間違ってもいいから思いっきり

私たち人間は、言葉で物事を考えている限り、あらゆるものを「是か非か」と格付けする乱暴な○×ゲームに絶えず影響されています。ここでは、万人が強制参加させられているこの言語ゲームを分析し、言葉の荒波に溺れてしまわないための知恵を模索していきます。

ただ投票率が上がればいいのか

 いわゆる熱血先生とは全く違う教師像を描いた『鈴木先生』は、ドラマや映画にもなった漫画作品。

 作者の武富健治は、この作品を書いた動機について以下のように語っています。
 
僕は中学生のころ、テレビで〈3年B組金八先生〉を見て、育った世代。
あの物語って、熱血先生が問題を抱える生徒を救う場面が多いでしょ。
僕みたいな普通の生徒には、なかなか光が当たっていない印象だった。 
でも、一見普通に見える生徒も、実は鬱屈したものをいっぱい抱えている。
だから、普通の生徒や教師を主人公にした物語を書こうと思った。
 
 そんな『鈴木先生』の中でも、映画化された生徒会選挙のエピソードは必見。
 ことの発端は、前年に多かった無効投票を撲滅するために、岡田という熱血体育教師が職員会議の場で提案し実行に移された、生徒への啓発や指導を強化する取り組み。
 小学校の児童会選挙での落選をきっかけに不登校に陥ってしまった親友を持つ中学2年の西は、この教師たちの取り組みへの反発の意を表明するために生徒会長に立候補し、立ち会い演説の場でまずはいいかげんな気持ちで選挙に参加している生徒たちの不真面目さを糾弾します。
 
ぼくがここに立ったのは————
今まさに行われている…この生徒会選挙のあり方に異を唱えるためです!
 
しかし…マトモにやったら最後まで喋らせてはもらえないでしょう…
だから便宜上こうします…
 
ぼくが生徒会長になったら生徒会選挙を改正します!
今から話すのはその内容です!
 
まず皆さんにお聞きしたいのですが…
この選挙…
生徒会役員、書記、会計、副会長…
そして生徒会長と——
 
それぞれ誰に…
どんな理由で票を投じますか?
 
友達だから…?
部活の先輩後輩だから…?
カッコいいからきれいだから…
そんな理由の人もいるかもしれない
 
そんな理由で投票するのはちゃんと考えていないやつだ!
私は違う!!
そう考える人も多いかと思います
 
では…いったいどれくらい調べ考えればちゃんと選んだと言えるでしょうか!?
 
ぼくは…
ポスターの公示があってから今日まで…
勉強や自由の時間を大幅に削って各候補者について調べ…考え——
今の演説の内容や様子もしっかりと観察分析し…
誰に入れるか本当に真剣に吟味しました
 
しかしちゃんと考えれば考えるほど…
自分の判断に疑念が湧き——
誰に入れたらいいか分からなくなりました!
 
みんなそれぞれに期待してもよさそうな良さがあり…また逆に信用できないといえばどいつも信用できない!
それが隠さざるぼくの実感です
 
例えば…ぼくが本当は大したヤル気もなく…
邪悪な目的でここに立っていたとします
 
それでもなお——
訓練によってさわやかな表情や発声を身につけ好イメージを打ち立てることもできるし————
公約の内容にしてもネットなんかでそれらしいのをでっち上げることもたやすくできるんです
 
現にぼくも…
もともと吃音癖があるのですが…
有料のセミナーに3ヶ月通ってこの通り…舞台上では流暢に話すことができるようになりました…
 
実際には自分に実現能力などなくても————
自己洗脳で自分をだまして考えないようにすればヤル気に満ちた頼れそうでパワフルなキャラになり切ることも容易だし…
気の利いた公約を別の誰かに考えてもらい傀儡を演じることも決して困難な仕事ではありません!
 
難しいのは———
そういったうさんくさい能力も当選後実力として役に立つことも多く…
単なる上辺の飾りに過ぎないと切り捨てるわけにもいかないということです…
 
そんなことまで合わせて考えるととても片手間では正しい判断にたどり着かない
投票というのはこんなにも重く難しい仕事なのかと————
正直投げ出したくなります……
 
それでも…
もし他の投票者が真剣に苦悩して投票し————
投票後結果が出たあとも自分の投じた一票の重さや正しさについて後悔や反省を深く重ねているのならたとえどんなに苦しい作業であってもぼくはそれをやる!
全身全霊をもって投票にのぞみます!
 
しかし…!
正直…ぼくには多くの人がお気楽な覚悟で…
下手すれば能天気なイベント気分でいいかげんに参加しているとしか思えない!
 
 こう指摘された生徒たちの中にはこの西の言葉をしっかり受け止める者もいれば、「何勝手に決めつけてんの!」「私たち全然いいかげんなつもりでなんか参加してませーん」「ふざけんな!!」などと罵声を浴びせる者もいます。
 それらの罵声に対し、西は理詰めで反論を突き返します。
 
最悪なのは…
自分がどれだけ不真面目なのかさっぱり分かっていないで…
自分は十分に義務を果たしていると信じて疑わない阿呆だ!
 
