あるテレビの討論会で、小学生が「なぜ人を殺してはいけないのか」と素朴な疑問を述べ、そこにいたコメンテーターたちが上手く答えられずに困り果てたという出来事が一時期話題になりました。
今回はこうした「大人の理屈」の機能とその限界を分析していくことで、この現実を生き抜いていくための智恵を模索していきたいと思います。
例えば、AさんがBさんに向かって「人を殺してはいけない」と言ったとします。
AさんがBさんにこんなことを言った理由は何でしょうか。
普通に考えるなら、AさんはBさんに人を殺してほしくなかったのです。
しかしここで一つ疑問が起こります。
Aさんはなぜ素直に「あなたに人を殺してほしくない」とは言わなかったのでしょうか。
Aさんの欲求は「Bさんが人を殺したりするのは嫌だ」なのだから、正直にそう言えばAさんの意図は伝わるのではないでしょうか。
なのにどうして「人を殺してはいけない」という表現にわざわざ変える必要があるのでしょうか。
そのことを考えていくために、AさんとBさんそれぞれの都合を考えてみたいと思います。
ここでAさんがBさんに向かって「あなたに人を殺してほしくはない」と素直に打ち明けたとしましょう。
Aさんは「Bさんが人を殺したりするのは嫌だ」というAさんの都合をBさんに要求しています。
しかし、Bさんの行動の基準はあくまでもBさんの都合なので、Aさんの都合をどこまで配慮するかはBさんの都合によって決まります。
これでは「Bさんに人を殺してほしくない」という自分の要求が通るかどうか、Aさんには確証がもてません。
Bさんに自分の都合どおりに行動してほしいと思っているAさんは、今の状況のままでは我慢できません。
AさんはBさんを説得するに当たって、Aさんの都合とは違う何かの力を借りたいと考えました。
そこでAさんは価値判断というレフェリーを雇うことにします。
このレフェリーは個人個人の行動に対して「OK」とか「ダメ」などというジャッジを下してくれる便利な存在です。
このレフェリーを味方につけてAさんに有利になるようジャッジを下してくれれば、Aさんの都合でしかなかった要求がもっと大きな権威を持つようになるのです。
そのレフェリーとは、神であったりお天道様であったり「内なる道徳」であったりさまざまです。
つまり「人を殺してはいけない」という言い方をすることで、「Bさんに人を殺してほしくない」というAさんの個人的な要求でしかなかったものに、「レフェリーがどこかでそう決めているんだから」という権威が付け加えられるのです。
しかしBさんは納得がいきません。
もともとBさんはBさんの都合に従って行動していたはずなのに、Aさんがわけの分からないレフェリーを持ち出してきて、Bさんの都合とは別の基準で「OK」とか「ダメ」とか仕切りだすようになったのです。
しかもそのレフェリーは最初からAさんに都合がよくなるジャッジしか下していないように見えます。
「その正体不明のレフェリーはどこから雇ってきたのか」
BさんはAさんに不満をぶつけます。
しかしAさんも必死です。
レフェリーは公平で由緒あるものだと思ってくれないと、せっかく作り上げた権威がふいになってしまいますから。
「このレフェリーは私が勝手に雇ったわけじゃなくて、 最初からこの世界にいて私たちの行動を裁く権限を持っていたんだよ」
後はもう力業です。
「レフェリーを疑うなんてそれ自体ダメなことなんだから、グダグダ言ってないで受け入れなさい」
是か非か。
善か悪か。
正しいか間違ってるか。
するべきかするべきでないか。
しなければならないかしてはならないか。
これらの価値判断はすべて人の勝手な都合によって雇われたレフェリーです。
そして、このレフェリーの持つ権威を高めるためには、「人の勝手な都合によって」という出自の部分を上手くごまかさないといけません。
そこのところを上手くごまかして、雇ったレフェリーの権威を裏付けるもの、それが真理という概念です。
真理というのはつまり、「この世の中をジャッジするレフェリーは人の都合とは関係なく最初から存在していた」という苦し紛れの考え方のことです。
この真理という概念をインプットされてしまった人は、「どこかに人に雇われていない真のレフェリーがいて、そのレフェリーの命令にだけは従わなければならない」という信仰を抱きます。
その意味では「これが真理だ」と言っている人も「何が正しいのか分からない」と言っている人も「真理なんてどこにもないじゃないか」と言ってる人も、この真のレフェリーを求める信者になってしまっています。
しかし、レフェリーとは人が雇った瞬間にしか現れないものです。
