間違ってもいいから思いっきり

私たち人間は、言葉で物事を考えている限り、あらゆるものを「是か非か」と格付けする乱暴な○×ゲームに絶えず影響されています。ここでは、万人が強制参加させられているこの言語ゲームを分析し、言葉の荒波に溺れてしまわないための知恵を模索していきます。

恋愛にたとえる数学

 私の本職は高校の数学教師。
 当ブログのテーマは人間を変容させてしまう言葉の影響力なのですが、こうした言葉へのこだわりも元々は数学との関わり方から生まれたものです。

http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2014/06/29/053200

 数学とは、自然科学などにも使える便利な理系の言語。
 真に数学が得意な人は、日本人が漢字やカタカナを使うことで外国生まれの概念を日常に取り入れているのと同じように、さまざまな問題を考えるのに数学という言語を当たり前に使用しています。

 「数学も言語の一種に過ぎない」と私が確信できたのは、高校1年生の確率の授業のとき。
 定義や定理や法則というのは結局のところ言葉なんだから、矛盾なく意味が読み取れる文章を組み立てることができればそれこそが正しい解答として認められるし、そもそも教科書だってそのようなマナーで書かれているのだと合点がいったのです。

 それまでの中学数学で出てくる問題と言えば、「計算しなさい」「方程式を解きなさい」「グラフをかきなさい」「交点の座標を求めなさい」「2つの三角形が合同であることを証明しなさい」「角度を求めなさい」 のような単純な命令文がほとんど。
 たとえ問題の解き方が分からなかったとしても、「何を聞かれているのか」という質問の意味自体を理解するのはそう難しくありません。

 ですが、高校数学の応用問題では問題文の構造や使われる言葉がちょっぴり複雑になりますので、中学までの数学よりもしっかりとした日本語の読解力が必要になります。
 ですから私は教師として数学の「言語としての側面」を重視して教え、「たとえ初めて見るような問題であっても、用語の意味と日本語の使い方さえ理解していればどんな問題も読み取ることができる」と伝えるようにしています。

 そして、どうすれば生徒の印象に残るかと考え、黒板の板書だけでなく比喩表現やボディランゲージなども駆使しています。
 教師として経験を積むうちに、ガチャガチャの販売機のイメージから数列の和の記号Σを教えたり 、ヒーロー戦隊ものの合体ロボットのイメージでベクトルの和と分解を「のりしろ合体」として教えたり、x軸に垂直な直線には傾きが存在しないこたとをパントマイムを交えて説明したり、法則や問題文を恋愛話にたとえてみたりと、思い付いたことはその場のノリで何でも試すようになりました。
 今回はその中でも、「数学を恋愛にたとえてみた場合」の生徒との対応例を2つほど紹介してみたいと思います。

 まず最初は『1から100までの自然数のうち、2と7の少なくとも一方で割り切れないような数はいくつあるか』という問題を質問してきた生徒との受け答えです。
 この問題を解くためには「少なくとも一方」という日本語の意味と、「ド・モルガンの法則」という論理法則を把握しておく必要がありますが、この質問してきた生徒はド・モルガンの法則をそれほど理解していないようでした。
 そこで、以下のようなたとえ話をしました。

P子さんの好きなタイプはイケメンかまたは金持ち。
相手がイケメンか金持ちか、どちらか片方の条件でも満たしていればP子さんはその人と付き合っちゃいます。
ここにX君がいて、P子さんに告白しましたが振られてしまいました。
さてX君はどんな人だったのでしょう。

「イケメンでも金持ちでもない」

正解!
これがド・モルガンの法則なんよ。
「AまたはB」の否定は「AでないかつBでない」になるんよね。
じゃあド・モルガンの法則の2つ目に行ってみようか。

Q子さんはP子さんよりも図々しい根性の持ち主で、イケメンでなおかつ金持ちな人しか相手にしないし、その条件さえ満たしていれば誰でもOKなんよ。
ここにY君がいて、Q子さんに告白しましたが振られました。
さてY君はどんな人だったのでしょう。

「うーん………やっぱりイケメンでも金持ちでもないかなあ」

それは正解とは言えないねぇ。
Q子さんはイケメンと金持ちの両方を兼ね備えていないと付き合わないんだから、たとえイケメンであっても金持ちじゃなきゃダメだし、イケメンじゃない金持ちでもダメなんよ。
つまりイケメンか金持ちのどちらかでも欠けていたらダメってこと。
だから「イケメンでなおかつ金持ち」の否定は「イケメンでないかまたは金持ちでない」なんよ。

