間違ってもいいから思いっきり

私たち人間は、言葉で物事を考えている限り、あらゆるものを「是か非か」と格付けする乱暴な○×ゲームに絶えず影響されています。ここでは、万人が強制参加させられているこの言語ゲームを分析し、言葉の荒波に溺れてしまわないための知恵を模索していきます。

好ましい世界は自分たちで作るしかない

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自分が今いる場所が「ろくでもない場所」であり、まわりにいるのは「ろくでもない人間」ばかりなので、「そうではない社会」を創造したいと望む人がいるかもしれない。
残念ながらその望みは原理的に実現不能である。
 
人間は自分の手で、その「先駆的形態」あるいは「ミニチュア」あるいは「幼体」をつくることができたものしかフルスケールで再現することができないからである。
どれほど「ろくでもない世界」に住まいしようとも、その人の周囲だけは、それがわずかな空間、わずかな人々によって構成されているローカルな場であっても、そこだけは例外的に「気分のいい世界」であるような場を立ち上げることのできる人間だけが、「未来社会」の担い手になりうる。
 
 これは、以前紹介した内田樹の言葉。
 この世の欠陥をどれだけ的確に指摘することができたとしても、これまで自分の周りに「気分のいい空間」を少しも築いてこなかったような「気分の悪い人」が、これから「今よりも気分のいい社会」を実現する可能性は極めて低いでしょう。 mrbachikorn.hatenablog.com
 
 大言を吐いている暇があったら、まずは身近な問題から。
 さらに、内田樹は以下のように続けています。

 
人間社会を一気に「気分のいい場」にすることはできないし、望むべきでもない。
「公正で人間的な社会」はそのつど、 個人的創意によって小石を積み上げるようにして構築される以外に実現される方法を知らない。
 
だから、とりあえず「自分がそこにいると気分のいい場」をまず手近に作る。
そこの出入りするメンバーの数を少しずつ増やしてゆく。
 
別の「気分のいい場」で愉快にやっている「気分のいいやつら」とそのうちどこかで出会う。
そしたら「こんちは」と挨拶をして、双方のメンバーたちが誰でも出入りできる「気分のいい場所」ネットワークのリストに加える。
 
迂遠だけれど、それがもっとも確実な方法だと経験は私に教えている。
 
 そんなわけで、この世を住み良くするために私がしている身近な努力とは、長野を拠点に活動している歌舞劇団田楽座の舞台を、より多くの人に観てもらうための活動をすること。
 田楽座とは、お祭りの場で昔から人と人とを繋いできた日本の民俗芸能の温かみを舞台で伝えているプロ集団。www.dengakuza.com
 2004年に長野から田楽座を呼ぶための実行委員会を福岡で立ち上げ、活動を拡大していく中で長崎や大阪や堺や奈良や姫路の実行委員会とも交流を深めてきました。mrbachikorn.hatenablog.com
 
 2009年に関西に引っ越してからは西宮に「楽太鼓 笑宴快(ええんかい)」という和太鼓チームを立ち上げ、民俗芸能というジャンルへの興味を触発しようと試みてきました。
 そして、そこで知り合った西宮の仲間たちが「笑う門には田楽座実行委員会」という会を立ち上げ、2013年には初めての田楽座公演を開催するに至りました。
 
 こうして私たちなりの「気分のいい場所」ネットワークを広げていく中で「こんちわ」と出逢うことができたのが、NPO法人「人と地域の活動応援団ぽっかぽか」です。
 ぽっかぽかとは、都会の中で弱体化しつつあるコミュニティの結束力を取り戻すため、行政だけに頼らず自分たちの手でやれることをしていこうと活動している団体。
 放課後の子どもたちの居場所を作るために、校長と直接交渉をして小学校の敷地内に事務所を建てるなど、既存の枠に捕らわれない活動をしています。
 
 ぽっかぽかは、校区に関係なく子どもたちが立ち寄れる居場所というだけでなく、日本の伝統文化を次の世代に少しでも残していくための活動として、昔の遊び体験、そば打ち体験に着付け教室まで、幅広く活動しながら、それと同時に親の世代の横の繋がりをも育んでいます。
 そんなぽっかぽかと西宮の仲間たちが出会うことで、「瓦木楽太鼓たたき隊」という子どもたちのための太鼓チームが生まれました。
 「和太鼓を通じて世代を越えた繋がりを地域に築いていきたい」というぽっかぽかの願いに応えて、私も西宮の子どもたちと楽しく関わらせてもらっています。
 
 そして2015年、西宮の地域活動に貢献するため、西宮のための新たなお囃子「えびす田笑囃子 八祭(やっさい)」を、田楽座に作曲していただきました。
 2015年10月10日(土)開催の田楽座西宮公演で初お披露目するこの曲とともに、これからもええんかいと西宮実行委員会は西宮の地域活動に貢献していきます。
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 こういった経緯から、冒頭で紹介した内田樹の言葉には深く共感することができました。
 たとえどんな小さな一歩からであっても、愉快な実践を積み重ねていけば「気分のいい場所」のネットワークは確実に広がっていくんです。
 
  
※当ブログの主なテーマは、この世界を支配する「正しさ」という言葉のプロレスとの付き合い方mrbachikorn.hatenablog.com

※そのプロレス的世界観を支えている「記述信仰」の実態を、簡単な図にしてまとめています。mrbachikorn.hatenablog.com

悲しみ依存症からの脱却

 私が提唱する「会話≒白ごはん」理論とは、「会話の楽しみと人生経験」の関係を日本食における「白ごはんとおかず」の関係に喩えるもの。
 人生のもっとも基本的な楽しみを「会話」と見なし、すべての人生経験を会話のネタと捉えることで、どんな経験だろうと人生の楽しみに変換していけるという考え方です。 mrbachikorn.hatenablog.com
 
 そして前回の記事では、つらい経験や苦しい経験を辛い食材や苦い食材に喩えてみました。
 それは、そのままでは飲み込みにくく消化し難い経験であっても、工夫次第で充実した会話のネタに料理できると伝えるためです。mrbachikorn.hatenablog.com
 
 こうしたアイデアのベースとなっているのは、学生時代に見出だした「幸せのために最優先で取り組むべき課題は楽しみを生み出すことであり、人生におけるその他の要素は2番手以降の雑事に過ぎない」という自分なりの信念。
 そうやって人生の優先順位を整理していたおかげで「悩みも人生を楽しむための材料に過ぎない」と明快に割り切ることができ、これまで遭遇した苦境とも比較的前向きに向き合ってこれました。mrbachikorn.hatenablog.com
 
 ですが世の中には、楽しみを自ら生み出そうとはせずに悩みだけで自分をいっぱいいっぱいにしてしまいがちな人や、楽しみを優先せずに率先して自分を追い詰めておきながらひたすら深刻ぶりたがる人などが、少なからず存在しています。
 このタイプの人がする悩み相談は、その目的が「悩み自体を解消すること」から「安い同情を得続けること」に刷りかわってしまいがちです。
 
 これはまるで、不味いおかずをごはんで無理矢理かきこむような行為。
 話した本人は一時的に気を紛らわせることができても、不味い晩餐に付き合わされた相手は我慢を強いられることになります。
 それに、人生の辛味や苦味を美味しく料理しようと工夫しなければ、本人は不味いおかずと一生付き合うことになります。
 