だから人に雇われていない真のレフェリーなんていくら探そうとしても見つかるはずがありませんし、たとえ見つけたと思ったとしても「そいつは真のレフェリーじゃない、すでに買収されている」と誰かに文句を付けられることでしょう。
そもそも、人に雇われていない真のレフェリーを探そうとする発想自体が、人の手によってでっち上げられたものなのですから。
私たち一人一人は、この弱肉強食の世界を生きるただのプレーヤーでしかありません。
そして人間をとりまくこの説得合戦の世界には、レフェリーの代弁者を装って己の影響力を高めるという狡猾な説得の技術があります。
ここでお伝えしたいのは、レフェリーの代弁者のふりをした説得の圧力に容易く丸め込まれないための考え方なのです。
誤解して欲しくないのですが、私はここで「世の中はどうせ野蛮で汚いものだ」と吐き捨てたいわけではないし、まして人殺しを容認しているわけでもありません。
「弱肉強食」を野蛮で汚い法則であるかのように捉え、「真実の探求」というレフェリー探しを純粋な動機のように捉えてしまうのも、文明社会のイメージ戦略にまんまと乗ってしまっているため。
「弱肉強食」の現実を生きているという極めて当たり前のことが野蛮で汚いことと言われてしまうのなら、それは「ヒト以外の野生の動物は野蛮で汚い」と見下しているのと同じ。
ですが、ヒトはあくまでも動物の一種でしかなく、文明人たちが自分で望んでいるほど特別で高貴な存在ではないのです。
つまり「人を殺してはいけない」というのは事実ではなく、弱肉強食の説得合戦における効果的な武器として造られたフィクションです。
この作り話の裏側で実際に行われているのは、「あなたに人を殺してほしくない」という発言者の意思表示であり、「あなたに人を殺させない」という聴き手への圧力です。
テレビの討論会で言葉の上の理屈だけで説得することに終始していた大人たちは、おそらく「人間だけは他の動物とは違う上等な生き物だ」と信じていたかったのでしょう。
ですが、この社会で実際に機能している法律は「人を殺してはいけない」というフィクションにはまともに取り合っていません。
弱肉強食の法則に従って「人を殺したら捕まえて罰を与える」というルールを明文化し、警察という武力によってそのルールを徹底させるために物理的な実力行使をしているだけです。
「ねばならない」とか「してはいけない」とかいう机上の○×ゲームにばかり終始してしまう人たちは、「人間はもっと理性的な生き物だ」という架空の物語にすがりついているだけ。
自分自身もそういった弱肉強食の世界の中にいて、現に力を行使しながら生きているという現実を、どうしても認めたくなくて足掻きながら空論を吐き続けているのです。
私が提案する言葉の荒波の泳ぎ方とはまず、「どこかにレフェリーがいる」という物語に頼りきった精神状態からさっさと卒業すること。
そしてこの弱肉強食の世界を生きている「ただのプレーヤー」としての自覚を持つことです。
もし私が誰かに殺人を犯して欲しくないと思うのであれば、私は「ただのプレーヤー」として言葉やそれ以外の手段も駆使して説得工作を行います。
例えば、復讐心に燃えて恋人の仇を殺してやりたいと真剣に思い詰めている友人が身近にいたとしたら、こんな説得になるでしょうか。
人殺しをしようとするのは君の勝手だけどそれを周りが力ずくで阻止しようとするのだって勝手。
殺人を厳罰化している法治国家において、無力な一個人は殺人なんてしないほうが身のためだよ。
それに、俺個人も君には人殺しをして欲しくないと思っている。
もしどうしても君が殺したいって言うのなら、俺はあらゆる手段を使ってそれを阻止するからな。
自分がレフェリーの代弁者のふりをして「何があっても人を殺してはいけない」と説くのも、もちろん説得における一つの効果的な手立てです。
その手の綺麗事は、レフェリーという物語に飼い慣らされた文明人にとって十分な圧力となり得ます。
しかしヒトもその本性は動物と同じ。
ヒトが本当に追い詰められたとき、いつまでも架空のレフェリーの言うことを聞いていられるかは分かりません。
いもしないレフェリーにいつまでも頼り続けるのもいいですが、この世界のプレーヤーとして自立の道を模索するのも一つの手だと思いますよ。
※当ブログの主なテーマは、この世界を支配する「正しさ」という言葉のプロレスとの付き合い方。
http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2014/03/12/175400
※そのプロレス的世界観を支えている「記述信仰」の実態を、簡単な図にしてまとめています。