間違ってもいいから思いっきり(市井人の日曜研究)

私たち人間は、言葉で物事を考えている限り、あらゆるものを「是か非か」と格付けする乱暴な○×ゲームに絶えず影響されています。ここでは、万人が強制参加させられているこの言語ゲームを分析し、言葉の荒波に溺れてしまわないための知恵を模索していきます。

歩兵教育の惰性



「安易に学級崩壊という言葉を使うのはおかしいのではないか」

 そう私に語りかけてきたのは、小学校で勤める友人。
 彼女は日本人なのですが、家族の仕事の関係で海外生活が長く、初等教育はドイツで受けています。
 そのため彼女は、日本の初等教育のあり方を知らないまま日本の小学校で勤めることになり、そこで初めて画一的すぎる小学校教育の実態と直面してしまったのです。

「小学1年生くらいの子どもなら45分も椅子に座っていられないのは当たり前なのに、教室内で歩き回っているくらいで学級崩壊と呼ぶのは変だ」

 彼女のこの指摘は非常にまっとうなものです。 
 ドイツの心理学者ゲハルト・ラウトは子どもがじっとしていられる時間について研究し、その成果をレポートを『Baby und Familie』誌に掲載しました。
 彼は子どものじっとしていられる時間を、5歳児で10分から15分、10歳児でも約20分だとしており、それ以上に「じっとしていること」を求めるのは「非現実的な期待」だと述べています。

 2013年12月14日付のニューヨークタイムズ紙にも「ADHDを売ること」という特集が組まれており、「医師も教育者も親も、製薬会社のADHDの治療薬のキャンペーン」に乗せられ過ぎではないかと疑問視する声を紹介しています。
 それによると、多くの親や教育者が非現実な期待から「子どもがじっとできないこと」を許容できなくなっており、アメリカではADHDの薬を服用している子供の数が、1990年の60万人から350万人に増加しているそうです。

 「子どもがじっとできないこと」が当たり前だと許容できるのならば、教育のプログラムもそれを前提として組み立てることができます。
 実際、彼女がドイツで受けた小学校の授業では、教師の話を椅子に座ってずっと聞かされ続けるなんてことはなかったと言います。
 授業の最初にその時間で達成すべき目標が示され、子どもたちは座席に縛られることなく自由に行動しながら自分たちで試行錯誤したり相談し合ったりし、教師は子どもたちの自主的な学びをただサポートするだけ。

 そんな教育を受けてきた彼女にとっては、生き物として非現実的なあり方を子どもに押し付けておきながら、その勝手な期待が裏切られたからといって「学級崩壊」など騒ぎたてるのは馬鹿馬鹿しいと感じられたのでしょう。
 また、彼女は日本の教育とドイツの教育との関係について、以下のような疑問も抱いていました。

「日本の教育システムはドイツを参考にして作られたと言われているが、自分が実際に受けてきたドイツの教育と全く違うのは何故か」

 この質問に対する私の回答は、日本が参考にしたのは彼女が実際に受けた現代のドイツにおける教育ではなく、明治維新当時のドイツにおける教育だということ。
 イギリス・フランス・ロシア・アメリカ・ドイツなど列強と呼ばれる国々による植民地拡大が盛んだった時代、他のアジアの周辺諸国と同じように欧米列強に従属させられないようにすることが日本にとっての緊急の課題でした。

 そういった列強の仲間入りをするために日本は各国からさまざまな制度を取り入れましたが、そのときドイツから吸収したのが学校教育システムであり、ドイツ式の歩兵運用法です。
 ドイツ式の歩兵運用とは、集団で縦横が揃った陣形を作り、歩幅を揃えて隊列を崩さないように移動し、銃の発射や装填もすべて指揮官の合図に従って一斉に行うというもので、各自の勝手な判断で発射したりを隊列を乱したりすれば懲罰を課されていました。
 そして、そんな軍規に従って整然と集団行動を遂行できる人間を効率よく育成するためのカリキュラムが、学校教育の段階から組織的に組み込まれていたわけです。

 「気をつけ」「礼」「着席」「右向け右」「回れ右」「全体止まれ」などの号令、整列や行進などの集団行動、 海軍で行われていた5分前行動の徹底、小隊・分隊をモデルにした組・班という行動の単位、行軍の演習としての遠足、模擬戦の意味を持つ赤白別れての運動会、現在の軍隊でも訓練として行われている障害物競争などなど、これらは効率的な歩兵教育のために生まれた制度です。

 こうしたマイルドな軍事演習を初等教育の段階から取り入れるというのは、時代の流れに合わせた政府の選択の一つ。
 第一次大戦、第二次大戦をきっかけに歩兵訓練的な教育は時代の流れとは合わなくなってきたため、欧米諸国では次第に選ばれなくなって廃れていきました。
 ですが、日本では「近代教育とはこうあるべき」という最初の刷り込みの影響が強かったのか、終戦以降も学校教育の枠組み自体には大した変化はなく、それまでの歩兵教育の惰性をいつまでも引きずることになります。