 日本一企業顧問数の多い心理カウンセラーとして知られる衛藤信之は、このような典型的な症状を「なげき癖」とか「悲しみ依存症」という風に表現しています。

今日は、心をみつめる日。

今日は、心をみつめる日。

 新米の心理カウンセラーをしばしば苦しめるのもこの「悲しみ依存症」らしく、彼は自身のブログ記事の中で、なげき癖のある人と心理カウンセラーの双方に以下のようなアドバイスを送っています。s.ameblo.jp
 
「最悪」「悲しい」「不幸」「自分だけが」と言って嘆いている人が親切なカウンセラーに出会う。
いくら、カウンセラーが手を差し伸べても、現状を「なげくばかり」で、色んなアドバイスをしたとしても人生を前に向かわせない。
「私はこんなにツラい」と訴えるばかりで、解決の決断をしない。

フロイトは、人生を失敗する人は「いつも悩みたがる」と書いています。
こういう人は時間が「ある過去」で止まってしまっています。
 
人生の時間は限りがあり、この悩んでいる瞬間にも、人生の大切な時間が流れていることを知識としてわかっていても、感覚としてわかりたくないのです。
 
それは、周囲が「大変ね」と同情し、関わってくれることに意味を見出しているからです。
だから、誰かの援助を求めています。
そして、自分の思うようにならない現実や世界を恨んでいます。
 
その人にとって「こんなにツラい」「苦しい」と言うことが、無意識の中で唯一のストレスのハケ口になってしまっています。
簡単に解決してしまうと困るので、アドバイスは耳で聞いてはいても、心からは聴いていません。
相談者の心に届かないのです。
 
〜中略〜
 
こうして「私は簡単には解決できない」と泣き叫ぶ相手に、優しい心理カウンセラーの相関関係が出来上がります。
このような心理カウンセラーも「早く解決しなければ」と焦りがあります。
「早く解決しないと自分はダメなカウンセラーになる」という思いにせかされて、苦しむtypeのカウンセラーが多いようです。
 
だから「私は誰も救えない(あなたなんかに解決できないのよ!!)」と攻撃しながら、 前を向かない「悲しみ依存症」 の人にしがみつかれてしまう。
相手を助けようとして、一緒に深みに沈んで行くのです。
 
こんな場合、カウンセラーとして、気づかないといけない。
嘆いているのにどうして相手は前を向いて動こうとしないのか?
「苦しい」「ツラい」と言いながら、どうして、解決する意思を本人は見せないのか?
 
泣いていて、落ち込んでいて「大丈夫?」と声をかけてくれるのは親です。
親が子どもを愛しているから慰めてくれる。
 
「ツラい、苦しい、自分は価値がない」と言われ続けると、普通の人間関係では、いつかは誰もが逃げてしまう。
過去の苦しみにしがみついて「今」を生きようとしない人には、普通の人は去っていってしまう。
幼児性が強いから、誰に対しても「親代わり」を求めてしまう。
 
「私は生きることを楽しんでみます!」と言ったほうが、聞いていて誰もが清々しいし、明るい気持ちになる。
それをしないのは、周囲のことを考えていない。
相手の気持ちに無関心になって、周囲の出来事にイラだち「自分だけの過去」に生きています。
ある意味で自己中心的なのです。
相手に無関心と言えば言い過ぎかもしれないけど、僕はそう思っています。
 
「幸せなこと探してみます」と、言ったら、人は笑顔になるし、そのほうが好かれる。
でも、悲しみ依存症の人は、周りが同情してくれることにしがみつく。
 
好かれようとして、嫌われる。
泣いて注目を集め、周囲を心配させて振り回す。
悲しみながら、好かれようとするから、周囲は去って行く。
 
自分は「特別に悲しい」と訴え、周囲にいる親代理の誰かが、かまってくれることを、いつも求めてしまうのです。
何よりも自分の悩みを優先するのが、相手の心に対しては無関心な証拠なのだと思うのです。
 
有名な心理学者、G・ウエインバーグは、抑うつ期の人に、こうアドバイスするそうです。
「ある一定の期間、自分の問題について話すのをやめること。まず、一日やってごらんなさい。それから一週間。もし、不平を言うのをやめると、あなたは、自分自身について重要な発見をするかもしれません。抱えている問題を話すことは、しばしば抑うつな気分を刺激します。あなたが不平なことしか、しゃべらないから、あなたの人生はすべて不平以外のことは、人生に何もないと思ってしまうのです」
 
アドラーは「うつ病になる人は、毎朝、人に喜びを運ぶことを考えなさい」とアドバイスをしました。
「そうすれば、あなたのうつ病は、二週間で治るでしょう」とアドラーは断言しました。
 
うつ病になる人は、周囲のこと考えないで、自分の悩みの世界だけにひたっている。
すべては自分の悩みだけを優先させてしまう。
 
僕は思います。
泣いている時間、空を見よう!
「楽しいことは世界に、きっとある!」と人に呼びかけ、誰かに援助を与えよう!
 
悩んでいる人は空を見ない、草の中のクローバーを探す気にもならない。
風のそよぎが頬にあたっても感じることなども数年忘れてしまっている。
 
楽しいことは、あなたの世界にも、きっとある!
 
 ここでも繰り返し触れられていますが、楽しみとはみずから見出だすもの。
 「楽しいことがない」「自分が不幸なのは仕方ない」という捉え方は、「人生が充実するかどうかの責任を自分では負いたくない」という幼児性の現れでもあります。
 
 幸せのために最優先で取り組むべき課題は「楽しみ」を生み出すことであり、人生におけるその他の要素は2番手以降の雑事に過ぎません。
 「自分の人生を充実させる責任」は少々重たいものかもしれませんが、覚悟を決めて担いでみれば結構楽しいものですよ。
 
  
※当ブログの主なテーマは、この世界を支配する「正しさ」という言葉のプロレスとの付き合い方mrbachikorn.hatenablog.com

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苦境をネタに昇華する

 それは三年半前の昼のことでした。
 デスクワークをしていると、唐突に、腰の右脇の方に猛烈な痛みが襲ってきました。
 姿勢を保つこともできないくらいの破滅的な激痛に椅子からへなへなと崩れ落ち、痛みに悶えて這いつくばりながら職場の保健室へと直行。
 
 保健室に向かいながら携帯電話で「右脇腹の痛み」と検索してみると、真っ先に出てきたのは「盲腸の疑い」でした。
 「盲腸かあ、手術せずに薬で散らせるといいなあ」と思いながら何とか保健室にたどり着くと、保健の先生は背中の方を押さえてる私を見て「盲腸じゃないよ、多分結石やね」と診断。
 すぐさま職場近くの病院に車で運ばれていきました。
 
 痛みに顔を全開で歪め、身をよじりながら初診受付をしていると、見かねた受付の方が車椅子を持ってきてくれました。
 しかし、診察を待つ間にも痛みの波はドンドン酷くなり、身をよじりすぎて車椅子にも座っていられなくなりました。
 
 車椅子の座席を抱きかかえて七転八倒している私の様子に、今度は担架が出動。
 担架の上でしばらく放置され、散々身をよじったあとにようやく医師が到着し、触診を受けることができました。
 
 医師は背中に当てていた私の手をどかし、強烈に指圧しながら「ここが痛みますか?」などと当たり前の質問をしてくるので、「はい…」と息も絶え絶えに返事。
 さらに裏側のお腹を指圧してきて「こちらも痛みますか?」と冷酷に聞いてくるので、冷静さをギリギリで保ちながら「痛いことは痛いですが、何をしていても常に痛み続けているので、押されたから痛いのかどうかは判断がつきません」とひそかに苛立ちながら返事を突き返します。
 
