意識の正体は何か。
そして、それはどこから生まれてきたのか。
この伝統的な問題を長年にわたって研究してきたプリンストン大学のジュリアン・ジェインズは、1976年に刊行した『神々の沈黙—意識の誕生と文明の興亡』において次のような仮説を打ち立てました。
- 作者: ジュリアンジェインズ,Julian Jaynes,柴田裕之
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今日私たちが持っているこの〈私〉という意識は、生物としての進化の過程で発生したヒト本来の機能ではなく、たかだか数千年前に生み出されたばかりの歴史的な構築物である。
言うなれば、後天的に書き換えられていくソフトウェアのようなものであり、ヒトという種のハードウェアとして先天的に内蔵されていた機能ではない。
デンマークの科学評論家トール・ノーレットランダーシュは、1991年刊行の『ユーザーイリュージョン—意識という幻想』においてこの意識のソフトウェア仮説をさらに補強しました。
- 作者: トールノーレットランダーシュ,Tor Norretranders,柴田裕之
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ユーザーイリュージョンとは、簡単に言うとPCのユーザーがコンピュータに抱くイメージのことです。
PCのモニター画面上には「ごみ箱」や「フォルダ」など様々なアイコンが並びますが、実際PCの内部にはごみ箱もフォルダも存在せず、そこには大量の0と1の羅列があるだけです。
でも、画面上のアイコンをクリックすればPCは期待した仕事をしてくれるので、ユーザーはさも画面の向こうに「ごみ箱」や「フォルダ」があるかのようなイメージを抱きます。
たとえ実際に仕事をしているのが0と1からなる電気信号のパターンであったとしても、ユーザーにとっての関心事は己の抱いているイリュージョンの方になります。
それと同じように、我々が実際に体験しているこの世界もまた、脳が演出しているユーザーイリュージョンであるというのがこの著書の主張です。
つまり意識とは、脳というハードウェアの上で起動する、我々に幻想を体験させるためのソフトウェアだというわけです。
二人の著者が共通して述べているのは、「心こそが体の主人だ」と信じ込む素朴な実感は、脳の機能によって体験させられている錯覚だということ。
彼らの主張によると、体の持つ生理機能こそが心という幻影の創造主とみなされるのです。
実際に、この仮説を示唆するような実験結果が、アメリカの神経生理学者リベットによって1980年代に発表されています。
ヒトは行動を起こす直前に、頭頂葉に運動準備電位という活動が起こります。
そこで、「~しよう」と意識した時刻と運動準備電位が起きた時刻とを比べることで、意志と身体の間のタイムラグが調べられました。
「心こそが体の主人だ」という固定観念から見れば、「~しよう」と意識した直後に運動準備電位が起こるものだと推測されますが、実験結果はその真逆で、運動準備電位が起こって約0.35秒あとに「~しよう」という行為の意志が意識されることが明らかになりました。
〈自分〉の体がこれからの行動を決定し準備をしてしまった後で、神輿として担がれているだけの〈私〉はその決定をただ追認させられていたのです。
この約0.35秒間のタイムラグについて、トール・ノーレットランダーシュは著書の中で以下のように分析しています。
人間の脳が感覚器官から受け取る情報量は「毎秒 1100万ビット以上」という膨大なものであるのに対し、私達の意識の処理能力は多めに見積もったとしてもせいぜい「毎秒50ビット足らず」でしかない。
つまり、〈自分〉が外界から受け止めている情報のわずか0.001%ですら作り物のシミュレーションである〈私〉には処理できない。
処理能力の低い〈私〉に膨大な情報を含む外界の状況を分かった気にさせるためには、〈私〉にでも分かる程度の情報だけを抜き出して解釈可能な形に丸めてあげる必要があり、その情報の加工処理に時間がかかっている。
ヒトの脳は、〈私〉という心に〈自分〉の体の主人であるかのような錯覚を持たせてあげていますが、その自主性ごっこには意外と手間がかかっており、作り物の〈私〉は創造主である〈自分〉よりも常に約0.35秒遅れているというわけです。
ですが、自我によって統一された自己を仮定する人間観は、私たちが生きている社会の大前提に組み込まれています。
この倒錯した人間観は、〈私〉と〈自分〉の根本的な解離によって引き起こされる種々の問題を、「理性で本能を抑える」といった理想論で「乗り越えるべき努力目標」だとみなしまいます。
主である〈自分〉を意のままに従わせるなんて、作り物の〈私〉には到達不可能な目標でしかないのにです。
例えば刑法の法哲学においては、「人には自由意思があり、それゆえ行動を自律的に制御できる」という自己責任の前提に基づいて、人を裁いたり罰したりすることが正当化されてきた過去があります。
そのおかげで、完全に制御しきれない存在である〈自分〉の行動に責任を持つという、一種の離れ業を〈私〉たちは社会から要求されています。
また、個人の内面においても〈私〉と〈自分〉の解離は大問題です。
潜在意識から噴出してくるかもしれない憎しみや不安、湧き上がってきかねない行動への衝動、与えたくても求められないがゆえに外に出せない愛情、周囲の人々に対する嫌悪など、それら全てを受け入れるのは辛いことです。
このように、どうにも制御しきれない〈自分〉の感情を〈私〉自身が受け入れること。
それこそが、心理療法におけるメインテーマとなります。
こうした社会の中で心穏やかに生きていくためには、意識がユーザーイリュージョンでしかないことを自覚し、「心こそが体の主人だ」とする固定観念の呪縛を打ち破らねばならないとトール・ノーレットランダーシュは説きます。
〈私〉が自らの限界と〈自分〉の存在を認め、「理性的に制御せねばならぬ」という囚われを手放すこと。
それによって、制御しきれない〈自分〉すらも信頼していくという態度こそが、平静への鍵なのかもしれません。
※当ブログの主なテーマは、この世界を支配する「正しさ」という言葉のプロレスとの付き合い方。
http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2014/03/12/175400
※そのプロレス的世界観を支えている「記述信仰」の実態を、簡単な図にしてまとめています。