間違ってもいいから思いっきり

私たち人間は、言葉で物事を考えている限り、あらゆるものを「是か非か」と格付けする乱暴な○×ゲームに絶えず影響されています。ここでは、万人が強制参加させられているこの言語ゲームを分析し、言葉の荒波に溺れてしまわないための知恵を模索していきます。

駄目出しは人格否定じゃない

 何か思うように上手くいかないことがあるとき、自分では「何がいけなくて上手くいっていないか」がよく分からないときがあります。
 そんなときに便利なのが、自分より上手いと思える人の目から見た「自分への駄目出し」です。
 
 あらゆる物事に通じる「素早い上達のコツ」とは、失敗の回数を短期間で数多く稼ぐこと。
 逆にいうと、なかなか上手くならない人は、長い時間をかけていても失敗の回数をほんの僅かしか稼いでいません。
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 覚え始めの段階でも他の人よりも早く上手くなる人は、普通の人が怖がったり面倒臭がったりして数回しか失敗できないでいる間に、黙々と何十回・何百回と細かい失敗を積み重ねているもの。
 何故ならそういう人は、数回のチャレンジで上手くいったとしてもそれは偶発的なものに過ぎず、ある程度失敗の回数を積み重ねないと確実には身に付かない と、経験で知っているからです。
 だから失敗を恐れて無駄に躊躇している暇があったら、身に付けるために必要な失敗をさっさと稼ごうとするのです。
 
 また、ビギナーレベルを脱した後は、一見失敗していないように見えるパフォーマンスの中にどれだけの修正要素を見出だしていけるかが上達の鍵を握ります。
 つまり、中級者以上になると「稼げる失敗がどこにあるか」「失敗に見えない失敗がどれだけ潜んでいるか」を見抜く力こそが、さらなる上達へと導いてくれるのです。
 
 そこで役に立つのが、より上手い人がくれる「自分への駄目出し」です。
 自分がある一定以上に上手くなれないのは、「稼げる失敗がどこにあるか」が自分では分かっていないということですから、その弱点を教えてくれる人の存在は本当にありがたいものです。
 
 ですが、どれだけ「ありがたい駄目出し」であっても、素直に受け止めたくないと思ってしまうのが人間のありがちな性です。
 中には「私は褒められて伸びるタイプだから」と言い張って、どんな駄目出しも全てはね退けたがる人もいます。
 このようなもったいない事態が起きてしまう原因は、「上手いか下手か」という巧拙の程度問題と「良い子か駄目な子か」という人格の優劣の話とを、ごちゃ混ぜにするようなしつけや教育が横行しているからです。
 
 弱者である子どもにとって、自分が受け入れてもらえるのか拒否されてしまうのかというのは、致命的に重要な問題です。
 ですから「上手く振る舞える子を良い子と認めて受け入れ、上手く振る舞えない子を駄目な子とみなして拒否する」という態度を強者の側がとれば、それは人格否定の恐怖を武器にした脅迫として作用します。
 
 そのような洗脳は、ただ単に「この部分が上手くいっていない」と具体的な行為の失敗要因を指摘されただけで、まるで「自分が駄目な人間だ」と糾弾されたかのように大袈裟に傷付いてみせる癖を生み出すことがあります。
 別に他人からの駄目出しは「自分を拒否するための人格否定の言葉」とは限らないのに、幼いころからこの種の脅迫を受け続けて育ってしまうと、条件反射的に後ろ向きになってしまったりするのです。
 
 そのように身に染み付いた洗脳を振りほどくために心に留めておきたいことは、どんなに上手い人だろうが、どんな目上の人だろうが、どんなに権威を持った人だろうが、他人の人格の優劣を裁けるような権限を持った人なんてどこにもいないということ。
 他人からの駄目出しなんてものは、上手いか下手かといった「上手くいくための豆知識」程度のものでしかありません。
 
 その人が言うように上手くなりたければ取り入れればいいだけの話で、そうでなければ無視してしまえばいいのです。
 無視して失うのは「その人が主張する上達のポイント」だけであり、そもそも人格の優劣とは何の関係もないんですから。
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 そして、もし仮に相手が「大人ならこのくらいの努力はできて当たり前」とか「人としての基本がなっていない」といった人格否定まがいの言葉を発してきたとしても、それは「その人の脳内でしか通用しない架空の優劣」を伝えているだけ。
 いちいちその言葉を真に受けてへこまずに「恥ずかしげもなく他人を断罪できる相手なんだ」とだけ認識して、その相手の面倒くささを考慮に入れて今後の付き合い方を検討すればいいのです。
 
 逆に、上手かろうが下手かろうがそんなことは人格の優劣とは全く関係がないとすっきり納得してしまえば、自分が下手になってしまっている理由を教えてくれる駄目出しを純粋にありがたいと思えるようになります。
 自分より上手くいっている人も別に人格的に優れているわけではなく、上手くいくコツを手に入れる機会にたまたま恵まれていたというだけ。
 それは単に豆知識程度の差でしかないんですから、上手くなりたいんだったら下手に抵抗なんてせず、その豆知識的な駄目出しに素直にかじりついてみればいいんです。
 
 
※当ブログの主なテーマは、この世界を支配する「正しさ」という言葉のプロレスとの付き合い方。
mrbachikorn.hatenablog.com
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そのプロレス的世界観を支えている固定観念の源を「記述信仰」と名付け、その実態を以下のような図にまとめて解説しています。

人を傷付けること自体は悪ではない

 誰かを傷付けてしまったとき、嫌な気分になってしまうのは何故か。
 それは「自分はこうしたかった」という意志と「実際はこうしてしまった」という行為の結果との間に隔たりがあるからです。
 
 逆に言うならば、自己嫌悪や罪悪感にさいなまれたくなければ、自分の意志と行為の結果を近付けていけばいいということ。
 そのように考えた場合、人を傷付けることそれ自体は無条件に禁止される事項ではなくなります。
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 例えば「傷付けたいと思って傷付けること」などは意志と行為の結果がぴったり一致しているわけですから、当人の主観的には何の問題もない話です。
 刷り込みによって「人を傷付けることそれ自体が悪だ」とさえ思い込まされていなければ、 私たちが嫌な気分になるのはただ単に「傷付けたくないのに傷付けてしまうこと」の方だけでしょう。
 
 これは別に「だからどんどん人を傷付けましょう」と推奨したくて書いているわけではありません。
 このように「傷付けること自体は悪ではない」と主張しているわけは、傷付けたくない相手を傷付けてしまってへこんでしまったときに、その反省を今後に活かしていけるような建設的な捉え方を提案するためです。
 
 もちろん、しつけや教育によって「傷付けてはいけない」と刷り込んでいくことには、むやみに人を傷付けたがる人が減少するという大きなメリットがあります。
 しかし、いくら他人を傷付けないようにと気を付けたところで、人と人とが互いに影響を及ぼしあって生きている以上は「誰かを傷付けてしまう」という結果を避けることはできません。
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 ですから、素直に「傷付けることそれ自体が悪だ」と真に受ける人ほど「私は他人を傷付けてしまう駄目なやつだ」という心の傷を、どこかで必ず受けてしまう定めにあります。
(誰かを傷付けてしまったことに全く気付かないほどの鈍感力を備えた幸せな人であれば話は別ですが)
 私はこの厄介なデメリットを回避するためにも、人に罪悪感を植え付けるためにある「人を傷付けることは悪だ」という無茶な刷り込みはいずれ払拭すべき障害であり、本来は全く必要ないものだと主張します。
 
 その上で、傷付けたくない相手を傷付けてしまってへこんでしまったときにはどう反省するのが効果的なのか。
 それは、善悪の基準で「自分は悪かった」などと観念的に捉えるのではなく、巧拙の程度問題として「自分の行為は十分でなかった」と捉えて「今より上手くなる(意志と行為の結果とを近付ける)にはどうすればいいか」と具体的に反省することです。
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 逆に、善悪の問題として「自分は悪かった」と捉えている人の中には、傷付けたくない人を傷付けてしまっても「自分は×だ」とへこんで萎縮してしまうだけの人もいます。
 そういう人は結局、具体的な行為の反省ができずにいつまでも同じ失敗を繰り返してしまう可能性が高いのです。
 
 自己嫌悪をしてしまうのは自分自身が下手だからであって、決して悪かったからではありません。
 同じことを繰り返さないために必要なのは、「悪かった」という無駄な反省ではなく、「より上手くなるには」という具体的な検討です。
 善だ悪だと、息苦しい○×ゲームで他人や自分を評価するのはそろそろ止めにしませんか。 
 
 
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「死ね」と言われるような国でも楽しく生きる3つの方法

どうすんだよ会社やめなくちゃならねーだろ。
 
ふざけんな日本。
 
保育園増やせないなら児童手当20万にしろよ。
 
保育園も増やせないし児童手当も数千円しか払えないけど少子化なんとかしたいんだよねーってそんなムシのいい話あるかよボケ。
 
国が子供産ませないでどうすんだよ。
 
金があれば子供産むってやつがゴマンといるんだから取り敢えず金出すか子供にかかる費用全てを無償にしろよ。
 
 これは2016年2月15日にインターネット上で投稿された「保育園落ちた日本死ね!!!」という記事の一部を抜粋したものです。
http://anond.hatelabo.jp/touch/20160215171759
 この記事は、最初の一週間はインターネット上でどんどんと拡散されていき、二週目からはテレビでも「インターネットで話題の記事」としてポツポツと取り上げられ始めました。
 
 こうした待機児童の問題がなかなか解消されない現状の日本で、楽しく生きていくにはどうしたらいいか。
 そんな問題を考えるのに参考になりそうな、三者三様の意見を今回は紹介してみたいと思います。
 
 まず最初に紹介するのは「子育てに関する日本の現状を変えていこう」とする王道の意見です。
www.komazaki.net
 
 都内で13園の小規模認可保育所を経営している駒崎弘樹は、「政府はいろいろと対策をこうじており、平成25年あたりから保育所数は劇的に増えているが、認可保育所に申し込む人が増えたこともあり、待機児童は減らせず、むしろ若干増えている」と報告します。
 その上で、この問題を解消していくには予算の壁、自治体の壁、物件の壁という3つの壁を崩さなければならないと述べますが、これらの壁を突き崩せるほど政府はこの問題に関心を抱いていないと論じます。
 