 すると、横から「痛みを抑えてからでないと診断できないので、ボナフェックを使いましょう」という女性の声が聞こえてきたので、「何でもいいから痛みをどうにかしてくれ〜」という破れかぶれの気分に。
 そうして座薬・点滴・CTスキャンと「人生初体験」の3連コンボ。
 5分〜10分で効くと言われた座薬も30分くらい経てば少しは効果がありましたが、効き目には波があって以下の3レベルの痛みを行ったりきたりするありさまでした。
 
①何とかジッとしていられるギリギリ限界のレベル
②ジタバタ身をよじることで何とか平静を保っていられるレベル
③いくら身をよじってもどうにもならず絶望的な気分で悶え苦しむレベル
 
 波が浅いときを狙ってCTスキャンと検尿を何とか終え、待合所でレベル2の痛みに苦しんでいるときに診察室に呼ばれました。
 患者用の丸椅子に真っ直ぐ座っていられる状態ではなかったので、医師のデスクに這いつくばった状態で説明を受けます。
 
 CTスキャンの断面図を見せられながら受けた診断は尿管結石。
 右の腎臓から膀胱へと通じる尿管の出口に小さな結石が詰まっており、せき止められた尿管が腫れ上がっていて激痛を起こしているとのことでした。
 
 極々小さな結石のため、自然に出てくるのを待つ以外に処置の仕様はない模様。
 だいたい2週間以内には出てくるということなので、それまでは薬で痛みを抑えながらやり過ごすしかないようでした。
 
 診断を受けてから会計処理を待つ間にもレベル2〜3の痛みの波が襲いかかり、待合いのソファーの上で丘に打ち上げられた魚のようにピチピチ・ヒクヒクとのた打ち回っていました。
 あまりにも見苦しいので誰にも見られない個室で一人苦しもうと、トイレに入ったところで猛烈な吐き気が襲い、続けざまに1回、2回、3回と激しくえずきまくり。
 トイレから出たときは嘔吐の余韻で最悪な気分でしたが、ふと我にかえってみると、さっきまでの痛みがほとんど消えてしまってることに気付きました。
 
 3時間休みなく激痛に苦しみ抜いた後にふいに訪れた、痛みの全く無い世界はまさに極楽。
 過去に味わってきた帯状疱疹やアキレス腱完全断裂・アキレス腱部分断裂などとは比べものにならないくらいの痛みに、診断を受けるまでは死に至る病の可能性も頭によぎり、余命を宣告されでもしたら限られた時間をいかに有意義に過ごそうかなどという想像までしてしまうほどでした。 
 
 この尿管結石の後遺症と言えば、激痛でひきつり過ぎた顔に深い皺が刻まれ、たった一日でゴルゴ13のように老け込んでしまったことくらい。
 一時は「死ぬかも!?」と真剣に考え込んでいたので、無事に生きられて本当に良かったです。

ゴルゴ13 165 (SPコミックス)

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 3年半も前の出来事をこのように詳細に記述できるのは、当時SNS上でネタにしたときの記録が残っていたから。
 実はこれこそが、私が昔から実践しているストレス軽減法なんです。
 このストレス軽減のための筋道を、前回紹介した「会話≒白ごはん」理論にし解説してみましょう。mrbachikorn.hatenablog.com
 
 「会話≒白ごはん」理論というのは、人生における楽しみの主食を「会話」と見なし、人生の他の要素を会話のためのおかず(ネタ)と捉えることで、美味しいごはん(会話)さえあればどんな些細な経験だろうと人生の楽しみに変換していけるという考え方です。
 この「会話≒白ごはん」理論は当人の自覚とは無関係に世間でも広く実践されており、例えば政治のような深刻なテーマですら、会話というアトラクションのネタとして頻繁に有効活用されています。mrbachikorn.hatenablog.com
 
 このように人生における出来事のすべてを会話のネタの候補だと捉えると、つらい経験や苦しい経験は辛味や苦味の強い食材のようなもの。
 辛味や苦味といった癖のある食材(経験)を、白ごはん(会話)に合う美味しいおかずに仕上げるには、人の舌に合わせるための何らかの工夫が必要になります。
 
 その工夫を怠って「このつらさ・苦しさを分かって」と自分への共感をねだるだけになってしまえば、ただ辛いだけ、ただ苦いだけのおかずを、話し相手に押し付けることになってしまいますから。
 これは美味しくないおかずを白ごはんで無理矢理かきこむような不快な体験ですから、相当の信頼関係があるか余程のお人好しでない限り、そんな「不味い飯」には何度も付き合ってもらえません。
 ですから、つらい体験や苦しい経験を多くの人に共感してもらいたいと思うのなら、どう話せば興味を持ってもらえるかという「話の旨味」をプロデュースする必要があるのです。
 
 そのように考える習慣ができていると、いざ自分が苦境に立たされている最中でも「このしんどさはどのように話せば人に共感されやすいだろうか」という具合に「後の楽しみ」に想いを馳せられるようになります。
 そうすると、今味わっている痛みや理不尽さなどが極端であればあるほど、その素材を「話のネタ」として料理するのが楽しみで仕方なくなります。
 こうしてつらさや苦しみと同時に楽しさを味わうことで、自分の気分を絶望一色に染め切らなくて済むようになります。
 
 尿管結石の痛みで苦しんでいるときも、「後でどうしゃべってやろうか」「どんな文章にまとめてやろうか」と考えることで、前向きな覇気を引きずり出すことができました。
 インターネットにはとても書けないような深刻な事態に見舞われたときでさえ、いつか信頼できる人だけに話せるときのことを念頭に置きながら奮闘することができました。
 
 「苦しい中でも『苦境をネタに昇華する』ことを常に考えておく」というこのやり方は、その苦しい真っ只中のストレスの強度を少しだけ緩和する効果があったように思います。
 このストレス軽減法、興味があれば是非とも試してみてください。
 それでストレスが消え去ることはありませんが、少しはマシになるかもしれませんよ。
 
  
※当ブログの主なテーマは、この世界を支配する「正しさ」という言葉のプロレスとの付き合い方mrbachikorn.hatenablog.com

※そのプロレス的世界観を支えている「記述信仰」の実態を、簡単な図にしてまとめています。mrbachikorn.hatenablog.com

基本は会話と白ごはん

 幸せのために最優先で取り組むべき課題は「楽しみ」を生み出すことであり、人生におけるその他の要素は2番手以降の雑事に過ぎない。
 そして世の中の全ての不幸は、その優先順位の取り違えから生まれる。 mrbachikorn.hatenablog.com
 
 そう考えて「楽しみ」以外の価値を優先させたがる周囲の雑音は蹴散らしながら生きようと決めたのは大学の学部生~院生だったころ。
 当時私は社会人・大学生・高校生らが引率として中学生・小学生のグループを盛り立てていく地域のレクレーション活動に参加しており、そこで知り合った仲間たちとキャンプなどを頻繁に楽しんでいました。
 ですが、組織の合併によって思想がかった人に運営の主導権を握られてしまい、楽しかった自分たちの活動が「こうあるべき」という気持ち悪い啓蒙思想に汚されていくのが我慢ならなくて抵抗したり独立したりしていたときから冒頭の言葉のように強く感じ始めたのでした。
 
 そんな人生を充実させる「楽しみ」の中でも、私が「もっとも基本的で重要な娯楽」だと考えているのが会話です。
 そこで今回は、私が長年提唱している「会話≒白ごはん」理論を紹介させていただきます。
 
