間違ってもいいから思いっきり(市井人の日曜研究)

私たち人間は、言葉で物事を考えている限り、あらゆるものを「是か非か」と格付けする乱暴な○×ゲームに絶えず影響されています。ここでは、万人が強制参加させられているこの言語ゲームを分析し、言葉の荒波に溺れてしまわないための知恵を模索していきます。

銃社会生まれのグローバリズム

 グローバリズムとは、株式会社というフィクションを延命させ、国民国家というフィクションを終わらせるために、アメリカの新自由主義者たちが広めた不自然で作為的なイデオロギーである。
 これが平川克美の著書『グローバリズムという病』におけるグローバリズムの大まかな定義です。
 ここでは「グローバリズム」が単なる自然過程を指す用語ではなく作為的な立場であること強調するために、科学技術の進展によって世界が小さくなったことを表す「グローバリゼーション」とは明確に区別されています。

グローバリズムという病

グローバリズムという病

 

 

 株式会社とは、17世紀の大航海時代にヨーロッパで始まった資金調達の仕組み。
 「株券を買って株主になっていただければ、集めた資金をもとに事業を行い利益を出してその株券の価値を上げていきますし、利益に応じて配当金もお渡しします」
 こう約束して資産家たちから巨額の資金を集めることで、当時の東インド会社はインドや中国との大規模な貿易が可能になりました。

 

 また、30年間に渡るヨーロッパの宗教戦争の末にウエストファリア条約によって結ばれたのが、「固有の領土と国民を有すると認められた国家には内政干渉されない主権を認める」という紛争抑止のためのお約束です。
 こうして17世紀に発明された「国民国家」という名の方便は、西欧諸国の海外進出とともに世界中に押し付けられ、今もなお国際社会を支配する主要なルールとして君臨しています。

 

 この国民国家という暴力機関に保護されながら株式会社は発展し、株式会社による国民経済の活性化によって国民国家はより強固なシステムへと成長します。
 ですが、この国民国家と株式会社の幸せな共犯関係は永遠に続くものではありません。
 株式会社には「株主を喜ばせるために利益を拡大し続けなければならない」という宿命が課せられているので、国内需要の拡大だけで増収が見込めないほどに国家が成熟してしまえば、金儲けの範囲を国外や投機的なマネーゲームの創出などへ広げていくしかなくなってくるのです。

 

 その際、国外に進出する企業にとって障害となるのが、商売における国ごとのルールの違いです。
 そうした障害を打開するために多国籍企業が相手国に要求するのが、関税や規制の撤廃であり、統一された産業基準であり、同一の決済システムであり、同一の言語環境です。
 そこにあるのは「個人や企業の自由な経済活動を国なんかが邪魔するのは不当だ」とする新自由主義思想です。

 
 そもそも国ごとの関税や規制や多様性などは、国外の大企業による搾取の脅威から国民経済を守るための防波堤として機能しています。
 こうした国家特有の防衛機能を、新自由主義者は「競争は自由かつ平等であるべきだ」という一見美しい名目の下に切り崩そうとします。
 グローバリズムとは、「株価は上がっていくものだ」という株式会社のフィクションを守るために、国家の主権というフィクションをなし崩しにしたがるイデオロギーとも言えるのです。

 

 このようないびつなイデオロギーはどうして生まれたのか。
 平川克美は、この思想の起源がアメリカの建国史にあると指摘します。

 

 アメリカは、銃を所持する権利が憲法で保証されている国です。
 一般的にアメリカで銃の所持が正当化されている理由は、イギリスの支配から独立するために立ち上がった過去の経緯からだとか、たとえ悪政が行われてもそれを倒す力を民衆が持つためなどと説明されています。

 

 しかし彼は「アメリカの民主主義を守るために民衆の武装が必要不可欠と言うのなら『皆の義務』として扱われる方が自然なのに何故『一個人の権利』という言い方になっているのか」と疑問を投げかけます。
 そして、銃による武装を『一個人の権利』として認めているのは「先住民の居住地を暴力的に奪い取ってきた」というアメリカ大陸開拓の歴史を正当化するためだとする持論を、以下のように説明します。
 
