世界で子孫を遺していくため、動物たちはそれぞれが多種多様な生存戦略を採用しています。
 草食動物たちは群れで行動して身を守りますし、 肉食動物たちは鋭い牙を持っていますし、鳥は空を飛ぶことができますし、ネズミやゴキブリや微生物などは凄まじいスピードで繁殖することができます。

 それと同じように、ヒトには言葉という応用力の高い音声信号があります。
 人類の歴史とは、この言葉の影響力を使って自分たちの在り方を変えてきた歴史でもあり、その成果こそが現代におけるこの文明社会です。
 つまりヒトは、言葉という新たな武器を得たおかげでこの地球上の食物連鎖の頂点に立てたのです。

mrbachikorn.hatenablog.com


 これから説明する言葉のトリックは、いくつもの「小さな洗脳」と、ただ一つの「大きな洗脳」という、二層構造の洗脳で成り立っています。
 倫理道徳、遵法意識、権利思想、宗教、哲学、科学など、文明社会を左右するこれらの価値観はすべて、ここで言う「小さな洗脳」の一派に過ぎません。

 「人を殺してはいけない」
 「法を守らねばならない」
 「人には生まれもった権利がある」
 「信じるものは救われる」
 「我思うゆえに我あり」
 「地球温暖化の原因は二酸化炭素だ」

 などなど、「小さな洗脳」には無数のバリエーションがあり、中には互いに両立し得ない見解も数多く含まれます。
 言論というのは、この数多の「小さな洗脳」のうち「どれが正当な言い分なのか」を巡って行われる小競り合いです。

 しかし、この「どれが正当な言い分なのか」という語り口の裏には、「言葉はそもそも何かを言い当てるためにある」という「大きな洗脳」が隠されています。
 言葉の目的が「何かを言い当てること」だと広く信じられているからこそ、「その言葉は世の中を正しく言い当てているか」という是非が真面目に問題視されてしまうのです。

 ですが、言葉の本来の目的とは、何かを言い当てることではなく、何らかの印象を与えて聴き手の行動を左右することです。
 「人を殺してはいけない」と説く多くの人の目的は、殺人が起きる可能性を少しでも減らしていくこと。
 そうした現実的な効果をもたらす説得工作こそが、人類の編み出した言葉のもともとの使い道です。

 「人を殺すことが○か×か」という机上の議論そのものは、説得のために用意された一種のおとぎ話でしかありません。
 私が問題視している文明人特有の病状とは、こういった「○か×か」という架空の話を「この世界を言い当てるためのもの」だと本気で信じこんでしまう「大きな洗脳」の問題なのです。

 「人を殺すことは何があろうと絶対に×なのだ」
 「本当は人を殺すことは×ではないんじゃないか」
 「動物を殺すのが○なら殺人だって本当は○じゃないか」
 「殺人は×だから動物を殺すのだって本当は×だ」
 「殺人が○なのか×なのか俺にはもう分からない」
 「真理なんて元々どこにもないんだ」

 言葉の役割は何かを言い当てることだと真に受けた上でこれらの内容を本気で語っているとしたら、それは「大きな洗脳」にまんまと飼い慣らされてしまっている証拠。
 言葉が持つ本来の働きを理解しているなら、こんな乱暴な○×ゲームに真面目に取り合う必要はありません。
 殺人を阻止したいと思うならそんな影響を及ぼしそうな言葉を好きに選べば良いし、言葉だけで説得し足りないと思うのなら言葉以外の手段に訴えるのもありでしょう。

 言葉とは力そのもの。
 私たちの文明社会は「真理の探究」というキレイな物語でその実態をオブラートに包んできましたが、結局のところは「弱肉強食」という他の動物と同じ舞台の上で踊っていただけ。
 私たち人間は言葉を使って物事を考えている限り、言葉による洗脳や煽動の影響力から逃れられることはないのです。
 
 そんな言ったもの勝ちのパワーゲームの中で、言葉は何かを言い当てるためにあるという「大きな洗脳」を鵜呑みにしたままでいるのは、大変なハンデと言わざるを得ません。
 デマやカルトやメディアなどは、これまで知られていなかった新事実を言い当てたかのような口ぶりであなたの耳元に「小さな洗脳」を吹き込みます。

 「本当はこうなんだ」「実はこうなんだ」という事実の説明のような言い方は全て、個人的な説得の圧力です。
 もちろんこの文章自体も、私からあなたへの説得の圧力でしかありません。
 この私の言い分をあなたが「それは違う」と叫んだところで、それすらも何者かへの説得の圧力になっています。

 こうした現状を踏まえた上で、この弱肉強食の説得合戦をどう生き延びていくか。
 それこそが当ブログのテーマになります。
 具体的な対処法もいくつか提示していけると思うので、これからの連載もどうぞよろしくお願いいたします。


※当ブログの主なテーマは、この世界を支配する「正しさ」という言葉のプロレスとの付き合い方。

http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2014/03/12/175400
※そのプロレス的世界観を支えている「記述信仰」の実態を、簡単な図にしてまとめています。

http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2014/07/06/051300