 その現状認識の上で彼が提案するのは、政府に対してもっと怒ること。
 彼は、ベビーカーを押すママたちが区役所前でデモをしてメディアに取り上げられた「杉並保育園一揆」が杉並区の認可保育園増設を加速させた例を取り上げ、現状を変えるには行政が無視できないほどに議論を加熱させるためのロビイングが必要であり、結局のところそれらを実現するほどの熱量が足りていないから日本はこの現状に甘んじてしまっていると読み解きます。
 その意味で、この「保育園落ちた日本死ね!!!」のような叫びは必要なものであったと意味づけます。

 
 この正攻法の議論の欠点は即効性がないことであり、5~10年先に子どもを生みたい若者たちのために起こす行動としては有効でしょうが、今すぐ子どもを生みたい人たちの策としては適当ではないかもしれません。
 そうした「今すぐ子どもを生みたい人」のために役立ちそうな記事が、こちらの「保育園の第一志望受かったけどやっぱり日本死ね」です。
 そこで書かれていた基本的な心構えや、筆者が実施した策の概要を抜粋してみましょう。
http://anond.hatelabo.jp/touch/20160218153103
 
こと保育関連については、この国を「日本」だと思ってはいけない。
東南アジアか中南米の行政糞国家の住民になったつもりで対策を立てた方がいい。
 
事実上、この国では首都で子どもを産み育てることは罰則の対象だ。
マジで日本死ね
 
うちは夫婦ともに海外(非欧米圏)での駐在経験があったので、国家の政策や行政のケア能力や社会のセーフティネットを最初から信用しておらず、かつ地味な情報収集やかゲームの裏技探し的な作業が夫婦共通の趣味だったことで勝てた感じである。
 
保活は各地区や各家庭環境によって動き方が異なるため絶対の解はない。
だが、不幸にも子どもを生んだせいでこの糞国家と糞行政に自分の人生を壊されたくない人のために、うちが保活の各段階で何を意識して、何をやっていたかをここで書いておこうと思う。
 
妊娠が判明し、両親への報告と産婦人科受診が終わったら、すぐに区役所の保育園関連課(名称は各区で違う)詣でを開始。
赤ん坊がミリ単位のおさかな生物状態のときから動く。
 
この段階では区役所側もヒマなので、早めに動いている人は歓迎される。
こと保活問題に関して、日本国家と地方行政はわれわれの人生を破壊する最低のゲスどもだが、その怒りや恨みを末端の小役人にぶつけてはいけない。
恫喝などはもってのほか。
むしろ、誠意ある態度で手続きについて教え請い、好感を持たれるようにこちらの顔と名前を相手側に刷り込む。
 
~中略~
 
他の行政糞国家と違って札束攻勢が通じないため、とにかく相手がヒマなときに接触回数を増やして篭絡するほうがいい。
日本人は実利的な利益がなくても情実のある長期的な人間関係が成立すれば相手に便宜を図る傾向がある。
 
結果、わが家は区役所方面から、保育点数を増やす上で合法の範囲内だが際どい裏技をリークしてもらった。
 
 つまり、保育に関しては「行政が何とかしてくれる」なんて受け身の期待を日本では決して持ってはならないということ。
 相手が糞みたいな国家ならばわざわざそれを変えようとはせずに、相手が糞であることは前提として認めた上で「糞国家に上手く取り入る方法」を模索したということです。
 
 そして、最後に紹介するのは女優の山口智子のインタビュー記事です。
http://laughy.jp/1455587836854186031laughy.jp
 
 この糞みたいな国で楽しく生きるために紹介した一つ目の考え方が国の現状を変える活動をすること、二つ目の考え方が国は変えずに糞国家に合わせて対応することでした。
 ですが、この国の糞みたいな部分は、生みたくても生めないことだけではなく、生まない人を生きづらく追い込むことでもあります。
 
 子どものいる家庭を標準と見なし、子どものいない家庭に対しては「まだいない」と未熟扱いしたり、「欲しくてもできない」とか「不仲なのか」と勘ぐって異端扱いするような「子なしハラスメント」が、日本ではまだまだ恥ずかしげもなく横行しています。
 そんな現状に、山口智子は雑誌のインタビューでこう答えて対抗しました。

私は、子供のいる人生じゃない人生がいい
 
子供を産んで育てる人生ではない、別の人生を望んでいました
 
 つまり、この糞みたいな国で楽しく生きる3つ目の考え方は、子のいない人生を選ぶこと。
 そして、世間の糞みたいな「子なしハラスメント」を蹴散らすことです。
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 国の現状を変える、糞みたいな国に順応する、子がいる人生ばかりに囚われない、楽しくは生きない、などなど、どの生き方を選ぶかは本人次第。
 最終的に、自分の納得のいく選択をしたいものです。
 
 
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人権思想もハラスメントの乱立も立派な武器

 すべての人間は生まれながらにして侵害されてはならない権利を有しているというのは、誰かが思い付いた作り話です
 ですがこのフィクションのあらすじは、フランス革命をきっかけとして西洋社会を中心に広まっていき、今現在の国際社会では無視することのできない強大なストーリーへと成長しています。
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 こうした「人権思想」も含むいくつもの作り話の積み重ねの上に成り立っているのが、私たちの生きる人間社会です。
 そんな人間社会を生きていくのに必要な知恵とは、身の回りではどの作り話がどれだけの力を持っているのかという「力関係の情勢」を察知し、その圧力の荒波に食い殺されてしまわないように気を付けておくことです。
 
 そういった意味で、前回は日本における育休と人権の話題を取り上げました。
 そのときまとめたラフスケッチは以下のようなものです。
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近代以前の封建的な支配の現実への対抗手段として「人権とはすべての人間が生まれながらにしてもっているものであり、その普遍的な人権を侵害する行為は許されるものではない」という方便が生まれ、この聞こえの良い大義名分を武器にのし上がった近代国家群が世界を席巻するようになった。
 
この「天賦人権説」を尊重しているようにふるまわないと相手にしてもらえなくなるような圧力が欧米を中心に広がっていき、日本もその圧力に巻き込まれて表向きは「天賦人権説を尊重する」という立場をとるようになった。
 
それによって「最低限の生存権が保障されている比較的マシな国だ」と見なされるようになってきた日本だが、女性の権利、子どもの権利、労働者の権利といった諸々の件で「まだまだ遅れている」とお叱りを受けることも多い。
 
日本においてリベラルと呼ばれる人々は、こうした国際的圧力を背景に「天賦人権説を蔑ろにするとは何事だ」といった綺麗事を恥ずかしげもなく口にする傾向がある。
 
保守と呼ばれる人々は「天賦人権説は近代における新たな支配体制のための建前・フィクションに過ぎない」という本音ベースの共感力を武器に、日本が公式には天賦人権説を尊重する立場にあることを軽んじるような言動をとる傾向がある。
 
 このまとめを通じて私がまず言いたかったのは、どの立場にも「客観的な正しさ」という次元でのアドバンテージはないということ。
 私たち人間は意図的にしろ無意識のうちにしろ、自分が巻き込まれてきた世界の力関係に応じて、それぞれが「支持する立場ごとの作り話」を演じているに過ぎないということです。
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 この手の作り話の最大手はもちろん「人権」ですが、この物語が創作されたおかげで「人権侵害」というレッテル貼りの技術が普及し、そのおかげで生命の危機や理不尽な支配から逃れられる人が増えたという功績があります。
 大事なのはその「お話」によってどんな変化が生まれるかという効果の方であり、その話がこの世の真理だろうが誰かが思い付いた作り話だろうがそんなことは大した問題ではないというのがその次に言いたかったことです。
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 このように、現象に名前をつけ、それに合わせてストーリーを築いていけば、影響力次第で世の中も変わっていきます。
 そして、レッテル貼りの王様である「人権侵害」のバリエーションとして、今もなお次々と発明されているのが「~~ハラスメント」というレッテル貼りです。
 
 パワハラ、セクハラが定義づけられたからこそ、部下の嫌がる行為の一部を上司が控えるようになりました。
 アルハラが定義されたおかげで、アルコールの強要による苦痛を受けずに済む人がだんだんと増えてきました。
 そして、マタハラという言葉によって「子どもができたら退職を無理強いさせられる」といった問題が定義され、まだ改善されてはいないにしろ「問題だ」という意識は広まりつつあります。
 
 こうして次々と開発されていく新造のハラスメントに対して、「なにかにつけて『ハラスメント』と言われるようになったためにやりにくくなった」と苦情を付けたがる人も、世の中には数多く存在します。
 その中には、世の中はでっちあげの綺麗事のように上手くは行かず、そんな理想論を無視した方が現実的に上手くいくんだという本音まじりの言い分も幅を利かせています。
 
 これは、どちらが正しいという話ではなく、どちらの圧力が優位にことを進められるかという「単なる戦争」です。
 人権侵害もハラスメントもただの作り話でしかありませんが、この種の戦争を戦うための立派な武器ではあります。
 どちらの陣営の味方をするか、どの陣営とも距離を置くのか、なんてことはそれぞれが好みや立場に応じて勝手に選べばいいでしょう。
 
 最近では「繊細チンピラ」や「クソバイス」といった造語による新たなレッテル貼りも、不快な攻撃から身を守るための武器として開発されています。
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 そしてこうした「武器としての作り話」や「武器としてのレッテル貼り」は、これから先もどんどんと作られていくことでしょう。
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 このように、私たちの世界が作り話で埋め尽くされていくこと自体は、特に嘆くべきことではありません。
 なぜって、そもそも私たちが言葉を使って考えているようなことはすべて、過去に作られてきた作り話の再利用や組み合わせでしかないんですから。
 
 「作り話でない本当の話がどこかにあるはず」「客観的な正しさ」といった『真理』の概念自体が、この「単なる戦争」を戦うための武器として発明された作り話。
 作り話であることを嘆いてしまう癖そのものは、『真理』という巧妙な大量洗脳兵器の圧力に負けている証拠なんです。
 