 日本人の食文化として特徴的なのが、おかずと一緒に米を食べるということ。
 「ごはんがすすむ」のフレーズが美味しい料理の誉め言葉として成立しているのも、この特殊な食文化があるからです。

しろめしの友

しろめしの友

 
 そして、娯楽として見たときの会話の地位は、日本食における白ごはんの地位とほぼ同じだというのが私の主張です。
 映画などの観劇、テーマパーク、アウトドアなどその他の娯楽は皆、会話というもっとも基本的な娯楽をバラエティ豊かに彩る絶好のおかずになります。
 また、ごはん自体が美味しければ漬物やふりかけなどちょっとしたごはんのお供でもご馳走になるように、心地よい会話ができる相手とであれば日々の些細な出来事すらも素敵な娯楽へと昇華することができます。
 
 こうした、会話を主食の「白ごはん」とみなし、その他の要素を「おかず」とみなす捉え方を、私は恋愛や結婚の場面でも活用することができました。
 一般に恋愛の主目的とされがちな「惚れた晴れたのドキドキ」などは、喩えて言うならば「肉料理」のようなもの。
 これまでのつたない恋愛経験から学習してきたのは、情熱という「肉料理」の分かりやすい味の濃さだけに囚われて、日々の会話という「ごはん」の味わいを疎かにしてしまえば、恋愛は失敗してしまうということです。
 
 20代の頃から「おじいさんになったときに仲良くやっていけるおばあさんと出会いたい」と考えていた私にとっては、いずれは薄れる情熱という「脂っこい肉料理」の派手な旨みよりも、一生味わっていける会話という「ごはん」の穏やかな旨みの方がはるかに重要でした。
 ですから、一時的な「肉の美味しさ」に溺れて夢中になったがゆえに不味い「ごはん」を無意識のうちに我慢してしまうような、そんな愚かな真似だけは絶対に避けようと常に意識してきたのです。mrbachikorn.hatenablog.com
 
 そして今では、一緒にいて居心地のいい相手と結婚することができ、なんでもない日々の会話をしみじみと噛み締めています。
 そのおかげで、身の回りで起こるどんな出来事も絶好のおかずになるので、ごはん(会話)がすすむ幸せな毎日を送ることができています。
 
 世の中にはお米(なんでもない会話)が嫌いな人も肉(恋愛特有のドキドキ)ばかりいつまでも食べていられる人もいますから、今回紹介した「会話≒白ごはん」理論が全く当てはまらない人ももちろんいると思います。
 私としては、好みの合う方だけにでも何かの参考にしてもらえれば幸いです。
 
  
※当ブログの主なテーマは、この世界を支配する「正しさ」という言葉のプロレスとの付き合い方mrbachikorn.hatenablog.com

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力こそがすべて

 和太鼓にも人生にも共通する私のモットーは「気持ち良ければそれでいい」「楽しければそれでいい」「それ以外の雑音はほっとけばいい」というもの。mrbachikorn.hatenablog.com
 世の中には「楽しいだけじゃ駄目でしょ」「気持ちよければいいなんて動物と一緒じゃないか」なんて圧力がいたるところに潜んでいるので、そんな圧力に負けずに「それだけでいいに決まってる」という姿勢を貫くには、ある種の強さが必要になります。
 私はこの姿勢を「この世は力こそがすべて」と解釈することで手に入れました。
 
 自分の中での「こうあらねばならない」とか「こうあってはならない」といった基準は、他者から自分に向けての「こうして欲しい」「これこれはやめて欲しい」というリクエストの圧力が、己の自然な欲求を抑えつけるときに生まれるもの。
 つまり、「駄目だ」とか「ねばならない」といった基準はその場その場の力関係によって変わっていく相対的なものでしかなく、力に左右されない絶対的な基準などこの世には一つもないということです。
 「そうであるならば他者からの圧力に負けて振り回されているのは馬鹿らしい」という判断から、「楽しさや気持ちよさ以外の基準を雑音としてほっとけるだけの強さを持てばいい」という今現在の態度が決まりました。mrbachikorn.hatenablog.com
 
 とは言え、ここで大前提とした「力こそがすべて」という主張には、「力に左右されない価値だってあるはずだ」という反感が予想できます。
 それは、単に「力」とだけ言うと、暴力・武力・権力といった非難されやすい力の概念の方を連想してしまう人が多いからでしょう。
  
 「力こそがすべて」という言い方には、多くの人を惹き付けるだけの魅力や、納得させるだけの説得力が足りていないわけです。
 しかし、よく考えれば魅力も説得力も数ある「力」のうちの一つなんですから、「魅力や説得力が足りないから受け入れられない」というこの事態そのものが、最終的には「力こそがすべて」であることを裏付けています。mrbachikorn.hatenablog.com
 
 浮わついた現実逃避のようにも聞こえる「気持ち良ければそれでいい」「楽しければそれでいい」「その他の雑音はほっとけばいい」という信念は、私にとっては「力こそがすべて」という大前提から導き出したドライな結論でしかありません。
 世の「こうでなければならない」とか「こうあってはならない」という雑音は、現実に力を持って私たちの行動を邪魔することがありますから、その雑音の「力」を完全に無視してしまうことはできないでしょう。
 ですが、それはあくまで「力に邪魔された」というだけのことですから、自分自身の内面の問題としては本気で「こうでなければならない」「こうあってはならない」と真に受けたりせずにほっといたらいいのです。
 
 巷に溢れる浮わついた現実逃避としての「楽しければそれでいい」にはこうした「力」の観点や「力」と向き合う覚悟が欠けていますから、「楽しいだけじゃ駄目」と言いたがる勢力の実際の圧力に相対したときに潰される場合が多々あります。mrbachikorn.hatenablog.com
 そして覚悟もなく潰された元現実逃避組たちが、薄っぺらい失敗の体験を元に「楽しいだけじゃ駄目だ」と説教する勢力に加わっていくこともあるわけです。
 
 ブログ「間違ってもいいから思いっきり」の目的は、「気持ち良ければそれでいい」「楽しければそれでいい」と感じている人たちにとっての「力」となること。
 「ねばならない」というマウンティングの力学を種明かしして説教そのものの圧力を削いだり、身に降りかかる洗脳や煽動への抵抗力を上げていくきっかけになれればと思って毎週記事を書いています。
 とは言え私はまだまだ力不足ですから、記事の魅力や説得力を上げるにはどんな工夫ができるかと試行錯誤しながら、これからも自分のペースで楽しんでいくつもりです。
 
  
※当ブログの主なテーマは、この世界を支配する「正しさ」という言葉のプロレスとの付き合い方mrbachikorn.hatenablog.com

※そのプロレス的世界観を支えている「記述信仰」の実態を、簡単な図にしてまとめています。mrbachikorn.hatenablog.com

楽しけりゃいいんだよ

真面目なふりして
つまらないことで
悩んだふりする
たまにゃおもしろい
 
なんだかんだ気分次第
自由になら一秒でなれる
 
夏の朝にキャッチボールを
寝ぼけたままナチュラルハイで
幸せになるのには別に誰の許可もいらないyoutube.com
 
 これはザ・ハイロウズの『夏の朝にキャッチボールを』という曲の歌詞。

flip flop

flip flop

 
 この曲を聴いた二十代前半のころ、私が考えていたのは以下のようなことでした。
 
幸せのために最優先で取り組むべき課題は「楽しみ」を生み出すことであり、人生におけるその他の要素は2番手以降の雑事に過ぎない。
そして世の中の全ての不幸は、その優先順位の取り違えから生まれる。 mrbachikorn.hatenablog.com
 
