2001年の夏、大学院生だった私は「原子力発電は必要か否か」というテーマのディベートに参加していました。
このディベートはある面接の試験として行われたもの。
受験者はまず割り振られたチームごとに集められ、仲間同士で作戦を立てた上で本番に望むことになります。
私は「必要である」とする立場に振り分けられ、チームの先頭に立って「必要でない」とする相手チームに論戦を挑んでいました。
相手チームは、過去の原発事故の例を挙げて原発の運転に関わる安全性に警鐘を鳴らし、処理しきれない核廃棄物の問題を追及し、住民の反対を押しきって建設に踏み切る原発行政の横暴を批難し、代替エネルギーの可能性を提案するなどして、「必要でない」とする論を固めてきました。
チームとしてそれらに一つ一つ反論する準備はしていましたが、相手の論調に応える形で勝負をしてしまえば、以後の議論は互いの粗探しや「できる」「いやできない」といった水掛け論の応酬だけで終わってしまう危険があります。
ディベートという勝敗を競うゲームでは、「相手の主張に対して根拠のある反論をいかに素早く切り返すか」に特化した弁論術が重要になると言われます。
ディベートに不馴れな私としては、声の大きさと口数の多さと切り返しの早さだけが問われるようなパワーゲームに、いそいそと精を出す気にはなれませんでした。
そういった泥仕合的な展開を避けるため、私は作戦会議の時点で全く別のアプローチを立案していました。
それは、勝負する土俵を替えること。
私はまず、事故やテロ攻撃の危険性もなく、廃棄物の処理も安全に行えて、地域住民との意思確認もスムーズに進めることができる「理想の原子力発電所」が存在すれば、それは認められるのかという架空の想定についての質問を相手チームにぶつけました。
それに対して相手チームは、もし本当に「理想の原子力発電所」なんてものが実現可能ならば認めても良いが、現実問題としてそんなものは不可能だと切り返してきました。
こうなればこっちのもの。
私は以下のような反撃を加えました。
今回のディベートのテーマは「原子力発電は必要か否か」であって、「現時点で原子力発電を推進すべきか否か」ではない。
だから、今現在の原子力発電に問題があるからといって、「原子力発電は必要ない」と結論付ける理由にはならない。
このディベートのテーマは「原子力発電は必要か」であるから、私たちは原子力発電の目指す理念に関して議論すべきである。
あなた方は「理想の原子力発電所ならば認めても良い」と同意したのだから、それは「原子力発電は必要」と認めているのと一緒ではないのか。
こうして当時の私はこのディベートを優位に進めていったのですが、今の時代だったらこんな詭弁はとても通用しないでしょう。
そもそも「原子力発電が必要か」という問い自体が、原発という現実とどう向き合っていくかを検討するために生まれたもの。
「理想の原子力発電」なんて言葉遊びを持ち出したところで、これからの現実を検討する材料としては全く無価値なものでしかありません。
こんな陳腐な空論でもディベートを優位に進められたのは、原発推進が国の規定路線としてまかり通っていた時代背景のおかげです。
誰が何を言おうと原子力発電は国策として推し進められていくという現実の中で、「原子力発電は必要か否か」なんて議論はそもそも、実際の原発行政には影響しない机上の言葉遊びでしかありませんでした。
面接試験の受験者だった私の個人的な目的は、原発行政の是非に言葉の上での決着を付けることではなく、その試験を突破すること。
当事の私は試験官に向けて、設定されたテーマの枠内で議論をする能力さえ示せれば良かったのです。
福島第一原発の事故によって原発の安全神話が崩壊し、原子力ムラによる世論形成のための情報工作が頻繁に取り沙汰されるようになった今、ディベートの中で反対派を論破していた当事の私は原子力ムラの手の平の上で良いように踊らされていた人物として評価されるでしょう。
この個人的な恥部を敢えて持ち出したのは、「話題の前提を疑う」という習慣の重要性を改めて訴えるためです。
今回の記事で疑われた前提は、4つほど挙げられるでしょうか。
まず一つ目は、「原子力発電は必要か」というディベートは現実の原発行政を問題にしているのかということ。
二つ目は、試験の受験者にとって、原子力発電についての信条的決着をつけることと試験をパスすることのどちらが重要かということ。
三つ目は、「原子力発電は必要か」という議論は原発行政の参考にするために行われていたのか、それとも原発推進のためのただの証拠作りとして行われていたのかということ。
そして四つ目は、私は何のためにこの記事を書いているのかということ。
インターネットが普及した現代、世の中には膨大な量の情報が溢れています。
こうした情報の氾濫の中では、一つ一つの情報を見極める情報リテラシーが必要だと言われています。
この「見極める」という言葉に、私は危険な響きを感じます。
情報リテラシーのことを単純に「どれが本当でどれが嘘かを見極める力」だと思っている人は、インターネット上の掲示板やつぶやきやブログなどで見極めたつもりになった「本当の情報」に振り回されることになります。
私が広まって欲しいと願う情報リテラシーとは「本当の情報を見極める力」とやらではなく、それぞれの情報がどんな意図で発せられたものかという「話題の前提を疑う」習慣のこと。
ですから私は、この記事をアップする私の意図が疑われることを、切に願っています。
※当ブログの主なテーマは、この世界を支配する「正しさ」という言葉のプロレスとの付き合い方。
http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2014/03/12/175400
※そのプロレス的世界観を支えている「記述信仰」の実態を、簡単な図にしてまとめています。