 
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上達したければ失敗を稼ぎなさい

 私の生き甲斐は、人に何かを教えること。
 18歳で始めた家庭教師の頃から20年近く、バイトや趣味や職業で、数学・和太鼓・篠笛・民舞などを教え続けてきました。
 
 どんな分野であっても、複数の人間に向けて一斉に教えていると、吸収の早い人と遅い人との差が出てくるもの。
 私はこの差を「元々のできが違うから」といった、ありがちな才能論で片付けるのが好きではありません。
 こうした「上達スピードの違い」の原因は「あらゆる物事に通じる上達のコツ」を知っているか知らないかの差に過ぎないというのが、教えることを長年続けてきた私なりの仮説です。
 
 素早く上達するコツとは、失敗の回数を短期間で数多く稼ぐこと。
 逆にいうと、なかなか上手くならない人は、長い時間をかけていても失敗の回数をほんの僅かしか稼いでいません。
 
 他の人よりも早く上手くなる人は、普通の人が怖がったり面倒臭がったりして数回しか失敗できないでいる間に、黙々と何十回・何百回と細かい失敗を積み重ねているものです。
 何故ならそういう人は、数回のチャレンジで上手くいったとしてもそれは偶発的なものに過ぎず、ある程度失敗の回数を積み重ねないと確実には身に付かないと、経験で知っているからです。
 だから失敗を恐れて無駄に躊躇している暇があったら、身に付けるために必要な失敗をさっさと稼ごうとするのです。
 
 この「失敗を稼げ」というノウハウに似たアドバイスに「失敗を恐れるな」というものがありますが、前者と後者とでは失敗に対する捉え方のニュアンスがずいぶんと異なります。
 「失敗を恐れるな」という風に言ってしまうと、発言者の狙いとは別に「そもそも失敗は怖いものだ」という暗黙の前提が先入観として刷り込まれてしまう危険性があります。
 でも「失敗を稼ぐ」という言葉遣いには「そもそも失敗は上達のために必要な美味しいものだ」という前提が隠れているため、失敗への躊躇や恐怖心で無駄にする時間を削減し易くなります。
 
 物心ついたころから私が計算に強かったのは、数に関することであればこうしたトライ&エラーを無意識のうちに延々と積み重ねていたから。
 逆に、音楽などには何の興味もなかったため、リコーダーなどでは効率よく失敗を稼ぐことができず、苦手意識でいっぱいでした。
 「失敗を短時間で数多く稼げば何であろうが上達は早い」というコツを意識的に実践できるようになったのは、大人になってからのめり込んだ和太鼓や篠笛や民舞を通してのことです。
 
 勉強であれ音楽であれスポーツであれ、その人が「もとから得意だ」と思っているようなジャンルにおいては、それが努力だとも感じない無意識のレベルでこの上達法が実践できてしまっていることが多いです。
 そのような無意識のうちの成果だけに頼らず、複数のジャンルでこの上達のコツを意図的に実践してきた人であれば、さらなる次のジャンルでもこのノウハウを活かしていけます。
 
 もし仮に、個々の潜在的な才能の差が現れるとしたら、この程度の上達のコツを知っているかどうかという低次元な話ではなく、こんな段階は当たり前に通り越していった上級者同士の次元においてでしょう。
 ビギナーから中級者へステップアップをしていくような段階においては、「失敗を数多く稼ぐ」という程度のコツで十分対応可能です。
 
 また、ビギナーレベルを脱した後は、一見失敗していないように見えるパフォーマンスの中にどれだけの修正要素を見出だしていけるかが上達の鍵を握ります。
 つまり、中級者以上になると「稼げる失敗がどこにあるか」「失敗に見えない失敗がどれだけ潜んでいるか」を見抜く力こそが、さらなる上達へと導いてくれるのです。
 
 そして、最低でもそれくらいの段階まで積み重ねていなければ、才能の差なんて大した問題ではないというのが私の意見です。
 そこまで踏み込んだこともない人が考える「元々からの才能の差」なんて、こまめな失敗の積み重ねで埋められるノウハウの差でしかないしょう。
 
 上達のコツは失敗を稼ぐこと。
 もしあなたが上達したいのならば、グダグダ言ってないでとっとと失敗を稼いでしまいましょう。
 
 
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楽しむ力さえ行使できれば人生は楽しい

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楽しむ力さえ行使できれば人生は楽しい
 
 これは、大学生のころに身に付けた私なりの人生観。
 もし、現状であなたの人生が楽しくないとすれば、それは他人や環境のせいで陥っている仕方のない事態ではなく、あなた自身の捉え方が招いている等身大の実績でしかありません。
 人生が楽しくないのがそんなに嫌なら、楽しむことそのものを人生の最優先事項にし、楽しむために必要な力を養い、その楽しむ力を堂々と行使すればいいのです。
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 ここで問題になるのが「楽しむ力とは何か」ということ。
 ですがこれは、別にどこかで教わらなきゃいけないような難しい内容ではありません。
 ただ単に「人生における最優先事項は楽しむことであり他は二の次だ」と納得することこそが、楽しむ力の全てです。
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 このことが心の底から納得できていない人は、様々な行動の選択肢が現れたときに「自分が楽しむ」を採ることができません。
 これが「楽しむ力を行使できていない」ということ。
 
 また、「人生における最優先事項は楽しむこと」だとは思わせてくれないような刷り込みや同調圧力が、家庭にも学校にも社会にも何重にもなって待ち構えています。
 これらの「雑音」に負けて、楽しむことが最優先だと思えなくなっている状態が「楽しむ力が足りていない」ということです。
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 こうした「雑音」を真に受けるでもなく否定するでもなく無視するでもなく、ただ「世間にはそう押し付けたがる人が大勢いて、そう刷り込まれた従順な人たちがこの世の中の大半を形作っているんだな」とだけ受け止めておいて、「でも私はこの圧力をかいくぐって楽しんでいこう」と建設的に考えられる姿勢こそが私の理想とする「楽しむ力」です。
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 自分にふりかかる圧力の正体が判らないうちは建設的に捉えられずにしんどい思いをするかもしれませんが、実際に痛い目に会ってみれば自分を悩ませうる圧力の正体が掴め、以後の人生を楽しいものにするための判断材料にすることができます。
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 この「間違ってもいいから思いっきり」というブログの目的は、世に溢れる「人生を楽しませないための雑音」を「これは雑音ですよ」と指摘して、誰かが「楽しむ力」を築く際のお手伝いをすること。
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 余計な「雑音」に振り回されずに「楽しむ力」さえ行使できれば、人生は楽しいんです。
 もしあなたが「雑音に振り回されずに楽しむ力を行使しているはずなのに人生楽しくならない」と思っているのなら、自分が信じ込んでいる「雑音に振り回されてない」という現状認識の方を真っ先に疑ってみてください。
 
 
※当ブログの主なテーマは、この世界を支配する「正しさ」という言葉のプロレスとの付き合い方。
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そのプロレス的世界観を支えている固定観念の源を「記述信仰」と名付け、その実態を以下のような図にまとめて解説しています。

自分の好き嫌いや欲求は断言しても構わない

今週のお題「20歳」
 
 この『間違ってもいいから思いっきり』というブログに書いているようなことを考え始めたのは、ちょうど18年前の2~3月くらい。
 大学一年生だった私は、時間をもて余して眠れなくなった春休みの夜に、ただひたすら考え事をしていました。
 
 そのとき私が一生懸命考えていたのは、「世の中は間違っていてどいつもこいつも馬鹿ばかりである」という想いを、数学の証明のようにクリアに説明し切ってしまいたいということ。
  ですが、大学の数学科で基礎論などをかじっていた私は、数学のレベルの厳密さでは、現実世界のできごとなんて何一つ証明できないと気付きます。
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 そして「世の中は間違っていてどいつもこいつも馬鹿ばかりである」なんてことを数学レベルの厳密さで言い切りたがっていたそれまでの自分を恥じ、同じ愚を二度と繰り返さないようにと「証明できていないことは決め付けない」というマナーを自分に課すことにしました。
 そうすると、現実世界のことに触れた「+++は***である」という種類の言及は、どれも私の証明できる範囲を超えていますから断言できません。
 これらの話題については「たぶん+++は***だろう」とか「おそらく+++は***じゃないかと思う」という言い方しかできなくなったのです。
 
 しかし、「私は***だ」という言及になると話が別です。
 ここまでの議論を忠実に再現するなら「私」も現実世界の事柄の1つですから、「私はラーメンが好きだ」や「私はキャンプに行きたい」なんて発言も許されません。
 なぜなら「私は本当にラーメンが好きなのか」とか「私は本当にキャンプに行きたいのか」という問いに対して、私は「私がそう思っているからそうだ」という何の説明にもなってない答え方しかできないからです。
 
 ただ、「私は今からラーメンを食べる」とか「私は来週キャンプに行く」という決意表明に関してはぎりぎりセーフとみなされました。
 なぜなら数学の答案において「今からこの方程式を解く」とか「今からこの命題を証明する」というような決意表明は認められていたからです。
 それすら認めなければ何の行動も起こすことができないし、数学という学問を作ること自体が不可能になりますから。
 
 ただ、決意表明の一歩手前には「* **したい」という欲求の存在を、その欲求の一歩手前には「***が好きだ(嫌いだ)」という好みの存在を想定することができます。
 つまり19歳から20歳にかけての私にとっての問題は「自分の欲求や好みを断言できるか?」ということでした。
 自分に課した「証明できないことは断言しない」というマナーに従うならば、私は「*** したい」とも「***が好きだ」とも言えないのです。
 
 私はしばらくの間、「たぶん***したいんだと思う」とか「たぶん私は***が好きだろう」という推測を述べることだけを自分に許していました。
 しかし、この『「***したい」とか「***が好きだ」という風に断言したい』という想いだけは、自分にどう言い聞かせようとも解消できません。
 ・・・ほら、このように『断言したい』と思ってしまっています。
 これもマナー違反となると、私の想いは吐き出しようがないのです。
 