「なるほど、納得」

それがド・モルガンの法則の2つ目で、「AかつB」の否定は「AでないまたはBでない」ってことなんよね。
さて、ここでさっきの問題に移るんだけど、「2と7の少なくとも一方で割り切れない」というのはつまり「2で割り切れないか、または7で割り切れない」っていうのと同じなんよ。
だからこの問題もド・モルガンの法則で考えれば良いわけ。
「2で割り切れないか、または7で割り切れない」は「2の倍数であり、かつ7の倍数でもある」の否定と同じこと。
「2の倍数であり、かつ7の倍数でもある」ということはつまり14の倍数ってことだから、この問題では「14の倍数でない自然数」が何個あるかを数えればいいってわけ。

「なんだそういうことか。じゃあ100割る14は……7あまり2だから14の倍数が7個。100引く7は93だから、14の倍数じゃない数は93個!」

はい、大正解!

 「~~の法則」などと大袈裟な名前が付いてしまうと日常とは関係がない学問の世界だけの話と思われがちですが、この「ド・モルガンの法則」は日常言語における基本的な論理の働き方を抽出しているだけ。
 計算や数式といった側面ばかりが注目されがちな数学ですが、複雑な問題になればなるほど「言葉の意味が分かっているかどうか」という日本語の問題こそが重要になっていくのです。

 そして次に紹介するのは、授業で2次方程式の問題演習をしていたときの、生徒からの質問に対する解説です。
 その授業では、「2つの2次方程式が互いに共通な解を持つための条件」を求める問題を扱った後に、「2つの2次方程式がともに実数解を持つための条件」を求める問題を解説したのですが、質問した生徒はこの2種類の問題の区別がつかなくて混乱しているようでした。

 「共通な解を持つための条件」という問題では2次方程式Aと2次方程式Bが同じ解を持たなければいけないと説明していたので、その生徒は「ともに実数解を持つための条件」という問題でも2つの2次方程式が同じ解を持たなければいけないと勘違いしてしまったのです。
 これもまた純粋に日本語の読み取りの問題ですから、具体例を持ち出して以下のようにその違いを説明してみました。

「A君とB君には、ともに彼女がいます」

こう言ったらどういう意味になるかな。
A君にはA君の彼女が、B君にはB君の彼女が、それぞれいるってことだよね。
このときは2人ともたまたま彼女がいるってだけであって、A君の彼女とB君の彼女の間には別に関連性は無いわけ。

2次方程式Aと2次方程式Bは、ともに実数解を持つ」

この文章だって同じこと。
2次方程式Aは2次方程式Aで実数解を持ち、2次方程式Bもそれとは関係なく実数解を持つってだけ。
お互いの実数解はそれぞれ別で構わないんよ。
「彼女がいる」っていうのが「実数解を持つ」にすり替わっただけなんだからそうなるはずだよね。

さっきの問題で2つの2次方程式の解が同じじゃなきゃいけなかったのは、それが「共通な解」って問題だったから。
これを彼女の例に直そうとすると「A君とB君には、共通の彼女がいます」という風になって、ドロドロの三角関係になっちゃうよね。

でも「A君とB君には、ともに彼女がいます」なら別に普通のことだよね。
だからこの問題では、2つの2次方程式は同じ解を持つ必要はないんよ。

 この解説によって、生徒もようやく2つの問題の違いを理解してくれました。
 「ともに」も「共通な」も日常会話であれば当たり前に読み取れる言葉でしょうが、「数学の言葉は、普段使っている言葉とは全然違うものだ」という先入観のせいで普通には読み取れなくなっていたのです。

 数学の問題は一種の言葉遊び。
 日頃から言葉の意味をしっかり理解して使っていれば、見たことのない応用問題に出会ったとしても質問の意味が分からないという事態は起きません。

 私たち文明人にとっての世界は言葉で形作られています。


失われた神を求めて - 間違ってもいいから思いっきり


 ですから、言葉との付き合い方は万人にとっての重要な課題です。
 私も一人の高校教師として、これからも数学の授業を通じて言葉の重みを伝えていけたらと考えています。


※当ブログの主なテーマは、この世界を支配する「正しさ」という言葉のプロレスとの付き合い方。

http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2014/03/12/175400
※そのプロレス的世界観を支えている「記述信仰」の実態を、簡単な図にしてまとめています。

http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2014/07/06/051300