 そんな当時の考えをズバリ代弁してくれるような心地よさがこの歌にはありました。
 私がしびれたのは、引用した中でも特に最初の四行。
 
真面目なふりして
つまらないことで
悩んだふりする
たまにゃおもしろい
 
 私はこの歌詞を「真面目ぶって悩むというのは人生を充実させるためのオプションとして本人が敢えて選んでいる自作自演の営みに過ぎない」という風に受け止めました。mrbachikorn.hatenablog.com
 また、ボーカルの甲本ヒロトは別の機会にこんな発言もしています。
 
悩むことは当たり前だしそれこそがダイナミズムだと思うんだよ。
それを楽しめないともったいないよ。
がっかりするときは思いっきりがっかりしたり、失望したり切望したり恋が叶ってもいいし失恋してもいいし、その瞬間をしっかりつかまえて心臓が張り裂けるようなダイナミズムを味わうってことがもっとも贅沢な生き方じゃん。
 
 悩みをまるで「人生のアトラクション」のように積極的にとらえるヒロトはまた、「なんだか僕は地球というテーマパークに生まれたような気持ちがするよ。パスポートを持って」とも語っています。
 これらの発言は「悩みは楽しむための材料に過ぎない」「悩み<<<<<楽しみ」という優先順位が整理できている人にしか言えない類いのもの。
 
 こんな視点からとらえるならば、もし仮に本人が「真剣に思い詰めて悩んでいる」つもりであったとしても、よそから見れば「人生の充実のために真面目なふりしてつまらないことで悩んだふりをしているだけ」「自ら進んで悩みたくて悩んでいるだけ」などと解釈することができます。
 私がこの四行の詞に惚れ込んだのは、悩みと楽しみの優先順位を取り違えて「自ら編み出した不幸」を嘆きたがっている人たちへのクールな眼差しを、シンプルかつ絶妙に表現できていたからでした。
 
 このような発想の転換さえできていれば、今まさに自分が悩んでいる最中であっても「充実した人生の楽しみ」の一環なのだと理解できる。
 そして、人生を楽しむ心さえあれば「幸せな感じ」だって気分次第でいつでも手に入れることができる。
 そんな今すぐ入手可能な「幸せな感じ」の具体例の一つとして提示されたのが、夏の朝のキャッチボールだったのでしょう。
 
 真島昌利が作詞した「幸せになるのには別に誰の許可もいらない」というこの心境を、ヒロトは自分なりに「幸せを手に入れるんじゃない。幸せを感じることのできる心を手に入れるんじゃ」と表現しています。
 つまり、幸せかどうかは外部の状況によって仕方なく決められるものではなく、自分の受け取りかた次第で自在に決められるものだということです。mrbachikorn.hatenablog.com
 
 ヒロトの言う「幸せを感じることのできる心」とは「楽しけりゃいい」の精神だと言い換えることもできます。
 このことについてヒロトは何度か言及していますので、その一端を紹介してみましょう。
 
楽しいと思った瞬間がゴールなんだ。
楽しけりゃいいじゃんと思ってる人間が楽しいと思ったら、もうその先はないんだ。
 
楽しけりゃいいんだよってことしかずっと言ってないんだけど、これは本質を煙に巻くためでも何でもなく本当のことなんだ。
それが本質なんだ。
 
 「楽しさこそがゴールであり他のことは本質ではない」「その先に何があるかなんて雑念がこの本質を見失わせる」といった彼らの強烈な信念は、自分なりのやり方でものを考えて始めた大学時代の自分に「これでいいんだ」と背中を押してくれる頼もしい存在でした。
 私が今「気持ち良ければそれでいい」「楽しければそれでいい」「その他の雑音はほっとけばいい」という発信をブログでしているのも、彼らの痛快な活動に心底触発されていたから。mrbachikorn.hatenablog.com
 
 この地球というテーマパークには、私たちが楽しめるアトラクションがあちこちに転がっています。
 どうせなら自分なりのやり方で「楽しみ」をどんどん生み出していって、その一瞬一瞬をダイナミックに味わっていきたいですね。

  
※当ブログの主なテーマは、この世界を支配する「正しさ」という言葉のプロレスとの付き合い方mrbachikorn.hatenablog.com

※そのプロレス的世界観を支えている「記述信仰」の実態を、簡単な図にしてまとめています。mrbachikorn.hatenablog.com

気持ち良ければそれでいい

 和太鼓、数学、ブログ全てに共通している私の基本的なスタンスは、「気持ち良ければそれでいい」「楽しければそれでいい」「それ以外の雑音はほっとけばいい」といったもの。
mrbachikorn.hatenablog.com
 
 私が高校や大学での数学を通じて味わってきたのは、言葉ですっきりと説明できる気持ち良さ。
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 そして大学院時代に和太鼓を通じて味わったのは、全身で感じとるタイプの言語以前の気持ち良さ。
mrbachikorn.hatenablog.com
 現在私が数学と和太鼓を軸にして生きているのは、ただ単にそれらが私にとって「気持ちのいいもの」だからです。
 
 私が生きる上で一番大事にしているのは「私にとっての気持ち良さ」であり、他人がどれだけ違う価値観を押し付けてこようとも、それはあくまでもその人にとっての個人的な好みに過ぎないので、必要以上に真面目に取り合おうとは思いません。
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 自分の好みと他人の好みの優先順位を取り違えてしまうことが、全ての不幸の元凶である。
 そのように私は二十代中頃から考え続けてきましたので、意識的に「他人の好み」に合わせ過ぎない生き方を選択してきました。
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 その結果、非常勤講師として私立高校で受験数学を教えながら、関西や九州を拠点に和太鼓など民俗芸能関連の活動をするという現在のライフスタイルにたどり着きました。
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 そして「気持ち良ければそれでいい」「楽しければそれでいい」「それ以外の雑音はほっとけばいい」 という私なりの処世術をつづるこのブログも、私にとっての気持ちいいことの一環です。
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 世の中に「気持ち良ければそれでいい」とか「楽しければそれでいい」と思えない人が多くいるのは、「それ以上に大事なことがあるでしょ」という雑音があちこちに溢れているから。
 ですから、不特定多数の目に触れる可能性があるブログでは特に「そんな雑音はほっとけばいい」という部分を強調して伝えるようにしています。
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 ブログでの主張の核となっているのは、人間社会を動かしているのは煽動力だということ。
 私たち文明人が生きているこの世界は、これまでに行われてきた煽動の積み重ねで成り立っていると言えます。
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 「正しさ」というのはそうした煽動のために生まれた武器であり、煽動のためでない「真の正しさ」という次元は最初から存在していません。
 世の中では「それでも真の正しさは存在する」という主張が根強いですが、その主張も「真理」という名の「より強大な煽動兵器」でしかありません。
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 そして、こうした煽動への抵抗力が弱ければ、煽動力の高い勢力の思惑に流され続けて生きることになります。
 それこそが、自分の好みと他人の好みの優先順位を取り違えてしまうということです。
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 私は自分の好みに従って「気持ち良ければそれでいい」「楽しければそれでいい」という生き方を貫いていきます。
 「これこそが正しい生き方だからあなたもそうしなさい」とは私は言いませんが、敢えて自分にとって気持ち良くない生き方を選んで苦しそうにしている人を見ると「そこまで他人の好みを優先しなくても人は十分生きていけるんだよ」と声をかけてたくなっちゃいますね。
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岸見アドラー学の功績