 この「証明できないことを断言するかどうか」という個人的な問題は、20歳の頃に少しだけ前進することになります。
 そのとき考えたのは、「断言に対して自分が感じている不快感はどこから来ているのか」ということ。
 
 そしてその答えは、「他人の都合で自分の都合を仕切られてきたことへの反発」が主な原因だろうということに落ち着きました。
 子どものころから「こうあるべきだ」「***してはいけない」といった道徳的な命令には「どうも嘘くさい」という不信感を抱いていましたし、「+++は***である」という現実世界の解釈についての断言も「発言者の好む世界観を勝手に押し付けられている」という不快感を覚えていましたから。
 私は、証明できないようなことを断言することで、自分に不愉快な思いをさせた人々と同種の人間になってしまうのを避けたいと考えていたわけです。
 
 たとえば「人を殺してはいけない」「小津安二郎の映画は素晴らしい」「相対性理論は正しい」という3つの主張を見てみましょう。

 これらの主張を人に向けて断言した瞬間、私の中で「他人の都合を仕切ろうとする行為への嫌悪感」が発動していました。
 なぜなら、これらの断言は「この主張を真なる主張として認めよ」という発言者からの押し付けがましい命令として解釈できたからです。
 
 ただ、「小津安二郎の映画は素晴らしい」「相対性理論は正しい」については、発言者にそのような命令の意図はないかもしれません。
 しかし、「誤解の可能性のある表現は極力使わない」という数学のマナーからすると、「命令として解釈できる余地が残っている」という時点でこの言い方はアウトでした。
 
 じゃあ口には出さずに自分の心の中で思っているだけなら大丈夫なのかというとそうではありません。
 私は「自分の中での正義」とか「自分の中での真理」といった方便にも嫌悪感を覚えたのです。
 
 「自分の中での正義」や「自分の中での真理」というのは、直接口に出してなくても自分の中で「あれは正しい」「これは間違ってる」というジャッジを下しているわけで、結局は自分の都合で他人の都合を裁いてしまっているということです。
 私にとっての問題は「口に出して断言するかどうか」ではなく「心の中で愚かな決め付けをしているかどうか」でした。
 
 ではここで「人を殺してほしくない」「小津安二郎の映画が好きだ」「相対性理論はたぶん正しいだろう」という言い回しに変えてみたらどうでしょう。
 先ほどと違ってこれらの言い回しは「他人の都合」について何も強制しておらず、「自分の身の程をわきまえて話そう」という節度を備えています。 
 「人を殺してほしくない」というのは明らかに「他人の都合」に触れてしまってるじゃないかと思われるかもしれませんが、「してほしくない」という主張の仕方においては、これはただの私的な願望であり、実際にどうするかを決めるのは「相手の都合」しだいであるという節度がちゃんと守られています。
 
 つまり、「***したい」や「***が好きだ」と自分の欲求や決め付けてしまっても、私の中で「他人の都合を仕切ろうとする行為への自己嫌悪」は発動しないということに気づいたのです。
 「自分の好みや欲求について証明することはできないけど、これらについては断言してしまっても他人の都合を踏みにじることにはならない」という気付きによって、20歳の頃の私は「+++ は***だろう」という推測のほかに、「***したい」とか「*** が好きだ」という欲求や好みについての断言を自分に許すことにしました。
 
 こうした20歳の頃の気付きから、さらに考えを進められたのは26歳の夏。
 このとき私は内田樹のブログと出会い、青年期の私が抱いていた「数学と同じくらい厳密な水準でしか断言をしたくない」というこだわりは、「言葉はそもそも世の中がどうなっているのかを描写したり記述したりするためにあるもの」という固定観念が生み出していたのではないかと思い当たります。
 言葉の根本的な存在理由が「人心を説得すること」ならば、「断言」とは人心を説得するための効果的なテクニックの一つに過ぎないわけですから、「正しく記述すべき」という無駄なこだわりで自主規制する必要などなかったという結論に至ったのです。
mrbachikorn.hatenablog.com
 
 そんなわけで、私は私の個人的な好き嫌いを堂々と発信していきます。
 20歳の頃にそう感じたように、そこにどんな意味があるかなんて説明できなくても、己の欲求に従ってただ為したいことを行うのみです。

 
※当ブログの主なテーマは、この世界を支配する「正しさ」という言葉のプロレスとの付き合い方。
mrbachikorn.hatenablog.com
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そのプロレス的世界観を支えている固定観念の源を「記述信仰」と名付け、その実態を以下のような図にまとめて解説しています。

暗殺教室の実践的な教え

 『暗殺教室』とは、週間少年ジャンプで連載されている松井優征作の人気学園コメディ。
 蛸のような軟体動物の体を持つ主人公の殺せんせー(誰にも殺せない先生の略称)は、惑星を破壊できるほどの反物質を体内に抱えており、1年後には地球を木っ端微塵にしてしまうかもしれないという規格外の超生物。
 そんな殺せんせーの暗殺を日本政府から命じられた中学生たちと、そんな生徒たちの担任となって愛情たっぷりに自己流の教育活動を行う殺せんせーという、一風変わった教室の風景を描いた作品です。

 
 人間だったころの殺せんせーは死神と呼ばれた超一流の殺し屋で、そうした裏の世界で身に付けた知恵を、授業では「世の中を生き延びるための実践的な知恵」へと昇華しながら生徒たちに伝授していきます。
 そんな殺せんせーの授業の中でも、私が一番気に入っている教えを引用して紹介してみたいと思います。
 
君達はこの先の人生で…
強大な社会の流れに邪魔をされて望んだ結果が出せない事が必ずあります
 
その時社会に対して原因を求めてはいけません
社会を否定してはいけません
それは率直に言って時間の無駄です
 
そういう時は「世の中そんなもんだ」…と悔しい気持ちをなんとかやり過ごして下さい
やり過ごした後で考えるんです
社会の激流が自分を翻弄するならば…その中で自分はどうやって泳いでいくべきかを
 
いつも正面から立ち向かわなくていい
避難しても隠れてもいい
反則でなければ奇襲してもいい
常識外れの武器を使ってもいい
 
殺る気を持って焦らず腐らず試行錯誤を繰り返せば…
いつか必ず素晴らしい結果がついてきます
 
 ここで殺せんせーが述べているように、自分の今いる世界にどんな理不尽があろうとも、それを「許せない」だとか感情的に否定するだけでは単なる時間の無駄です。
 だって、そもそも世界は「もしそうだったら都合がよい」という程度の正論に沿って作られたものなんかじゃないんですから。
mrbachikorn.hatenablog.com
 
 現に理不尽が存在する世界で生きていくためには、「本当は世の中はこうあるべき」という感情的でご都合主義な理想論に引っ張られずに、自分がどんな世界に生まれ落ちたのかをありのままにしっかりと現状認識することがまず大事。
 だから殺せんせーは「本来あるべき姿になってないからこの世の中は間違ってる」といった、子どもの糧にならない無意味な言い分は自分の教育の場に一切持ち込みません。
http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2014/03/09/065600mrbachikorn.hatenablog.com
 
 そして、社会の現状をまずは受け入れた上で、そこから自分の生きやすい突破口を見出だすためには、「殺る気」の伴った試行錯誤が必要だと説きます。
 この「殺る気」とは、これまで暗殺教室で子どもたちが培ってきた「殺るか殺られるか」というレベルの真剣さや、「いつも正面から立ち向かわねばならない」「逃げ隠れしてはいけない」「フェアでなければならない」といった塗り固められた正論に縛られない発想の自由さなどを含んだ言葉でしょう。
 
 こうした殺せんせーの教育者としての態度は、「変なおじさん」という教師像を目指す私にも大変共感できるもの。
mrbachikorn.hatenablog.com
 
 このブログも、世の中に溢れる「言葉の荒波」の存在をまず認識し、それに対して「間違ってる」などと無意味な反感は抜きにして受け入れた上で、激流の中でどう泳いでいくのかを考えていこうという、殺せんせーのようなモチベーションで運営しています。
mrbachikorn.hatenablog.com
 
 そんなわけで、人気漫画『暗殺教室』は、生きるための知恵や教育におけるヒントが得られる格好の教材だと、私は思います。
 気軽に読める楽しい作品ですので、まだ読んでいない方はぜひお試しあれ。

 
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無意味な「許せない」の利用価値

 大学生のころ、ずっと疑問に思っていた言葉があります。
 それは「許せない」です。
 当時は理屈先行で考える傾向が今よりもずいぶんと強烈だったので、この言葉に何か建設的な意味があるんだろうかと心の底から馬鹿にしていました。
 
 それは、一個人が誰かに対して「許す」とか「許さない」とか言ったところで、言われた当人はそんな「何の権限もない言葉」を真に受けて行動を変える必要が全くないからです。
 人に対して「許す」とか「許さない」なんて言ってしまえる人はどれだけ偉いんだろう、自分に何の権限があるつもりなんだろうと、その無意味な権威の根拠を不思議がっていました。
http://mrbachikorn.hatenadiary.jp/entry/2016/01/09/162259mrbachikorn.hatenadiary.jp
 
 もし「許さない」が何か意味を持つとすれば、それは「それをすればこんな痛手を負わせてやる」といった脅迫が裏に隠されている場合です。
 親や教師や上司や取引先や警察など、自分に力を及ぼせる存在が使う「許さない」にはその裏に具体的な報復が匂わされており、その報復を被りたくなければ「許さない」には従わざるを得ません。
 逆に、そんな報復など知ったことかと思えるのなら、その相手からの「許さない」は無意味なものになります。
mrbachikorn.hatenablog.com
 
 つまり、「許さない」と言ったときにその言葉が効力を持つかどうかは、言った人と言われた人の間にどんな力関係があるかによって決まるということ。
 実際の行動を制限しているのはそうした現実のパワーバランスであり、単に「許さない」という言葉だけでは何の効力もありません。
mrbachikorn.hatenablog.com
 