人間の尊厳。
機会の平等。
フェアプレイ精神。

 

アメリカは何よりも、理念の国である。
前記の理念をつくり上げてきたアメリカ建国の歴史を見ていくと、アメリカという国家が持つ(持たざるを得なかった)、人間観、自然観、倫理観すべてに通底する独特の価値観に逢着することになる。

 

国民国家という共同体を揺るぎないものにするためには、人権、公共心、道徳心、倫理観といったものを国家の構成員たちが共有する必要があった。
アメリカはまず、自らの出自に纏わりつく加害性というものを、正当化する論理を打ち立てる必要があった。

しかし、先住民たちに対する殺戮と簒奪の歴史はどこまでいっても人権や公正さといったものと折り合うことはできない。
先住民にだって人権はあったわけだ。
かといって、自らの出自を反省し謝罪することは、アメリカ合衆国自体を否定することに繋がってしまう。

 

ここでアメリカはトリッキーな論理をつくり出すほかはなかった。
それはアメリカを開拓した人々にも、アメリカ先住民にも「平等かつ公正に」武器を持って闘う権利が与えられているという論理である。
つまり、戦闘は論理的にイーブンなもの同士で土地所有をめぐる紛争の解決法のひとつとして行われたのだという権利の平等性の物語をつくり出すことであった。
アメリカ合衆国は先住民を略取してでき上がった国家ではなく、自然の摂理たる生存競争に勝ち抜くことででき上がった国家であるという物語が完成する。

 

アメリカという国の国是は、まさにアメリカという国をつくるということであり、生存競争に勝ち抜くことである。
アメリカは建国以来、強く大きなアメリカをつくることを国家目標としてきた。
当初は大陸の東海岸の小さな入植地からはじまった理想の土地を世界の隅々まで広げていくというかたちをとり、現在でも局地紛争への介入というかたちで引き継がれてきている。

 

アメリカが銃規制できない理由のひとつは、それがアメリカ建国の理念を支える論理の中に銃による闘争が組み込まれているからである。
「自由」は、すべてに優先する絶対的な価値でなければならない。
アメリカは、まさにその「自由」を達成するために建国された国家なのだ。

 

 そして著者は、アメリカ開拓時代における先住民への仕打ちを「非人道的な侵略ではなくフェアプレイ精神に基づく自由競争だった」と正当化してしまえる図太い根性が、それぞれの国家の事情を無視して「競争は自由かつ平等であるべきだ」とゴリ押ししたがる新自由主義の精神にも現れていると述べます。
 こうして押し付けられたグローバリズムの宣伝文句を、真に受けて踊っているのが日本という国です。

 筆者は以下のように続けます。

 

日本におけるグローバリズムの流行は、世界の中でも独特の様相を呈している。
日本人はグローバルという言葉を前にすると、ほとんど反射的に自分たちが責め立てられたような気持ちになり、そわそわしてしまうようなところがある。
日本人は、元来、グローバルという言葉に弱いのである。

 

その理由は、明治期以降、東アジアの島国から脱皮して、西欧近代国家にキャッチアップすることが国是どあった時代、産官あげて西欧に範を求め、西欧に学んできた経験が、世界有数の経済大国になった今でも、西欧コンプレックスというかたちで一種のトラウマになって残っているからだろう。
ビジネスの世界において、この傾向はさらに顕著であり、会社における共通言語さえも母語である日本語ではなく、英語にすべきだというものまで現れてきたのである。
そして、グローバル時代に世界で戦える日本人、内向きにならずに、海外雄飛する若者の育成が急務であることが、時代のメッセージであるかのように喧伝されている。

 

日本人は絶えず世界を気にしている。
メディアは国際機関が発表する国民総生産の世界ランキングや、会社の売り上げランキングといったことから、児童の学力ランキング、平均身長ランキングに至るまで事細かに伝えている。
識者がこれらに評論を加えて、わたしたちはいつも世界の中でどのあたりに位置しているのかを気にしている。

 