宗教が力を持っていた時代であれば、まだ救いもあったでしょう。
神の教えこそが真理であり、世界であり、すべてだった。
その教えに従ってさえいれば、考えるべき課題も少なかった。
 
しかし宗教は力を失い、いまや神への信仰も形骸化しています。
頼れるものがなにもないまま、誰もが不安に打ち震え、猜疑心に凝り固まっている。
みんな自分のことだけを考えて生きている。
それが現代の社会というものです。
 
 これは、アドラー心理学の啓蒙活動を行っている哲学者岸見一郎とフリーライター古賀史健による共著『嫌われる勇気――自己啓発の源流「アドラー」の教え』に登場する青年の台詞です。
 この本は岸見一郎をモデルとした哲学者と、悩み多き青年との対話という形式で進んでいきます。
 「人は変われる、世界はシンプルである、誰もが幸福になれる」というアドラー心理学の教えに対して、青年が反論として述べたのが冒頭に引用した世界観です。

嫌われる勇気―――自己啓発の源流「アドラー」の教え

嫌われる勇気―――自己啓発の源流「アドラー」の教え

 
 青年が主張する「宗教が力を失ったせいで人々には従うべき確かな基準がなくなり『自分はこれで良いのか』という不安を拭えない人が救われにくくなった」という問題意識自体は特に珍しいものではありません。
 多くの人にとって「何をするかは己の責任で判断すべき」という自己責任の考え方は少々荷が重いもの。
 どんなに時代が変わっていっても、 占い、宗教、科学、スピリチュアル、自己啓発など、自分以上の権威に判断を委ねたいと願ってしまう人々の性分はそれほど変わっていません。 mrbachikorn.hatenablog.com
 
 たとえば、フロイトから精神分析を学び臨床の現場でカウンセリングに携わっていたユングも、現代の心の問題の多くは神話を持たないことによって生じる虚無感や孤独感が一因となっているという問題意識を持っていました。
 「人は何のために生きているのか」という理由を神話の中に見出だすことができた時代は自分の存在意義について思い悩むことは少なかったが、人々の支えとなる神話が単なる迷信として解体されてきた現代ではそうした確信を持つことが難しい。
 そんな問題意識から彼は西洋と東洋それぞれに伝わる神話や伝説などの言い伝えには洋の別に関係なく共通の要素を数多く発見できたことから、人類の心の奥深くには共通した「集合的無意識」が存在するという仮説を編み出します。
 
 「深い部分ではみんな繋がっている」という風に解釈できる集合的無意識の概念は、悩める人々を救うための「失われた神話」の代替物とも呼べるもの。
 ユングの心理学には「グレートマザー」「老賢者」「セルフ」といった神秘的な用語が多用されているためかオカルト的な救いを求めたがる人々には好評で、その分かりやすい方便はカウンセリングの場面でも効果的に機能しています。mrbachikorn.hatenablog.com
 
 心理学の父と呼ばれるフロイトは「オカルト的な要素を科学に持ち込むべきでない」と、ユングのこうした独自のやり方を否定していました 。
 フロイト自身は「心の問題の根本には必ず性的欲求(リビドー)が関係する」という仮説で無意識の構造を説明し、カウンセリングの場面で効果をあげていましたが、フロイトのこの理論自体も「性欲だけでは人の心理は説明できない」とか「無意識などという実証しようがない概念を科学に持ち込むべきでない」といった批判を受けています。mrbachikorn.hatenablog.com
 
 このように科学と臨床の2つの顔を持つ心理学では、「その理論は本当に正しいのか」という科学的な厳密さへのこだわりと「どうすれば人は救われるのか」という臨床の場面での効能を求める姿勢との間で食い違うことがしばしばあります。
 二人と同時代に活躍した心理学者のアドラーは、この三人の中でも「どうすれば人は救われるのか」という後者の視点にもっともこだわった人物と言えます。
 『嫌われる勇気』においてもアドラー心理学は「幸せになるための思想」として扱われており、それ自身が科学として厳密であるかどうかという前者の視点にはさほどこだわっていないようです。
 
 つまり、最近流行りの「アドラー心理学」は、科学的に発見された客観的な事実というよりは、人が救われるためにはどうすればいいかという問いに対するアドラーなりの個人的な処方箋だと言えるでしょう。
 まずは『嫌われる勇気』の目次から一部を抜粋して、彼の処方箋の概要を覗いてみたいと思います。
 
トラウマは、存在しない
人は怒りを捏造する
過去に支配されない生き方
あなたの不幸は、あなた自身が「選んだ」もの
なぜ自分のことが嫌いなのか
すべての悩みは「対人関係の悩み」である
劣等感は、主観的な思い込み
承認欲求を否定する
「あの人」の期待を満たすために生きてはいけない
「課題の分離」とは何か
対人関係のゴールは「共同体感覚」
なぜ「わたし」にしか関心がないのか
あなたは世界の中心ではない
より大きな共同体の声を聴け
叱ってはいけない、ほめてもいけない
ここに存在しているだけで、価値がある
自己肯定ではなく、自己受容
普通であることの勇気
無意味な人生に「意味」を与えよ
 
 これらの目次を見ても分かるように、アドラー心理学には特別な専門用語がほとんど使われておらず、常識的な範囲の平易な言葉がふんだんに使われています。
 その言葉遣いの分かりやすさのおかげなのか、デール・カーネギー著の『人を動かす』、スティーブ・コヴィー著の『7つの習慣』、リチャード・カールソン著の『小さなことにくよくよするな』など、アドラー思想の要素を採り入れた著書は世界的なヒットとなり、今日に至る自己啓発ブームの礎を築きました。
 
 ギリシャ哲学を専門としていた岸見一郎は、初めてアドラー心理学と出会ったとき、それがギリシャ哲学をルーツとする思想であることに気付き、その幸福論の洞察の深さに感銘を受けて、ギリシャ哲学と平行してアドラー心理学を学ぶことになります。
 アドラー心理学に使われているギリシャ哲学とは、その前提となっている認知論(人は客観的な世界ではなく自分が意味付けした主観的な世界に生きている)や、「どこから」という原因ではなく「どこへ」という目的を問う目的論など。
 
 アドラーに拠れば、トラウマなど過去の経験に現在の症状の原因を見出だすフロイト流の精神分析は、「あらゆる結果の前には原因がある」とする原因論や「現在・未来の私は過去の出来事によって決定済み」とする決定論に繋がるもの。
 そのように原因論や決定論に囚われている限り、現在の症状は過去の経験から生まれる必然としてしか意味付けされず、前に進むための原動力にはならないというのが、フロイトのトラウマ理論に対するアドラーの異議申し立てでした。
 目的論を採るアドラーにとっての心理的症状とは、過去の経験から導き出される仕方のない結果ではなく、己の目的を叶えるために使用される手段でしかなかったのです。mrbachikorn.hatenablog.com
 
 そういった哲学的な観点からアドラー心理学の目的論を支持していた岸見一郎にとって、原因論への囚われや他人を操作したがる欲求を捨てきれない「形だけのアドラー心理学」がアドラー研究者の間で蔓延している状況や、フロイトユングの陰に隠れてアドラーの功績がほとんど知られていないという日本国内での知名度の低さなどがもどかしかったのでしょう。
 彼は1996年からアドラーの著作の翻訳書を出し始め、1999年からは自分でもアドラー心理学に関する入門書を次々と出していくことで、啓蒙活動を精力的に行っていきます。
 