 実際の力関係がない赤の他人に対して「許さない」と言ったところで、そんな空虚な言葉だけで人の行動を制限することはできないので、基本的に赤の他人への「許さない」は無意味です。
 しかし、それがどんなに無意味だろうと、何かに対する「許さない」という不毛な感情を共有することで、似たようなクレーマー同士が連帯感を得ることができます。
 それこそが、そもそも建設性のない「許さない」という言葉の、ほんのわずかな利用価値と言えるでしょう。 
 
 要するに、「許さない」は何か意味のある行為を指す言葉ではなく、ある種の負の感情を結集させるための旗のようなものでしかないのです。
 不快感ホイホイとなる旗のバリエーションとしては「〜を許さない」を始めとして「〜なんて許せない」や「〜は決して許されない」や「〜は間違ってる」などがあり、言葉自体には何の建設的な意味もありませんが、それなりに利用価値はあるようです。
http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2014/03/09/065600mrbachikorn.hatenablog.com
 
 ただ可哀想なのは、負の感情を結集するという運動家のような目的を持ってるわけではないのに、素朴に「許さない」「許せない」などの感情を抱えてしまっている人。
 単に「嫌いだ」とか「不快だ」というだけならば、そう感じた瞬間にその不快感を受け止めれば良いだけで、違う場面になったときに切り替えてしまえば大した後腐れはありません。
 でも「許せない」という感情の持ち方は、不快だと思った現状が改善されない限りはくすぶり続けるという意味で、場面ごとに味わう単なる不快感よりもはるかに粘着質です。
 
 基本的には無意味な「許せない」の利用価値とは、その負の感情を原動力に不快な現状を変更する、自分一人では現状変更できないときに協力してくれる共感者を集めるために旗として使う、さもなくば「許せないよねー」と管を巻いて会話を楽しむ、といったくらいのもの。
 そのどれでもなく、発散に結び付かない「許せない」であれば、そのようにくすぶり続ける負の感情は持ち主を蝕んでいきます。
 具体的な発散行動に結び付けるかその場限りの単なる不快感と切り替えてしまうかどちらかの手段で、無意味な「許せない」のしつこい毒性を解消していきたいものですね。
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わざわざ絡みに行くのがチンピラです

 2013年に少しだけ話題になった「繊細チンピラ」とは、己の不遇な境遇をや傷つきやすい繊細な感受性を武器に「幸せな人は幸せそうにしているだけで不幸な私を傷つけるので一生黙っててください」というようなクレームをしらみ潰しに繰り返して他人の言動を封じようとする人のこと。
mrbachikorn.hatenablog.com
 この言葉が現れた当時、このネーミングセンスに対して「よくぞ言ってくれた!」と賛同する人も大勢いましたが、それとは逆に「ひどいレッテル貼りがまた一つ増えてしまった」と嘆く人もいました。
togech.jp
 
 私自身は、レッテルはレッテルでも他人の言動を封じようと絡んでくる人を牽制するためのレッテル貼りなら、そんなもの大歓迎に決まってると感じていました。
 他人の言動を封じたがっている人が「私の妨害活動に繊細チンピラというレッテル貼りは邪魔だ」と訴えたところで、そもそもそんな人がやっている「幸せそうに振る舞わせない活動」自体が不愉快ですから願ったり叶ったりでしかなかったのです。
 
 ただ、 発案者の意図とは異なる誤解も生まれているようだとも感じていました。
 それは、ただ単に傷つきやすく繊細なだけで他人に絡んだりするわけではない人の中に「傷つきやすい人はチンピラと見なされるの?そんなのひどいレッテル貼りだ!」と、的外れな受け止め方をする人がいたことです。
 
 この問題を思い出すきっかけになったのが、2015年9月26日に放送された「バカリ山里若林と坂上忍の提案型バラエティ よろしくご検討下さい!」というテレビ番組です。
 その番組では、世の中に対して妬み・嫉み・恨み・辛みを抱えた「心の闇4」と呼ばれる出演者たちが、彼ら自身のわがままな要求を「世の中をよくするための提案」として紹介していました。
 
 若林正恭は、コンビニの冷たいドリンク棚の前で選んでいる人や、居酒屋の前で「二次会行く人こっち」などと溜まっている人などに「どけよ!」と思うことが多いことから「腕時計にクラクションをつける」ことを提案。
 バカリズムは、野球部に所属していた男子校時代に「女性がいるかどうか」という共学校との環境の差に大きなハンデを感じたことから「男子校が甲子園に出たら2対0から開始」というルール改定を提案。
 坂上忍は、15歳年下の女性と付き合った時に「あなたと一緒にいるとホント疲れる」と言われて傷ついた体験から、「40代男性に告白した20代女性に手当金を出す」という提案を発表しました。
 
 そして、山里亮太は若者たちがプリクラ撮影時にキス写真を撮っているという傾向を問題視して、「キスプリクラを撮影する時に警告文を表示する」というよく分からない提案をしました。
 その理由はアイドルのキス写真が後に出回るのを避けるためであり、そんな悲劇を予防するためにも「デビューの予定はありませんか?」という警告文が必要だというのです。
 
 しかし、山里のこの主張に他の出演者の同意は得られませんでした。
 キスプリなんて自分達には関係ない話だと割り切るバカリズムは「僕らって大体…、自分の敷地内で何か迷惑だったりとか困ったことがあるから文句だとか言うんですけど…、山ちゃんの提案は自分の敷地ではなく人ん家の芝生に農薬を撒くような提案」とつっこみ、無関係な他人に対して「勝手に幸せになりやがって!」と怒りを燃やして絡みにいく山里とは違うと明確に区別しました。
 
 この山里のように、本来自分に実害はないはずの他人の敷地内の出来事に勝手に傷ついて農薬を撒きにくる人こそ、チンピラと呼ばれるべき存在です。
 ですから、たとえ傷つきやすい繊細な性格であっても、他人に絡みに行かない人は別にチンピラではないのです。
 
 この点を勘違いして、今まさに傷ついている人のところに「お前は繊細チンピラだ」とレッテルをわざわざ貼りに行くのは、ただのがさつなチンピラです。
 それとは別に、「繊細チンピラとはよくぞ言ってくれた」と溜飲を下げている人に対して「繊細な人をチンピラと呼ぶなんてひどい」などと勝手な解釈で絡んでいく人も、まさしく繊細チンピラと呼ばれるべき存在でしょう。
 
 その人がチンピラであるかどうかは、わざわざ他人の敷地にまで絡みに行くかどうかで決まります。
 人に絡む趣味なんてもの、どうか存分に邪魔されてくださいね。
 繊細な人がチンピラなわけではありませんよ。
 
 
※当ブログの主なテーマは、この世界を支配する「正しさ」という言葉のプロレスとの付き合い方。
mrbachikorn.hatenablog.com 
「正しさ」というゲームの最大の欠陥は、何を「正しい」とし何を「間違ってる」とするのかというルールや、その管理者たるレフェリーが、実際にはどこにも存在しないということ。
人類はこれまで数え切れないほどの論争を繰り広げてきましたが、それらのほとんどは「レフェリーの代弁者」という場を仕切る権限をめぐっての権力闘争でした。
 
「レフェリーの代弁者」という立場は、自分の個人的な要求でしかない主張を、まるでこの世の既成事実のように見せかけるための隠れ蓑です。
「それは正しい」とか「それは間違ってる」という言い方で裁きたがる人たちは、私はこの世のレフェリーの代弁をしているだけなんだという迫真の演技で己の発言の圧力を高めていたのです。
 
演技の迫力とは、演技者が役にどれだけ入り込めるかで決まるもの。
人々はいつしかレフェリーの代弁者のふりが説得のための演技であったことを忘れ、「どこかに本当の正しさがあるはず」といった物語を本気で信じこんでしまいます。
こうして人類の間には、「正しさ」という架空のレフェリーの存在をガチだと捉えてしまう、大がかりなプロレス社会が成立していきました。

そのプロレス的世界観を支えている固定観念の源を「記述信仰」と名付けました。
以下の記事では、この「記述信仰」の実態を上のような簡単な図まとめて解説していますので、ぜひご一読ください。
mrbachikorn.hatenablog.com

繊細チンピラの犯す傷つきますハラスメント

 2013年に「繊細チンピラ」という言葉が話題になりました。
 この言葉を取り上げて広めたのはライターの小野ほりでい
 女子二人の会話という形式で面白おかしくウェブサイトで紹介したことをきっかけに、一部の人々の間でスラングとして普及していったのです。
 
 繊細チンピラとはSNSに登場する一種のクレーマー
 小野ほりでいが例として挙げたのは、テーブルの向かいに異性の姿が入っている料理の写真をアップした女性に対して「あなたの男がいるアピールがめんどくさい」と難癖を付けにくる人。
 また、会社にいくのに化粧をし忘れていたことを呟いた女性に対して「スッピンでもかわいいこととちょっとドジな自分をアピールしている」とやっかむ人などです。
 さらに極端な例としては、ネイルの写真をアップした女性に対して「爪がある自慢はうざい」などと難癖をつけてくる人などが挙げられます。
 
 例には挙がっていませんが、子育て中のタレントがブログにアップする「素敵な日常の風景」に対して、「まだまだ目の離せない赤ちゃんの時期なのに仕事入れ過ぎ、遊び過ぎ、外食し過ぎ」「子どもが欲しくてもできない人の気持ちを少しは考えろ」などと嫉妬まじりのコメントを付けて炎上させる人たちも似たようなものでしょう。
 このような人たちに対する評価を描いた部分を引用してみましょう。
togech.jp
 
この人たちはSNS名物、「自分に欠けている何かを持っていることに無自覚な他人の発言を勝手に自慢と受け取って激昂する人」よ。
何かを持っている人がそれを「あって当たり前」と思って何の気なしにそのことに言及しても、それを持っていない人からしたら自慢や嫌味に見えることがあるのよ。
 
もし誰かが自分に欠けた何かを持っていることが少しも苦しくなかったら誰もそれを得ようと努力しないわ。
苦しみたくなければその何かを得るか、自分の価値観を変える必要があるのよ。
 