 私が言う歩兵教育の惰性とは、「集団行動での規律を優先すべき」「目上の人からの命令は絶対」といった態度のこと。
 戦前・戦中に支配的だった「お国のために」という建前の方は、戦後になって国民主権・平和主義・基本的人権の尊重などの民主的な物言いに刷り変わっていきましたが、権威に追従し集団としてのまとまりを優先するムード自体は民衆の間に温存されていきました。
 伝統的な家父長制が解体されてからもしばらくは「父親の言うことは絶対」という制度の名残が各家庭に残っていましたし、「学校では教師の言うことには従うもの」という不文律も戦後長らくの間は有効でした。

 椅子に座って教師の言うことを聴くだけの授業が小学校低学年の段階で成立していたとすれば、それは徹底した歩兵教育の影響が人々の中にまだまだ残っていたから。
 学校での教師の指導のあり方だけでなく、家庭での躾や社会の雰囲気といった諸々の同調圧力が働いていたために、多くの子どもたちは「学校では教師の言うことに従う」という態度を自然に身に付けていられました。

 ですが、そういった過去の歩兵教育の惰性は、世代が交代していくとともにだんだんと失われていきます。
 「たとえ権威者の言うことであろうが盲目的に従う必要はない」という言説がようやく主流となってきた現代の日本において、小学校低学年の子どもたち全員に「45分間行儀よくじっと教師の話を聴く」という不自然な態度を強制できるような同調圧力はほとんど存在していないのです。

 だからといって「45分間行儀よくじっと教師の話を聴くような画一的な授業には意味がない」と言い切ることもできません。
 何故ならば、この日本では「古き良き歩兵教育のあり方」を名残惜しんでいる人々がまだまだ力を持っているから。
 教育問題について「昔は今よりも良かった」と語る人のほとんどは、教育における「歩兵教育的な側面」が機能しなくなったことを嘆いているに過ぎません。

 「うちの子が言うことを聞かないのは先生の指導が至らないから」といったクレームを付ける親や「学校での指導が至らないから我慢の効かない若者が増えていく」と嘆く経営者たちの本音とは、結局のところ「聞き分けのよい歩兵のような人材に育ててほしい」ということ。
 そのような身も蓋もないニーズは社会の隅々でまだまだ根強く、子どもに関わる教師には「優秀な歩兵へと鍛え上げられる優秀な教官」としての能力が暗に期待されていたりします。

 幸か不幸か「優秀な歩兵としての振る舞い」を身に付けられた人間は、「優秀な歩兵のような人間を好む有力者」には気に入られる可能性が高いため、結果的にこの日本社会を上手く世渡りしていけるかもしれません。
 実際、生きるか死ぬかの大災害にさらされても、救援物資を受けとるのにきちんと列を作って順番を待てる日本人の異常なまでの行儀のよさは、「統制のとれた歩兵としてのあり方」を理想とするこれまでの教育の賜物と言えるでしょう。
 ですから、今もなお形を変えながら続いている日本の画一的な教育の姿が、全くの無意味だとは決め付けられないのです。

 内田樹はそのブログ記事の中で、人の指向を「平時対応」か「非常時対応」かで分類するというものの見方を提案しています。
http://blog.tatsuru.com/2014/05/14_0818.php

自分の将来について考えるときに、「死ぬまで、この社会は今あるような社会のままだろう」ということを不可疑の前提として、このシステムの中で「費用対効果のよい生き方」を探す子供たちと、「いつか、この社会は予測もつかないようなかたちで破局を迎えるのではあるまいか」という漠然とした不安に囚われ、その日に備えておかなければならないと考える子供たちがいる。

「平時対応」の子供たちと「非常時対応」の子供たちと言い換えてもいい。
実は、彼らはそれぞれの「モード」に従って何かを「あきらめている」。

「平時対応」を選んだ子供たちは、「もしものとき」に自分が営々として築いてきたもの、地位や名誉や財貨や文化資本が「紙くず」になるリスクを負っている。
「非常時対応」の子供たちは、「もしものとき」に備えるために、今のシステムで人々がありがたがっている諸々の価値の追求を断念している。

 内田樹はこのように述べて、地位や名誉や財貨や文化資本を得るための「平時対応」の能力を「どうでもいい才能」と呼び、この世の根本的な成り立ちについて考察するための「非常時対応」の能力を「真の才能」と名付けています。
 これらの言葉を使って語るならば、画一的な歩兵教育とは「優秀な歩兵としての生き方をよしとする世界」で上手く生きていくための「平時対応」の能力を鍛えるものと呼べるでしょう。

 こうした「平時対応」の「どうでもいい才能」を伸ばすための教育に専念する人ならば世の中にいくらでもいますので、私自身は「非常時対応」の「真の才能」を暖かく見守れるような教育者でありたいと考えています。

http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2014/04/20/001000
 そして、叶うことなら自分自身も「非常時対応」の「真の才能」を発揮していきたいと願いながら、これからもこのブログを更新していこうと思います。


※当ブログの主なテーマは、この世界を支配する「正しさ」という言葉のプロレスとの付き合い方。

http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2014/03/12/175400
※そのプロレス的世界観を支えている「記述信仰」の実態を、簡単な図にしてまとめています。

http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2014/07/06/051300