 そして2013年に古賀史健と共に出版した『嫌われる勇気』がベストセラーになったことで、日本でもようやくアドラーの名前が一般にまで浸透し始めました。
 「心理学の三大巨頭」「自己啓発の源流」といった謳い文句とも相まって、ブームに乗ったアドラー関連の書物が次々と出版されるようになっています。
 
 このブームに乗ってアドラー心理学に手を出す人のうち、どれだけの人が認知論や目的論など岸見一郎の重視する哲学的な観点を理解するかは分かりません。
 薄っぺらな理解で「使えない」と放り出して次の人生指南を求める人や、「今のトレンドはアドラー」とばかりにビジネスライクにつまみ食いするだけの人には、どうでもいい面倒な話として流されていくでしょう。
 
 しかし、中には本当に哲学的な観点から幸せというものを見つめ直して、これ以上他の人生指南に手を出す必要がなくなる人も出てくるはずです。
 ビジネスにおける箔付けや民衆の扇動のためにいい加減に利用されることの多い心理学の世界ですが、どうせなら「それだけじゃないんだよ」と語る専門家の声にしっかりと耳を傾けていきたいものですね。mrbachikorn.hatenablog.com
 
  
※当ブログの主なテーマは、この世界を支配する「正しさ」という言葉のプロレスとの付き合い方mrbachikorn.hatenablog.com

※そのプロレス的世界観を支えている「記述信仰」の実態を、簡単な図にしてまとめています。mrbachikorn.hatenablog.com

役に立つならええじゃないか

 「科学の目的は予測と制御であり真理の探究ではない」というのが構造主義者である高田明典の持論です。
 これはつまり、 神のような立場でなければ「なぜ世の中がこうなっているのか」に関する究極の理由なんて知りようがないのだから、神の立場にない私たち人間は「どうすればこの世の中に上手く対応できるのか」に関する実際的な知恵を磨くしかないという、WHYからHOWへの潔いシフトチェンジです。mrbachikorn.hatenablog.com
 
 彼の問題意識は、構造主義におけるこうしたシフトチェンジの妥当性が、WHYばかりにこだわる「うぶな人々」には上手く伝わっていないということ。
 彼はそんな「うぶな人々」にも構造主義の妥当性を伝えるため、『構造主義がよ〜くわかる本』という著書でこう解説しています。

 
私たちの意識の外の世界に「何らかの実体」「実体物」が存在するという考え方を「実体論」と呼びます。
構造主義は、この「実体論」を採用しないという点で、思考の方法における画期的な一歩を踏み出したと言えます。
 
私たちは、「本当に正しいこと」「絶対的・普遍的な真理」に到達することはできませんし、そもそもそのようなものを求めてはいません。
私たちが求めているのは、ある状態を、別の(好ましい)状態に変化させるための効率的な方法であり、また、ある状態がどのような状態に変化していくのかを予測する効率的な方法であるはずです。
端的に言うならば、この二つの目的以外のものを標榜するものは、科学ではありませんし、科学にはそれ以上のことはできません。
 
 HOWにこだわるこの構造主義の確立に影響を及ぼした人物の一人が、心理学の父と呼ばれるフロイトです。
 フロイトの「人間には自覚できない無意識の領域がある」という発信は様々なジャンルの学問に影響を及ぼしており、無意識という言葉はもはや一般常識レベルにまで浸透しています。
 
 ですが、現代の心理学者の中には、こうして知れ渡るようになったフロイトらの業績が、まるで占いや宗教のように神秘的なシンボルとして扱われていると危惧する人々も大勢います。mrbachikorn.hatenablog.com
 心理学者の植木理恵はその著書『本当にわかる心理学』の中で、心理学の扱いに関する現状への違和感をこう表現しています。
フシギなくらい見えてくる! 本当にわかる心理学

フシギなくらい見えてくる! 本当にわかる心理学

 
「抑圧された深層心理」は、他者の目には見えない(なぜなら「深層」なのだから)。
無意識も絶対に観測できない(なぜなら「無」意識なのだから)。
 
したがって、それらのものが本当にあるのかないのかも、科学的にはいまだに謎に包まれたままである。
そしてこれから先も、フロイトたちが提唱してきたさまざまな概念の「実存的な有無」を検証することは、理論上不可能だろう。
 
にもかかわらず、彼らの考え方は150年もの間、世界中の人々から熱心に支持され、研究者のみならず志井の人々の心をもとらえ続けている。
私の観察では、特に女性はこれに心酔する傾向にある。
 
「あなたは、無意識に潜むエゴに苦しめられている」……分析医がそう、厳かに告げれば、多くの女性は(はたから見ていて「エッ?」と思うくらい)、納得し涙する。
不思議である。
 
しかし、私はそういう不確かなことを、真実のように騙ることができないでいる。
心理学の真の意味が誤解されていくのには、もう耐えられないのだ。
 
 彼女のように「無意識を語ること」を避ける態度は、行動主義、認知主義と呼ばれる分野ではむしろ当然のこと。
 ただ、高田明典に言わせれば、無意識とは「実体物」ではなく「説明のための方便」です。
 この両者の違いは「無意識という実体物が存在するかしないか」という根の深い対立ではなく、ただ単に「無意識という方便を積極的に活用したいかどうか」という好みの差に過ぎません。
 
 たとえそれが実体として存在しようがしまいが、方便として役に立つなら遠慮なく語ればいい。
 そのように説く彼は、『構造主義がよ〜くわかる本』の中でも、フロイトの提唱した仮説を以下のように擁護しています。
 
誰もが「心」という単語を知っていますし、それを適切に使用できると感じています。
しかし、いったい心とは何なのかと問われると、答えに困る場合が多いでしょう。
 
「心」とは、構成概念です。
構成概念とは、そのような概念によって物事をうまく説明できて、予測や制御を効果的に行うことができるようになるという理由から「仮に置かれるもの」です。
誤解をおそれずに断じてしまうならば、「〈心〉などというものは、どこにも存在しない」と言うことができます。
 
「無意識」も「心」と同様に構成概念です。
フロイトは、問題行動のある人間の行動を予測し制御することを考える過程で、「意識」されない何らかの要素(つまり「意識」の対立概念)を置くと、うまく説明できると考えました。
 
このフロイトの提唱した「構造」が他の分野に大きな影響与えたのは、多くの分野においてそれまで説明できなかったことを説明しえたということによります。
「説明しえた」というのは、予測もしくは制御の可能性が高かったということです。
 
構造主義は、「有用であること」「予測と制御を行うこと」を求めているのであり、少々汚くても「役に立つ」ことを目指しているというわけです。
その意味で、フロイトが提唱した構造は、画期的であったと考えられます。
批判を恐れずに言えば、心理学に類される研究でフロイトの無意識心理学ほど「役に立った」ものは他には皆無です。
 
 これは「大事なのは真理ではなく役に立つかどうかだ」とする高田明典なりの潔い割り切りの表明です。
 さらに思想家の内田樹は、その著書『寝ながら学べる構造主義』の中で、フロイトの行った精神分析の効用とその目的を以下のようにより具体的に綴っています。
寝ながら学べる構造主義 (文春新書)

寝ながら学べる構造主義 (文春新書)