でも、その苦しみの解決を自分でなく他人に任せようとすると、「幸せな人は幸せそうにしているだけで不幸な私を傷つけるので一生黙っててください」というようなクレームをしらみ潰しに繰り返すしかなくなるのよ。
 
 小野ほりでいの目的はおそらく、インターネット上で氾濫するこのような不毛なやりとりをばっさりと切り捨てること。
 そのための戦略の一環として、この種の難癖をつけてくる相手を以下のように大々的に名付けます。
 
気付いたかしら?
最近のネット上の「弱い者、持たざる者は強い者、持てる者をいくら攻撃してもよい」という不文律に・・・・。
 
行動が常に監視されている環境下では弱者が最強になるのよ。 誰かにとって有益な行動でも、「傷つくのでやめてください」の一言で止めさせられる。
被害者の立場で居続けるためにみんな弱い部分を曝け出す・・・
 
「傷つくのでやめてください」
の一言で自分の不快なものをこの世からなくそうなんて、暴力と同じなのよ。
だからこういうふうに弱者の立場を利用して意見を通す人に、畏敬の念を込めて”繊細チンピラ”と呼ぶのよ。

繊細な人というのはおおよそ、傷つくポイントが多い人というふうに考えることができるわね。
傷つくポイントが多い、ということを人のために利用すれば、同じくらい繊細な他人が傷つかないように特別に思いやることができるわ。
これは繊細さの良い側面よ。
 
でも逆に、繊細な自分を傷つけないように他人に要求する輩もいるわ。
繊細な人が繊細でない人たちに自分を傷つけないように求めても、何に傷つくかわからない人を気遣う側は大変なのよ。
 
 つまり、繊細チンピラという言葉は、己の傷つきやすさを他人に対する武器に転用して不毛な「傷つきますハラスメント」を仕掛けてくる輩を追い払うために、カウンターとして貼り付けるレッテルなわけです。
 この繊細チンピラたちの心理について、小野ほりでいは以下のような考察を加えています。
 
繊細チンピラはどうして人に絡むと思う?
たとえば・・・
 
ハイキングを楽しんでるだけの人に、「何の当てつけだ」とカラんでる人がいるとするわね。
この人は本当はハイキングをしたいけど、仕事があって行けないのかもしれない。
 
でも、本当に行きたいのなら仕事なんてやめてハイキングに行けばいいわ。
それでも仕事をするのなら自分がそれを選んだということよ。
自分の選択の責任を他の人に負わせることはできないわ。
 
仕事を早く終わらせていればハイキングに行けたかもしれない。
あるいは、今すぐ仕事を放り出せばハイキングに行ける・・・
 
それでもそういう選択肢を取れない自分の怠惰や、勇気のなさに対する怒りを他人にぶつけてしまうのが繊細チンピラなの。
 
怒っている人というのは基本的に、自分の状況を整理できていない人だと憶えておくといいわ。
悲しすぎて受け止められない事実、自分の行動の自己矛盾、考えなければならない分からないややこしい事態に思考回路がショートすると人は怒るの。
 
 こうして小野ほりでいは、繊細チンピラたちがこうした「傷つきますハラスメント」を犯してしまうのは、自分自身の状況を冷静に把握できていないからだと断じます。
 まだまだインターネット内の一部でしか知られていない「繊細チンピラ」ですが、この用語がもっと認知されることによって繊細チンピラたちのキズハラ行為が減っていくことを、私も願っています。
 
 
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「正しさ」というゲームの最大の欠陥は、何を「正しい」とし何を「間違ってる」とするのかというルールや、その管理者たるレフェリーが、実際にはどこにも存在しないということ。
人類はこれまで数え切れないほどの論争を繰り広げてきましたが、それらのほとんどは「レフェリーの代弁者」という場を仕切る権限をめぐっての権力闘争でした。
 
「レフェリーの代弁者」という立場は、自分の個人的な要求でしかない主張を、まるでこの世の既成事実のように見せかけるための隠れ蓑です。
「それは正しい」とか「それは間違ってる」という言い方で裁きたがる人たちは、私はこの世のレフェリーの代弁をしているだけなんだという迫真の演技で己の発言の圧力を高めていたのです。
 
演技の迫力とは、演技者が役にどれだけ入り込めるかで決まるもの。
人々はいつしかレフェリーの代弁者のふりが説得のための演技であったことを忘れ、「どこかに本当の正しさがあるはず」といった物語を本気で信じこんでしまいます。
こうして人類の間には、「正しさ」という架空のレフェリーの存在をガチだと捉えてしまう、大がかりなプロレス社会が成立していきました。

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「がんばって狩り」の元凶

 一般に「がんばって」という言葉には、「不用意に使うのはやめておこう」とためらってしまうようなデリケートな問題があります。
 それは、この言葉を「君はがんばるべきだ」という発言者からの押し付けがましさとして解釈する人や「がんばって」という言葉を目の敵にしている人から、「今でもがんばってるよ!」「がんばればいいのはわかってる!」「何でがんばらないといけないわけ!?」「人を追い詰める言葉を使うな!」などと反感を買ってしまうリスクのことです。
 
 この「がんばって」をめぐる面倒くさい問題は、「そもそも言葉は何のためにあるのか」という目的意識の食い違いから生まれていると思います。
 たとえば私は「効果を生むための道具として言葉は存在している」と認識していますが、巷には「言葉は世の中がどうなっているのかを描写したり記述したりするために存在する」と無邪気に信じている人も数多くいます。mrbachikorn.hatenablog.com
 
 ですから、「がんばって」と言われてしまった生真面目な人は相手がどんな意図だろうと関係なく、「がんばって」という言葉が語っているはずの「正しい意味」とやらを真に受けて腹を立てます。 
 たとえ相手が「励みになるように何か声をかけたい」と思って何気なくかけた言葉だったとしても、「誤解を与えない正しい言葉」を使わなかった相手のほうが悪いというわけです。
 
 しかし、落ち込んでいる人や大変な境遇の人に向けて、「励みになるように何らかの声をかけたい」という気持ちから出てくる「がんばって」だってあるはずです。
 「がんばる」という動詞の命令形としての杓子定規な意味にこだわってしまえば、こうした言葉の「プレゼントとしての側面」を素直に受け止めることはできないでしょう。
 
 言葉に「意図を正確に伝達するための手段であるべき」などと過度な期待をかけてしまわずに、コミュニケーションを立ち上げるための道具の一つに過ぎないと割り切っていれば、「がんばって」と言われたときにも「その言葉が示してはずの辞書的な正しい意味」だけではなく「相手はその言葉を使うことでどんな効果を得ようとしているのか」をくみ取ることができます。
 そこに「励みになるように何か声をかけたい」「相手の気分が良くなるような贈り物をしたい」という気持ちがそこに込められているのなら、私はその気持ちの方を素直に受け取って喜ぼうと思います。mrbachikorn.hatenablog.com
 
 ただこれはあくまでも個人の解釈の問題であって、人がどういう考えを持っているかは一概に判断できせんから、私から言葉をかける際には地雷を踏まないように「がんばって」は使わずにできるだけ他の言葉で自分の意図を表そうとします。
 気軽に「がんばって」と声をかけることができるのは、相手が言葉尻の意味にいちいちこだわらずにこちらの伝えたい気持ちを優先して汲み取ってくれると信頼関係ができているときに限られますね。
 また、相手がどんな人か詳しく知らない場合でも、地雷のリスクを念頭に置いた上で「これだけで誤解されるならそれまでの関係だ」という覚悟さえできれば「がんばって」と言うことができます。mrbachikorn.hatenablog.com
 
 当ブログの目的は「言葉は世の中がどうなっているのかを描写したり記述したりするために存在する」と素朴に信じてしまう記述信仰からの卒業を促し、「効果を生むための道具として言葉は存在している」という言語観を新たな常識に登録しませんかと投げ掛けること。
 もしこの新たな常識が根付いてしまえば、世にはびこる「がんばって狩り」の脅威に怯える必要もなくなるんでしょうね。
 
 
※当ブログの主なテーマは、この世界を支配する「正しさ」という言葉のプロレスとの付き合い方。mrbachikorn.hatenablog.com 
「正しさ」というゲームの最大の欠陥は、何を「正しい」とし何を「間違ってる」とするのかというルールや、その管理者たるレフェリーが、実際にはどこにも存在しないということ。
人類はこれまで数え切れないほどの論争を繰り広げてきましたが、それらのほとんどは「レフェリーの代弁者」という場を仕切る権限をめぐっての権力闘争でした。
 
「レフェリーの代弁者」という立場は、自分の個人的な要求でしかない主張を、まるでこの世の既成事実のように見せかけるための隠れ蓑です。
「それは正しい」とか「それは間違ってる」という言い方で裁きたがる人たちは、私はこの世のレフェリーの代弁をしているだけなんだという迫真の演技で己の発言の圧力を高めていたのです。
 
演技の迫力とは、演技者が役にどれだけ入り込めるかで決まるもの。
人々はいつしかレフェリーの代弁者のふりが説得のための演技であったことを忘れ、「どこかに本当の正しさがあるはず」といった物語を本気で信じこんでしまいます。
こうして人類の間には、「正しさ」という架空のレフェリーの存在をガチだと捉えてしまう、大がかりなプロレス社会が成立していきました。

そのプロレス的世界観を支えている固定観念の源を「記述信仰」と名付けました。
以下の記事では、この「記述信仰」の実態を上のような簡単な図まとめて解説していますので、ぜひご一読ください。mrbachikorn.hatenablog.com

ゲームと現実を区別すれば数学が分かる

 以前、当ブログで数学に対する「0.999999…が1になるのは何故か」という疑問への、私なりの決着法を紹介させていただきました。 mrbachikorn.hatenablog.com
 こういった数学への素朴な疑問は他にも代表的なものがいくつかありますが、今回はそれらを一気に解決してみたいと思います。
 これからまとめて片付ける疑問は以下の4つです。
 
①かけ算の順序を逆にしてはいけないのか
②分数で割るとはどういう意味か
③0で割れないのは何故か
④4次元、5次元、……、10次元、11次元、…っていったい何なんだ
 