それが、「アメリカでは、すでに……」とか「普通の国家は……」とか、「イギリスの大学制度は……」とか、「世界の標準は……」といった言葉になってあらわれる。
メディアのみならず、大学でも、ときに政府の政策においても、この傾向はあらわれる。

 

グローバルスタンダードなんていうものは本来存在していない。
日本の政府も、企業も、自分たちが何にビハインドしているかの明確な指標が欲しいのだ。
そして、それがなければつくり出す。
こうして、グローバルスタンダード信仰が生まれてきたのだろう。

 

 そもそも国民国家というフィクションにおいて、国家同士はクラスメートのような同格の存在であり、国際社会とは単にクラスメート同士の対等な相互関係のことです。
 ですが、自立した者同士の「何でもありの争い」が苦手な日本人は「守るべき共通の基準の下での正々堂々とした競争」というフィクションを求めて、他者が造ったルールの軍門に易々と下ってしまいます。
 グローバルスタンダードを信仰する人は、国家という生徒たちの上に立つ「先生としての国際社会」を求めており、グローバルスタンダードという「先生からの言いつけ」に率先して従いたがっているのです。

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 ですが日本が従いたがっているグローバルスタンダードとは、そわそわしてアメリカの真似をするだけの日本の新自由主義者たちが宣伝している一種のはったりに過ぎません。

 つまりグローバルスタンダードを真に受けている日本人は、ジャイアンのような力の強いクラスメートの言い分を勝手に「先生の言いつけ」と思い込むことによって、「先生の決めたルールは守らなきゃ」と真面目ぶりながら実際は一生徒の従順な子分に成り下がっていることになります。

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 こうした奴隷気質から「グローバル化する国際社会を生き延びるには実践的な英語教育が必要だ」などと叫ばれている論調に対して、筆者はこう反論します。

 

そこには必ず覇権的なバイアスがかかっているということを知るべきである。
英米人とのビジネスを、習い覚えた英語でやらなければならないという非対称的な関係にもっと注意を払うべきではないのかと思う。
それは、フェアでもなければ、合理的でも透明でもない。
ほんとうは、単に、やむ得ず、押し付けられたルールに従っているだけなのだ。

 

郷に入れば郷に従えだろうと言われるかもしれないが、郷に入らない選択も排除すべきではないのである。
少なくとも国民国家の教育理念の中で、グローバル人材の育成というかたちで、英語を優先させるべきではない。
それらは、専門学校でやればよい。
英語使いが必要なのは、その程度に限定的な場所だけである。

 

 筆者も指摘しているように、現在の日本社会における英会話のスキルとは、選択可能な数多くのオプションの一つに過ぎず、生存のための必要不可欠な要素ではありません。
 日本はまだまだ、英語なんか身に付けなくても貧困に苦しまずに生きていく選択肢はいくらでも残されているような比較的裕福な社会です。

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 英語教育推進論者たちは「そのうち日本も英語が話せないとまともに生きていけない社会になるんだ」としきりに脅したがりますが、その未来予測は「グローバリズムの押し付け工作に逆らうつもりはない」という降服宣言と同じです。

 英語が話せないとまともに生きていけないような「不幸な社会」の到来に備えて先回りして準備することなんかよりも、そんな「不幸な社会」を実現しないために努力をすることの方がはるかに重要な課題ではないでしょうか。

 

 グローバリズムとは、「不自然な押し付け」をあたかも「自然の摂理」であるかのように錯覚させるための洗脳戦略の一環とも言えます。
 この先日本が「英語が話せないとまともに生きていけない社会」になったとしたら、それはグローバリズムの「作為的な押し付け工作」に飲み込まれてしまったということですが、後世には「自然なグローバル化の過程だった」などと語られてしまうのでしょう。
 ちょうどアメリカ建国の歴史において、先住民の不遇が正当化されたのと同じように。

 


※当ブログの主なテーマは、この世界を支配する「正しさ」という言葉のプロレスとの付き合い方。

http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2014/03/12/175400
※そのプロレス的世界観を支えている「記述信仰」の実態を、簡単な図にしてまとめています。

http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2014/07/06/051300