間違ってもいいから思いっきり

私たち人間は、言葉で物事を考えている限り、あらゆるものを「是か非か」と格付けする乱暴な○×ゲームに絶えず影響されています。ここでは、万人が強制参加させられているこの言語ゲームを分析し、言葉の荒波に溺れてしまわないための知恵を模索していきます。

自分の好き嫌いや欲求は断言しても構わない

今週のお題「20歳」
 
 この『間違ってもいいから思いっきり』というブログに書いているようなことを考え始めたのは、ちょうど18年前の2~3月くらい。
 大学一年生だった私は、時間をもて余して眠れなくなった春休みの夜に、ただひたすら考え事をしていました。
 
 そのとき私が一生懸命考えていたのは、「世の中は間違っていてどいつもこいつも馬鹿ばかりである」という想いを、数学の証明のようにクリアに説明し切ってしまいたいということ。
  ですが、大学の数学科で基礎論などをかじっていた私は、数学のレベルの厳密さでは、現実世界のできごとなんて何一つ証明できないと気付きます。
mrbachikorn.hatenablog.com
 
 そして「世の中は間違っていてどいつもこいつも馬鹿ばかりである」なんてことを数学レベルの厳密さで言い切りたがっていたそれまでの自分を恥じ、同じ愚を二度と繰り返さないようにと「証明できていないことは決め付けない」というマナーを自分に課すことにしました。
 そうすると、現実世界のことに触れた「+++は***である」という種類の言及は、どれも私の証明できる範囲を超えていますから断言できません。
 これらの話題については「たぶん+++は***だろう」とか「おそらく+++は***じゃないかと思う」という言い方しかできなくなったのです。
 
 しかし、「私は***だ」という言及になると話が別です。
 ここまでの議論を忠実に再現するなら「私」も現実世界の事柄の1つですから、「私はラーメンが好きだ」や「私はキャンプに行きたい」なんて発言も許されません。
 なぜなら「私は本当にラーメンが好きなのか」とか「私は本当にキャンプに行きたいのか」という問いに対して、私は「私がそう思っているからそうだ」という何の説明にもなってない答え方しかできないからです。
 
 ただ、「私は今からラーメンを食べる」とか「私は来週キャンプに行く」という決意表明に関してはぎりぎりセーフとみなされました。
 なぜなら数学の答案において「今からこの方程式を解く」とか「今からこの命題を証明する」というような決意表明は認められていたからです。
 それすら認めなければ何の行動も起こすことができないし、数学という学問を作ること自体が不可能になりますから。
 
 ただ、決意表明の一歩手前には「* **したい」という欲求の存在を、その欲求の一歩手前には「***が好きだ(嫌いだ)」という好みの存在を想定することができます。
 つまり19歳から20歳にかけての私にとっての問題は「自分の欲求や好みを断言できるか?」ということでした。
 自分に課した「証明できないことは断言しない」というマナーに従うならば、私は「*** したい」とも「***が好きだ」とも言えないのです。
 
 私はしばらくの間、「たぶん***したいんだと思う」とか「たぶん私は***が好きだろう」という推測を述べることだけを自分に許していました。
 しかし、この『「***したい」とか「***が好きだ」という風に断言したい』という想いだけは、自分にどう言い聞かせようとも解消できません。
 ・・・ほら、このように『断言したい』と思ってしまっています。
 これもマナー違反となると、私の想いは吐き出しようがないのです。
 
 この「証明できないことを断言するかどうか」という個人的な問題は、20歳の頃に少しだけ前進することになります。
 そのとき考えたのは、「断言に対して自分が感じている不快感はどこから来ているのか」ということ。
 
 そしてその答えは、「他人の都合で自分の都合を仕切られてきたことへの反発」が主な原因だろうということに落ち着きました。
 子どものころから「こうあるべきだ」「***してはいけない」といった道徳的な命令には「どうも嘘くさい」という不信感を抱いていましたし、「+++は***である」という現実世界の解釈についての断言も「発言者の好む世界観を勝手に押し付けられている」という不快感を覚えていましたから。
 私は、証明できないようなことを断言することで、自分に不愉快な思いをさせた人々と同種の人間になってしまうのを避けたいと考えていたわけです。
 
