井上雄彦の描く歴史漫画『バガボンド』にて、宮本武蔵が村のお母さん達に請われて剣を教える場面があります。
このときの逸話が、和太鼓を打つときの心構え、ひいては運動全般のコツにも通じていたので紹介してみたいと思います。
ここで奨励されていたのは、ヒト本来の運動性能を阻害してしまうような、余計な固定観念からの脱出です。
初めて持つ木刀をどう振り回していいか分からないお母さん達に対し、武蔵は「腕はないと思って振れ」というアドバイスを与えます。
武蔵のアドバイスを素直に受け取ったお母さんの一人は、手の内の握りをゆるくしすぎて木刀をあさっての方向にすっ飛ばしてしまいます。
それを見た武蔵はこう言って褒めます。
大したものだ
なかなか剣は飛ばない
自分の体とは違うものを持ってるから
放しちゃいけないと力いっぱい握る
手にしたその得物で相手を斬る
余計に放すまいと力を入れる
でもその力は相手を斬るのには使われず
自分を縛るだけ
腕は真面目でがんばり屋
欠点は一人でがんばりすぎること
脚や腹や腰やヘソ
ほかの連中をすぐ忘れる
だから時々腕はないと思って振る
おっとその前に空を見る
ここで言う剣は、太鼓のバチに置き換えても全く同じです。
太鼓を打つときも、多くの初級者は生真面目に腕の力だけでがんばってしまいます。
そのせいで、初級のうちは前腕や上腕のみに負担が集中してしまい、練習や演奏のたびに筋肉痛で腕がバキバキに固まってしまいます。
ですが、脚や腹や腰やヘソなど全身が協力し合って一打一打を打てるようになれば、腕一点に固まりがちな負担が体全体に拡散されて薄まります。
そうなると、肩甲骨回りや腰回りなど体幹の大きな筋肉の使われる頻度の方が高くなり、腕のような末端の筋肉が痛むことはそう多くなくなります。
バチをしっかり握り過ぎている人に「打つ直前までは握らずにただ触れているだけで良い」と言っても、普通は「バチをすっ飛ばしてしまいそうで怖い」と勝手な思い込みの殻の中に閉じ籠ってしまうことが多いです。
その殻を打ち破ってバチをすっ飛ばしてしまうほどのチャレンジができるような素直な人は、本当に大したものなのです。
また、ガチガチの姿勢のままの狭い視野で動作に集中しているうちは、その狭いエリア内に動きが縮こまってしまい、身体がのびのびと躍動するのを邪魔してしまいます。
空を見上げるくらいのおおらかな広い視野でのびのびと動けば、無理に意識しなくたって脚や腹や腰やヘソなど全身が自然と太鼓を打つ動作を手伝ってくれるようになります。
この動作の食い違いの根本的な原因は、身体の主導権がどこにあるのかという基本認識にあります。
いつも頭で物を考えている「この私の想い」こそが司令塔だと捉えて身体を従わせようとしている人の動きは、独り善がりに頑張ってみても大抵は空回りしてぎこちないものになります。
ですが、この身体の主導権は「私など及びもつかない身体の理」にあると兜を脱ぎ、どのように動くかを身体に任せられるようになると、ある種のブレイクスルーが起きます。
もともと人の考える理屈なんてものは、複雑な構造を持つこの人体の3次元における動きなんてほとんど把握しきれていません。
それなのに分かったつもりになってつたない思い上がりで身体を支配しようとするから、道理に合わない薄っぺらな動作を身体は強いられることになります。
その点ではむしろ、下手な考えなんてない赤ん坊の方が、落下の衝撃から柔軟に身を守ったり、骨格の固まりきらないアンバランスな身体で立ったりすることができ、自然の物理法則をちゃんと使いこなせています。
「この私の考え」なんかよりも「自分のこの身体」の方が、動作や感覚についてはもともと桁違いに賢いのです。
頭で解釈した動きに身体を従わせようといきり立つのではなく、肚の底から湧き上がる衝動に「この私」はただ乗っかっていて、些細な意図に応じてたまに微調整をしたりするだけ。
その方が、遥かにレベルの高い伸びやかなパフォーマンスに到達することができます。
考えるな、感じろ。
縛り付けるな、身体に任せろ。
太鼓を打つときも、スポーツをするときも、力を抜いて、空を見上げて、身体の奥底から湧き上がってくるワクワクを楽しんでいきたいものですね。
※当ブログの主なテーマは、この世界を支配する「正しさ」という言葉のプロレスとの付き合い方。
http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2014/03/12/175400
※そのプロレス的世界観を支えている「記述信仰」の実態を、簡単な図にしてまとめています。