本当に真剣に取り組んでいる人なら…
必ず自分の仕事に迷いや葛藤がある!
ぼくのこの言葉に怒りを感じたとしてもそれをむき出しにぶつけることを自分に許すはずがない!
その単純さが不真面目さの証拠だッ!!
 
 そして、返す刀で無効投票をなくそうと働きかけている教師たちへの批判を続けます。
 それは「たとえ軽い気持ちの一票だろうととにかく有効投票が増えさえすればそれでよい」という、大人たちの本音を見透かした発言でした。
 
しかし!ぼくが批判したいのは個々の不真面目な投票者ではありません…
ぼくが最も怒りを覚えるのは…
そんな不真面目な投票に対し何のてこ入れもしないままただ参加率だけを上げようとし…
そんな不真面目な投票者の一票を真剣な投票者の一票と全く同じ重さでカウントすることを公平として恥じない選挙のあり方そのものです!

単なる無関心や無責任で投票をサボっているだけのいいかげんな人もいるでしょう!
ですから選挙に興味を持つように指導すること自体をぼくは否定しません!
 
しかしそれならば!
真剣に…
全身全霊をもって——
自分の投じるその一票の重さを深く認識し…
その上で投票するべきだと指導するべきです!!
 
なのに…学校側はそんな指導はしません!
それはなぜか!?
 
それは…
そこまで言うといいかげんな人はついてきてくれないからです!

それどころか今参加している人まで引いてしまい…
投票率が下がってしまう
それが怖いからじゃないでしょうか…
 
しかし!
真剣な人間にとっては…
いいかげんな人がいいかげんなままで自分と同じ重さの一票を投じる権利を持ち…
しかもその数を体制側が率先して増やすことを良しとされている現状は絶望的でしかありえません!
 
その現状を思い知ったのは一昨年…ぼくが小6のとき————
東小で投票率を上げるため…
記名制で全員投票が強制された時でした!
 
それまで…
いいかげんな人は投票しなかったりふざけたり無効投票をしていたのが…
いいかげんなまま有効投票に流入し————
選挙の結果に重大な影響を与えたんです!
 
 西の親友だった渡は小5の頃から児童会に立候補して副会長を務めており、その経験を活かして小6の選挙では児童会長に立候補しました。
 ですがその年に、転校してきた人気子役俳優が児童会長に立候補し、さらに教師たちが不真面目な無効投票を取り締まるために記名投票を取り入れました。
 結果的に、児童会長には子役俳優が当選し、児童会活動にやり甲斐を覚えていた渡か不登校へと陥ったことで、西たちは学校で行われる選挙に不信感を抱くようになります。
 
真剣に選挙に参加していたぼくらは…
もう二度とこんな選挙に関わらないと固く誓い合いました…
 
そして中学に上がってから————
昨年の生徒会選挙でぼくら十数人の同志は意図的に選挙をボイコットし————
組織的に無効投票を行いました!!
 
小6の時に誓い合っていたのでそのときに長々と打ち合わせる必要はなく…ただ目配せと「やるぜ」の一言で————
全ては通じ合ったのです…!
 
全員投票が義務づけられているこの中学の生徒会選挙のシステムの中では…
ぼくらには無効投票するくらいしか道がなかった…!
 
逆に言えば…
ぼくらにそれくらいの逃げ道を許してくれてさえいれば…
ぼくらもそれ以上の主張をするつもりはなかったんです…!
 
今回ぼくがここまでして自分たちの主張をぶちまけようと決意したのは…
ついに学校側が無効投票の撲滅及び全員投票の推奨を押し付け…ぼくらの最後の自由に干渉してきたからです!
 
どうして…
そっとしておいてくれないんですか…
 
少数派だろうとどうにかがんばればできる種類のことならぼくらもたやすく絶望などしたりしません…
でも選挙ってのは完全な多数決じゃないですか!
 
システムまでが加担して…
いいかげんな投票をどんどん増やして…
ぼくらの真剣な票の重みはどんどんと軽くなっていく!
 
このむなしさ…
絶望感が分かりますか!?
 
 西は今回の取り締まりの中心人物である岡田を指差してこう訴えました。
 「目指せ有効投票100%全員参加で実現する公正な選挙」というスローガンを掲げていた岡田は、気持ちは分かったがなぜわざわざ無効投票というルール違反の手段を取らねばならないのか、誰か一人を選び切れないのなら「該当者なし」と書くという手段がちゃんと認められているだろうという反論を返し、西たちの犯したルール違反を諌めます。 
 西の主張を汲み取れていない岡田のこの反論には一般生徒の中からもどよめきが起こり、西は「話をちゃんと聞いてください」と前置きをした上で分かりやすくこう言い直します。
 
ぼくたちは…単に人を選び切れずに投票を放棄したいわけじゃない…!
ぼくたちが何より票を入れたくないのはこの選挙システムそのものです!!
 