 たとえば「人を殺してはいけない」「小津安二郎の映画は素晴らしい」「相対性理論は正しい」という3つの主張を見てみましょう。

 これらの主張を人に向けて断言した瞬間、私の中で「他人の都合を仕切ろうとする行為への嫌悪感」が発動していました。
 なぜなら、これらの断言は「この主張を真なる主張として認めよ」という発言者からの押し付けがましい命令として解釈できたからです。
 
 ただ、「小津安二郎の映画は素晴らしい」「相対性理論は正しい」については、発言者にそのような命令の意図はないかもしれません。
 しかし、「誤解の可能性のある表現は極力使わない」という数学のマナーからすると、「命令として解釈できる余地が残っている」という時点でこの言い方はアウトでした。
 
 じゃあ口には出さずに自分の心の中で思っているだけなら大丈夫なのかというとそうではありません。
 私は「自分の中での正義」とか「自分の中での真理」といった方便にも嫌悪感を覚えたのです。
 
 「自分の中での正義」や「自分の中での真理」というのは、直接口に出してなくても自分の中で「あれは正しい」「これは間違ってる」というジャッジを下しているわけで、結局は自分の都合で他人の都合を裁いてしまっているということです。
 私にとっての問題は「口に出して断言するかどうか」ではなく「心の中で愚かな決め付けをしているかどうか」でした。
 
 ではここで「人を殺してほしくない」「小津安二郎の映画が好きだ」「相対性理論はたぶん正しいだろう」という言い回しに変えてみたらどうでしょう。
 先ほどと違ってこれらの言い回しは「他人の都合」について何も強制しておらず、「自分の身の程をわきまえて話そう」という節度を備えています。 
 「人を殺してほしくない」というのは明らかに「他人の都合」に触れてしまってるじゃないかと思われるかもしれませんが、「してほしくない」という主張の仕方においては、これはただの私的な願望であり、実際にどうするかを決めるのは「相手の都合」しだいであるという節度がちゃんと守られています。
 
 つまり、「***したい」や「***が好きだ」と自分の欲求や決め付けてしまっても、私の中で「他人の都合を仕切ろうとする行為への自己嫌悪」は発動しないということに気づいたのです。
 「自分の好みや欲求について証明することはできないけど、これらについては断言してしまっても他人の都合を踏みにじることにはならない」という気付きによって、20歳の頃の私は「+++ は***だろう」という推測のほかに、「***したい」とか「*** が好きだ」という欲求や好みについての断言を自分に許すことにしました。
 
 こうした20歳の頃の気付きから、さらに考えを進められたのは26歳の夏。
 このとき私は内田樹のブログと出会い、青年期の私が抱いていた「数学と同じくらい厳密な水準でしか断言をしたくない」というこだわりは、「言葉はそもそも世の中がどうなっているのかを描写したり記述したりするためにあるもの」という固定観念が生み出していたのではないかと思い当たります。
 言葉の根本的な存在理由が「人心を説得すること」ならば、「断言」とは人心を説得するための効果的なテクニックの一つに過ぎないわけですから、「正しく記述すべき」という無駄なこだわりで自主規制する必要などなかったという結論に至ったのです。
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 そんなわけで、私は私の個人的な好き嫌いを堂々と発信していきます。
 20歳の頃にそう感じたように、そこにどんな意味があるかなんて説明できなくても、己の欲求に従ってただ為したいことを行うのみです。

 
※当ブログの主なテーマは、この世界を支配する「正しさ」という言葉のプロレスとの付き合い方。
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そのプロレス的世界観を支えている固定観念の源を「記述信仰」と名付け、その実態を以下のような図にまとめて解説しています。