 これらの疑問はみな「数学は机上のゲームに過ぎない」と割り切ってしまえば、それ以上取り合う必要のない話題です。
 ゲームの中での「正しさ」は最初に取り決めたルールにのみ左右されるもの。
 ですから、そうしたルールの範疇にない「現実世界における意味はどうなんだ」なんて雑音は、ゲームとしての数学にとって最初から気にする必要がない問題なのです。 mrbachikorn.hatenablog.com
 
 この明快な言い分には「数学がただの机上のゲームならそんなものは学校で教える必要がないはずだから『現実においてはどんな意味があるのか』という視点は欠かしてはいけない」という反論が想定できます。
 この立場から数学を捉えてみると、数学の成すべき使命は現実世界に則した役立つ知識を産み出すことであり、単なる机上のゲームなんかに甘んじていてはいけないということになるでしょうか。
 
 それに対するゲーム数学側の言い分は、数学にとっての現実とは論理的なゲームを作るための単なる参考資料でしかないということになるでしょう。
 ゲーム数学の主な目的は理路整然としたゲームを構築することでしかありませんが、そんなゲーム数学からも現実に役に立つ知識が「副産物」として生まれることがあります。
 そして、そんな「副産物」たちが現実世界のあちこちで重宝されているからこそ、数学は学校教育で伝えられているわけです。mrbachikorn.hatenablog.com
 
 つまり、ゲーム数学の立場から見た現実世界は決して従うべき上位概念ではなく、求められれば応えてあげても良いという程度の「お客さんの一人」でしかありません。
 「数学の言っていることを現実世界にどう当てはめられるか」という問題は、数学の世界で造られたモデルを現実世界に有効活用したいと望む第三者が勝手に悩んでいればいい話で、そもそもゲーム数学の側にとっては現実での意味なんて本質でも何でもないのです。
 
 ですから、一番目の「かけ算の順序を逆にしてはいけないのか」というのはゲーム数学の側から見れば相手にする必要のない話題であり、数学という抽象ゲームの中では「逆にしていいに決まってる」という結論にしかなりません。
 順序にこだわって「逆にしてはいけない」とごねている人は、「かけ算の順序は(一つ分の数)×(いくつ分の数)でなければならない」とするよそでは通用しないローカルルールへの従順さを査定したがっているだけ。
 世間で通用している計算のルールを純粋に伝えることよりも、教える側と教えられる側のローカルな上下関係を崩さないことの方が大事なんでしょう。

かけ算には順序があるのか (岩波科学ライブラリー)

かけ算には順序があるのか (岩波科学ライブラリー)

 
 二番目の「分数で割るとはどういう意味か」も三番目の「0で割れないのは何故か」も、小学校でわり算の計算をどうやって学んだかを思い出せば簡単に解決できます。
 たとえば「12÷3」の計算は「3に何をかければ12になるか」という風に九九の逆として教わっているはずです。
 つまり、わり算のそもそものルールとは「現実世界での等分の仕方」ではなく「かけ算の逆当てゲーム」に過ぎないのです。
 
 そう考えれば、「分数で割るとはどういうことか」と哲学的に悩まずとも、単なるかけ算の逆当てゲームとして割り切ってしまえば「ゲームを成り立たせるためには、分数のわり算は逆数のかけ算に直せばよいし、理由なんてそれだけで良い」と開き直ることができます。
 さらに「0で割れないのは何故か」という疑問も、ただ単に「0での割り算をかけ算の逆あてゲームで考えると答えが見つからなくなるから」と説明することができます。
 
 四番目の「4次元、5次元、……、10次元、11次元、…っていったい何なんだ」という疑問への回答も同様です。
 数学で言う「次元」というのは、ただ単に「数をいくつ並べるか」というだけの話であり、4つの数を並べれば4次元、10個の数を並べれば10次元ということに過ぎないんです。
 「現実世界で言うと、1次元は直線を表し、2次元は縦横の平面を表し、3次元は縦横高さのある空間を表す、それなら4次元の4つ目の軸は何か、10次元の10個の軸は何か」なんてことは、数学を利用したい自然科学者たちが悩めばいいことで、机上の理論や計算に打ち込んでいればいいゲーム数学の側の問題ではないのです。
 
 数学という机上のゲームに対して「現実での意味」を必要以上に教え込もうとする大人たちの姿勢を見ていると、「白か黒かをはっきりさせられる数学のようにこの世の真理も理性で見出だされるはず」という近代社会のドグマを植え付けるために、ゲームと現実の区別をわざと曖昧にしているのではないかと疑ってしまいたくなります。
 そんなインチキ宣教師たちの洗脳的な布教活動は放っておいて、いさぎよく「数学は机上のゲームに過ぎない」と割り切ってしまいませんか。mrbachikorn.hatenablog.com
 
 
※当ブログの主なテーマは、この世界を支配する「正しさ」という言葉のプロレスとの付き合い方。mrbachikorn.hatenablog.com 
「正しさ」というゲームの最大の欠陥は、何を「正しい」とし何を「間違ってる」とするのかというルールや、その管理者たるレフェリーが、実際にはどこにも存在しないということ。
人類はこれまで数え切れないほどの論争を繰り広げてきましたが、それらのほとんどは「レフェリーの代弁者」という場を仕切る権限をめぐっての権力闘争でした。
 
「レフェリーの代弁者」という立場は、自分の個人的な要求でしかない主張を、まるでこの世の既成事実のように見せかけるための隠れ蓑です。
「それは正しい」とか「それは間違ってる」という言い方で裁きたがる人たちは、私はこの世のレフェリーの代弁をしているだけなんだという迫真の演技で己の発言の圧力を高めていたのです。
 
演技の迫力とは、演技者が役にどれだけ入り込めるかで決まるもの。
人々はいつしかレフェリーの代弁者のふりが説得のための演技であったことを忘れ、「どこかに本当の正しさがあるはず」といった物語を本気で信じこんでしまいます。
こうして人類の間には、「正しさ」という架空のレフェリーの存在をガチだと捉えてしまう、大がかりなプロレス社会が成立していきました。

そのプロレス的世界観を支えている固定観念の源を「記述信仰」と名付けました。
以下の記事では、この「記述信仰」の実態を上のような簡単な図まとめて解説していますので、ぜひご一読ください。mrbachikorn.hatenablog.com

数学の計算ミスを減らす具体的な動作

 教師として高校生に数学を教えつつ、プライベートで和太鼓を教えることもある私の指導上のこだわりは、曖昧な精神論に逃げずにできるだけ具体的な解説を目指すこと。
 この方針に従って、いつのころからか数学の計算ミスに関しても「気を付けろ」「よく見直せ」「ミスの重大さを肝に命じろ」といったありきたりな精神論以外の手法を伝えるようになりました。
 
 その方法とは、計算式を書きながら眼球を小刻みに動かし続けること。
 数学の問題では計算を進めるごとに何行も式を続けていくことがよくありますが、一つの式を書き上げるまでにの間に、今書いている式とその直前の式とを何度も見比べる習慣を身に付ければ、計算ミスは自然と減っていきます。
 
 この手法で計算ミスが減るのは、高校数学における計算ミスでもっとも多いのが単純な「書き写しミス」だから。
 前の式から次の式にうつるときにプラスとマイナスを写し間違える、数字が全然違うものに変わっている、xやtやaなど文字が別物に刷り変わっているなど、答えに至るまでの途中式が長くなるごとにこうした書き写しミスの出現頻度も増えていきます。
 
 やってしまった書き写しミスを修正するためには、自分の犯したミスに気付けないといけません。
 ですが、そもそも「書き写しミスはよく起こるもの」という認識を持っていなければ、自分に対して「書き写しミスをやってしまっているかも」という疑いの目を持てませんから、ミスの発見率は絶望的に低くなります。
 
 逆に「書き写しミスはよく起こるもの」という常識さえ身に付けていれば、一行書くごとに新たなミスは起こっているのかもしれないのですから、今書いている式とその直前の式とを見比べるなんてことは極々当たり前の話です。 
 仮に一行書くごとに視線の往復を5回しているとしたら、問題文から十行の途中式を書くまでに、50回はこの小刻みな眼球運動を繰り返していることになります。
 このように数十回の眼球運動を当たり前の癖のように修得してしまえば、後から見直すよりも時間がかかりませんし、計算ミスの発見率も飛躍的に向上します。
 
 大変面倒な作業に感じるかもしれませんが、計算ミスは「次の行に移るまでほんのわずかな時間しかないのにまさか間違えているはずがない」という己の記憶力への過信から生まれます。
 この手法自体も「さっさと先に解き進めていきたいけど、必ず起こるミスを無駄に見逃して、不安まじりの見直し作業を後に残したくない」という私自身のせっかちな性分から自然と生まれた、時間短縮のための工夫です。
 
 一朝一夕には身に付かないテクニックですが、高校1年の早い時期から意識して練習していけば、大学受験までには確固たる技術へと昇華させることができます。
 また、そこまで周到に準備しなくともこの作法の知識があるのとないのとでは大違いですから、数学のペーパーテストを受ける必要がある方は、これからでも試してみてはいかがでしょうか。
 
 
※当ブログの主なテーマは、この世界を支配する「正しさ」という言葉のプロレスとの付き合い方。mrbachikorn.hatenablog.com 
「正しさ」というゲームの最大の欠陥は、何を「正しい」とし何を「間違ってる」とするのかというルールや、その管理者たるレフェリーが、実際にはどこにも存在しないということ。
人類はこれまで数え切れないほどの論争を繰り広げてきましたが、それらのほとんどは「レフェリーの代弁者」という場を仕切る権限をめぐっての権力闘争でした。
 
「レフェリーの代弁者」という立場は、自分の個人的な要求でしかない主張を、まるでこの世の既成事実のように見せかけるための隠れ蓑です。
「それは正しい」とか「それは間違ってる」という言い方で裁きたがる人たちは、私はこの世のレフェリーの代弁をしているだけなんだという迫真の演技で己の発言の圧力を高めていたのです。
 