「『該当者なし』と書く」という認められた手段で参加してしまえば…
それは————この選挙システムに一票を投じたことになってしまうんですよ!!
 
 西の意図をようやく汲んだ岡田は、批判ばかりでなく対案はあるのかと問い詰めます。
 それに対し、西は「よりまともな選挙のあり方」を真剣に検討してみた経緯を語ります。
 
————例えば…
選挙権を手に入れるためにある程度の適正テストを行い合格した者だけが投票することができるようにする…
 
あるいは匿名投票を廃止し…自分がその候補者に投票した理由を長文でしっかりと書かせ…
それがまっとうな判断かを大勢の人間で審査する…
 
…こんなことを考えてみましたが
弊害があったり現実化が難しかったり
…まともな対案にはなりませんでした…
 
 対案が提案できないのであれば少々の不満があっても現行の制度に従えないのかなどと言いかけた岡田に対し、西は間髪入れずに昨年の「ルール違反」の真意を語ります。
 
だから…言ってるんじゃないですか!
現行のやり方で他に仕方がないのならせめてぼくらのこともほっておいてくださいと!
 
無効投票する者の中にも…単なる怠惰や不真面目以上の理由を持っている者もいる!
その可能性を認め…
「無効投票」をやみくもに取り締まらないようにしてほしい————
そう言っているんです!
 
 この西の訴えに、聴いていた生徒からも静かな共感の拍手が起こります。
 自身の「やみくもな取り締まり」から説得力が失われたと認めた岡田はこれで引き下がり、西は反体制的な主張を最後まで続けさせてくれた教師たち・選挙管理委員・そして聴いてくれた生徒たちへの感謝の意を表して演説を終えました。
 
 実はこの生徒会選挙が始まる前、職員会議の場で岡田が無効投票の取り締まりを提案した際に、 国語教師の鈴木は「全員投票を強制されている状況で、それでもなお無効投票する者の中には何らかの言い分を持っている者がいるかもしれないから、厳しく取り締まらずにグレーゾーンとして許容してはどうか」との提案をしていました。
 ですがその時は、歯切れのよい正論を堂々と掲げる岡田の無言の圧力に屈し、揉め事を避けて大勢に迎合していたのでした。
 
 しかし、西や元東小の生徒たちの思い詰めた様子を疑問に思い、生徒や東小の教師への聞き取りを通じて西の真意をおぼろげに推測していた鈴木は、不穏な様子の西を力付くで抑えこみかねなかった岡田ら教師をたしなめ、西が最後まで演説し切れるようにとお膳立てをします。
 単純で分かりやすい正論を盾に無効投票を撲滅しようとする教師たちの姿勢を変えるには、職員会議の場での机上の空論ではなく、自身の推論を裏付けるような生徒たちからの生の声が必要だったのです。
 
 この西の演説のおかげで、教師たちは無効投票を「怠惰や不真面目さの現れ」だと断ずることを控え、生徒たちはいつもの「能天気なイベント気分」とは一味違った心持ちで投票することができました。
 既存の体制や分かりやすい建前論を徹底することばかりが正義ではなく、さまざまな考え方の人間がいる可能性を推し量ってグレーゾーンを敢えて残しておくという知恵も必要なのだと、学校全体が学べる良い機会になったわけです。
 
 民主主義社会において、私たちの民意は選挙を通じて表明できることになっていますが、たとえば「この選挙制度自体に賛成できない」といった類いの民意はなかなか表現しづらいものです。
 『鈴木先生』における西は、大多数の不真面目な投票者のいいかげんな判断によって結果が左右されてしまうポピュリズムの問題があるにも関わらず、生徒たちに「投票さえしていれば十分に義務は果たせている」と錯覚させてしまう教師たちの雑な取り組みに異を唱えるために生徒会選挙の場を利用しました。
 
 こうした雑な風潮は私たちが生きるこの現代社会にもはびこっており、投票に行かなければ怠惰や不真面目の証拠と断じられてたやすくバッシングされがちです。
mrbachikorn.hatenablog.com
 選挙制度政党政治の問題点を根本から見直そうというラディカルな取り組みも、現行の選挙制度を馬鹿にしていると断じられて小悪党扱いされがちです。
mrbachikorn.hatenablog.com
 
 選挙をめぐる単純で分かりやすい正論の圧力は、その論調にそぐわないその他の主張のあり方を認めずに、独自の考えを持っている異分子を「お前はどちらの味方か」という下世話な対立の構造に組み入れたがります。
mrbachikorn.hatenablog.com
 こうした政治にまつわる不愉快な圧力に振り回されてしまわないための向き合い方を、西や鈴木は教えてくれているのかもしれませんね。
mrbachikorn.hatenablog.com