演技の迫力とは、演技者が役にどれだけ入り込めるかで決まるもの。
人々はいつしかレフェリーの代弁者のふりが説得のための演技であったことを忘れ、「どこかに本当の正しさがあるはず」といった物語を本気で信じこんでしまいます。
こうして人類の間には、「正しさ」という架空のレフェリーの存在をガチだと捉えてしまう、大がかりなプロレス社会が成立していきました。

そのプロレス的世界観を支えている固定観念の源を「記述信仰」と名付けました。
以下の記事では、この「記述信仰」の実態を上のような簡単な図まとめて解説していますので、ぜひご一読ください。mrbachikorn.hatenablog.com

0.999999…=1の決着法

 数学教師という肩書きを持っていると、ときどき聴かれるのが「0.999999…が1になるのは何故か」という質問です。
 この疑問に対するもっともありふれた回答は以下のようなものです。
 
 1÷3=0.3333333…
1÷3×3=0.333333…×3
  1=0.999999…
 
 他にも、極限という高校・大学で習う概念を用いたより厳密な説明がありますが、そういった説明を一通り理解した上で「それでもその説明はおかしい」と判断している方もいらっしゃいます。
 そこで今回は、この疑問を解消するために用意している、私なりの説明を文章化してみたいと思います。 
 この問題に対する私の個人的な見解はこうです。
 
問題の原因は「=(イコール)」という記号の意味をめぐる「最初の取り決め」の食い違いにある。
数学では「0.999999…と9を果てしなく続けていくと1にどこまでも近付いていく」といった文意を「0.999999…=1」のように書き表す「ルール」があるというだけのこと。
 
実は数学には二種類のイコールがあり、ここで使われているイコールは「左右の二つの数が互いに等しい」という意味で使われる一般的なイコールではなく、「左の作業を果てしなく続けていくと右の数にどこまでも近付いていく」という意味を持つ極限のイコールである。 
「0.999999…」というのも「何か特定の数」を指す記号ではなく、「9を果てしなく続けていく」という「作業」を表す記号でしかない。
 
つまり、「0.999999…が1になるのは何故か」といった疑問が生じるのは「左右の二つの数が互いに等しい」という一般的な意味でしかイコールを捉えていないから。
「数学の世界では通常のイコールと極限のイコールとが共存している」という知識さえあれば、「0.999999…=1」はただ単に「0.999999…と9を果てしなく続けていくと1にどこまでも近付いていく」という事実をルール通りに書き表しているだけなので、不思議でもなんでもなくなる。

 ここで私が最初に「個人的な見解」と断ったのは、数学の世界での「立場に左右されない統一的な見解」が、この件に関しては定まっていないからです。
 白か黒かがすべてはっきりしているように見える数学の世界にも、実は「右翼と左翼のいがみ合い」のようなイデオロギー的対立があるんです。
 それが、無限という概念をめぐる「実無限派」と「可能無限派」との対立です。
 
 この対立について、今回の例に則して大雑把に説明してみると、「0.9+0.09+0.009+0.0009+0.00009+0.000009+…という果てしない作業を想定することはできるが、そのような終わらない計算の結果なんて定まった数として取り扱うことはできない」と考えるのが可能無限派であり、「無限に続く計算の収束先は一つの数として取り扱うことができるので0.999999…はちゃんとした数だと見なしてよい」と考えるのが実無限派だと言うことができるでしょう。
 中学、高校、大学などでも教えられている現代数学の主流はこの実無限の考え方ですが、ギリシャ哲学の時代から数千年間の主流はむしろ可能無限の考え方であり、実無限派が巻き返してきたのは近現代のたかだか数百年でしかありません。
 
 この実無限と可能無限の問題については、野矢茂樹という哲学者が『無限論の教室』という著書で丁寧に説明しています。
 その中に、実無限と可能無限の違いが分かる、シンプルな喩えがいくつか提示されていたので紹介してみましょう。

無限論の教室 (講談社現代新書)

無限論の教室 (講談社現代新書)

 
 一つ目の喩えは彫刻です。
 与えられた木材から彫れる作品の形は、人、動物、植物、無機物、仏など、ありとあらゆる可能性があります。
 木材には、こうした無数の可能性が彫られる前の時点からあらかじめ内臓されており、彫刻家はその膨大な選択肢からどれか一つを選んでいるだけなんだと、神の視座に立って解釈するのが実無限的な発想です。
 一方、可能無限的な考え方では、彫刻家は木材をありとあらゆる形に彫っていくことができるが、別にその可能性が最初から選択肢として木材にインプットされていたわけではないと捉えます。
 
 この可能無限の考え方によると「無数の点が集まって直線ができている」という、中学、高校で教わる実無限的な知識も明確に否定されます。
 そのことを端的に説明している、野矢茂樹の二つ目の比喩を紹介しましょう。
 
 まず、果てしなく長い羊羮を想像し、これを数がびっしりと並んだ数直線だと見なします。
 さらに、この羊羮をカットする行為を想定し、このときにできる切れ目を一つ一つの数、つまり点と見なします。
 そうすると、実無限的に「無数の点が集まって直線ができている」と考えたのでは辻褄の合わない事例が出てきます。
 
 実無限的な「点が集まって線になる」という考え方を羊羮の喩えに当てはめると、「羊羮の切れ目を無数に集めれば羊羮ができあがる」ということになります。
 ですが、切れ目はあくまでも切れ目でしかなく羊羮そのものではないので、いくら集めたって羊羮にはならないでしょう。
 少しでも厚みのある羊羮のかけらを集めなければ羊羮にはならないのと同じように、長さのない点ではなく少しでも長さをもった線のかけらを集めなければ直線になんてなるはずがないのです。
 
 一方、可能無限的な考え方であれば、この羊羮の喩えには何の矛盾も生じません。
 「直線からは無数の点を一つ一つ見つけ出していくことはできるが、だからといって無数の点から直線ができているわけではない」というのが可能無限の考え方。
 これならば「羊羮に無数の切れ目を一つ一つ付けていくことはできるが、だからといって無数の切れ目から羊羮ができているわけではない」と、羊羮に置き換えても自然な解釈が成り立ちます。
 
 このように、羊羮は厚みの全くない切れ目の集まりでできており、木材にはどんな形の彫刻も最初からインプットされており、終わりもしない計算の結果を普通の数として扱ってもかまわないとする独特の信仰こそが、現代に流通している数学で主に採用されている実無限の考え方です。
 なぜ可能無限ではなく実無限の方が採用されているかというと、実無限の考えを使った方が数学者の気に入るような「すっきりと辻褄の合う理論」をいろいろと作りやすかったから。
 「そう考えてしまっても本当に大丈夫なのか」としつこくこだわる哲学者と違って、ゲームとしての計算や証明が大好きな数学者は「綺麗なゲームが成り立ってくれれば嬉しい」というプレイヤーとしての気持ちの方が強いのでしょう。
 
 そんなわけで、可能無限に近い自然な考え方にこだわるタイプの人は、「0.999999…が1と同じだなんておかしい」という違和感を主張し続けます。
 それに対して、実無限的な現代数学のお約束を素直に「決まり事」として飲み込んでいる人は、0.999999…や0.333333…や無理数など「果てしない作業を前提とする概念」を通常の数として扱う説明に何の違和感もありません。
 数学好きが高じて「実無限を是とする今風の数学」に染まりきっている人の中には、違和感を表明する人に対して「分かってない」と正しにかかろうとする人さえいます。
 
 そういう私自身は、可能無限を是とする伝統的かつ哲学的な数学観に共感していますが、一方では実無限的な方便を用いた今風な数学ゲームを楽しみたいとも思っている人間です。
 そこで思い付いたのが、冒頭で紹介した「イコールには二種類の意味があり、互いに矛盾なく共存している」という考え方です。
 
 可能無限的な考えをする人が実無限的な数学に違和感を覚えるのは、イコールのことを「二つの数が互いに等しい」という一般的な意味に留めているから。
 ですが、イコールという記号は一般的な意味以外にも「左に記した作業を果てしなく続けていくと右の数にどこまでも近付いていく」という極限の意味にも使われるんだと割り切ってしまえれば、可能無限的な視点からも比較的納得しやすいかと思います。
 さらに、実無限の立場で書かれた高校や大学の教科書を見ても、極限の定義を真摯に読めば「片方がもう片方に近付いていくことを示す別物の記号」として解釈できることが分かります。
 
 この経緯を踏まえた上で、私自身は「数学の世界では通常のイコールと極限のイコールとが共存している」という見解に至りました。
 根本的に立場が違う人とは決して解り合えないかもしれませんが、物事を上手く運ぶための現実的な妥協が許容できる人には、なかなかおすすめな方法だと思いますよ。
 
 
※当ブログの主なテーマは、この世界を支配する「正しさ」という言葉のプロレスとの付き合い方。mrbachikorn.hatenablog.com 
「正しさ」というゲームの最大の欠陥は、何を「正しい」とし何を「間違ってる」とするのかというルールや、その管理者たるレフェリーが、実際にはどこにも存在しないということ。
人類はこれまで数え切れないほどの論争を繰り広げてきましたが、それらのほとんどは「レフェリーの代弁者」という場を仕切る権限をめぐっての権力闘争でした。
 
「レフェリーの代弁者」という立場は、自分の個人的な要求でしかない主張を、まるでこの世の既成事実のように見せかけるための隠れ蓑です。
「それは正しい」とか「それは間違ってる」という言い方で裁きたがる人たちは、私はこの世のレフェリーの代弁をしているだけなんだという迫真の演技で己の発言の圧力を高めていたのです。
 
演技の迫力とは、演技者が役にどれだけ入り込めるかで決まるもの。
人々はいつしかレフェリーの代弁者のふりが説得のための演技であったことを忘れ、「どこかに本当の正しさがあるはず」といった物語を本気で信じこんでしまいます。
こうして人類の間には、「正しさ」という架空のレフェリーの存在をガチだと捉えてしまう、大がかりなプロレス社会が成立していきました。

そのプロレス的世界観を支えている固定観念の源を「記述信仰」と名付けました。
以下の記事では、この「記述信仰」の実態を上のような簡単な図まとめて解説していますので、ぜひご一読ください。mrbachikorn.hatenablog.com