 
精神分析の治療は、ご存じのとおり、被分析者が、分析家に対して、自分自身の心の中を語る、という仕方で進行します。
あらゆる「自分についての物語」がそうであるように、被分析者の語りは、断片的な真実を含んではいますが、本質的には「作り話」に他なりません。
フロイトによれば、精神分析治療は、患者が無意識的に抑圧している心的過程を意識化させることで、症状を消失させることをめざしています。
 
「無意識的なものを意識的なものに移す」というのは、決して「抑圧されていた記憶を甦らせて、真実を明らかにする」ということを意味するのではありません。
病因となっている葛藤が解決されるなら、極端な話、何を思い出そうと構わないのです。
精神分析の使命は、「真相の究明」ではなく、「症候の寛解」だからです。
 
フロイトのヒステリー患者たちが語った過去の性的トラウマのいくぶんかは偽りの記憶でした。
しかし、「偽りの記憶」を思い出すことで症状が消滅すれば、分析は成功なのです。
 
 これは普段から「正しい情報を提供することが人間の世の中を少しでも住みよくする努力に水を差すことになるならば正しい情報なんか豚に食わせろ」と発信している内田樹らしい割り切り方。mrbachikorn.hatenablog.com
 症状に悩んで相談しにくる被分析者にとって大事なのは症状の改善であって、「本当は何が原因なのか」という真相の究明ではありません。
 もし分析家が「たとえ症状が改善してもその記憶が偽りならば許せない」とこだわる真実バカならば、そんな相手に相談したいという人がどれだけいるでしょうか。
 
 確かに「人間の心には自覚できない無意識の領域がある」というのは科学的に実証された事実ではありません。
 ですが、この考え方を方便として取り入れることで改善した症状は数多くありましたし、他の分野の学問にも大きく貢献しました。
 その意味では、それが実在するかしないかに関わらず、無意識というアイデアはすでにこの現代社会で重要な役割を果たしていると言えるのです。
 
  
※当ブログの主なテーマは、この世界を支配する「正しさ」という言葉のプロレスとの付き合い方mrbachikorn.hatenablog.com

※そのプロレス的世界観を支えている「記述信仰」の実態を、簡単な図にしてまとめています。mrbachikorn.hatenablog.com

真理の探究では世界を救えない

キリストでもシャカでもマルクスでも悪魔くんでもみな同じことだ
それぞれ方法はちがっているが根本にある考えはおなじなんだ
 
世界がひとつになり貧乏人や不幸のない世界をつくることは……
おそかれはやかれだれかが手をつけなければならない人類の宿題ではないのか………
 
悪魔くんはそれをやろうとしたのだ
きみはその人を売ってしまったのだ!
現実に金になるというだけで……
 
 これは水木しげるの漫画『悪魔くん千年王国』の中の一コマです。
 この作品は、国境で区切られて争いだらけのこの地球上に革命を起こし、貧富の差も戦争もない人類がみな平等の千年王国を建設しようと十二使徒とともに戦う異能の天才少年の物語。
 冒頭に紹介した台詞は、革命のリーダーである悪魔くんを現体制側に3000万円で引き渡した第三使徒に向けて、第一使徒が発したものです。

悪魔くん千年王国 (ちくま文庫)

悪魔くん千年王国 (ちくま文庫)

 
 ここで挙げられている「貧乏人や不幸のない世界をつくること」というのは、本来は人文・社会科学にとっての宿題のはずだと主張しているのが、構造主義者の高田明典です。
 彼は1997年に著した『知った気でいるあなたのための構造主義方法論入門』の中で、科学者たちが本来取り組むべき宿題を放置してどうでもいい仕事しかやれていないのは、そもそもの研究手法を選び損ねているからだと指摘しています。
知った気でいるあなたのための構造主義方法論入門

知った気でいるあなたのための構造主義方法論入門

 
 このボタンのかけ違えは、科学の中でももっとも信頼度が高いとされる自然科学の研究手法を、人文・社会科学の分野にもむやみに取り入れようとしたこと。
 科学的エビデンス(根拠)にこだわって実験を重ね数値的に統計をとって解明しようとする自然科学の手法を「切れ味の良い剃刀」に喩える彼は、人文・社会科学の壮大な課題を解決するのに必要な研究手法はそんなみみっちいものではなく、構造主義のように大胆かつパワフルな手法なんだと次のようにプレゼンしています。
 
物理科学に代表される自然科学は、その手法の確立という観点からするとほとんど完成の域に達していると考えられているようです(もちろん異論もあります)。
しかしながら自然科学的分野に比べて人文科学・社会科学的分野での「研究手法」に関しては、もちろんそれぞれの分野の内部での整合性や妥当性はつねに吟味の対象となっており相当の段階に達しているものもあるのでしょうが、まだまだ「確立」といえるレベルではないことは明らかです。
 
私たちは現代でも様々な問題に直面しています。
それらの問題を解決する上では、できるだけ有効な「道具」を用いる必要があります。
 
紙を切るには良い「鋏」が、材木を切るには良い「鋸」が、それぞれ別々に必要になるのと同じです。
どんなに切れる「鋸」であっても、それで紙を切ることはできません。
 
物理学や経済学には「数学」という強力な道具がありますが、その他の人文社会科学の分野では計量的な「数学」という道具に馴染まない問題が多々あります。
剃刀は確かに鋭利な刃物ですが、巨木を切るのには適していません。
巨木を切るには「斧」が必要なのですが、人文社会科学にはそのような斧が用意されていませんでした。
 
数学という「剃刀」を使って木を切り始めてみたものの、「やっぱり切れないや!」「いや、ちょっと切れたよ!」などという不毛な議論を繰り返してきた分野もたくさんあります。
また「そんなトコを剃刀で切ろうとしてもダメだよ!ほら、こっちこっち。ここが切れやすいから、ここを切ろう」などと言いつつ、枝の先っぽばかり切ることに熱心になってしまった人文系の分野もあります(数理心理学などがその代表例です)。
 
「数的処理が可能な問題」のみを扱うというのも確かに潔い姿勢でしょうが、それが「問題の解決」からは程遠いところにあるというのは明らかでしょう。
私たちは道具によって問題を選択するのではなく、解決しようとしている問題に適した道具を使いたいのです。
数的処理が可能である「実験」を考えるという事態は、まさしくその罠に陥っていることを表しています。
 
構造論的手法こそが、ここでいう「斧」にあたるものです。
斧では「薄い紙」を正確に切り取ることは難しいのですが、木を切り倒すことならできます。
ですから、「正確にこの紙を切り取れないような、そんな斧は無意味だよ……」という批判のほうが「無意味」なのです。
 
構造主義には、「斧」がもっているような「概念の曖昧さ」や少々悪くいうと「ズサンさ」があることを否定はしません。
しかし斧には斧でしかできないことがあるように、構造主義にも得意とする適応分野が存在します。
そのような分野を対象として、構造主義がいかなる問題を扱うのかについて考えていくことにしましょう。
 
20世紀末の現在、この世界には「問題」が溢れています。
「科学は進歩した、もしくは、進歩しつつある」「科学の進歩は日進月歩だ」などという言い方は、「科学」を「科学技術」と言い換えることによってのみ、ギリギリの妥当性を保ちます。
進歩した科学を具備している社会が現在の地球であるなら、この現状のていたらくぶりの原因は何でしょうか。
 
経済学は南北問題を解決できず、社会学は差別問題の現状を事実上放置したままです(もちろんそれらは明らかに「社会科学」の一分野です)。
政治学者が選挙予想学者もしくは政局解説者であり、心理学者が性格占師や不出来な相談相手としてしか社会的に認知されていない現状で、どの「科学」が進歩していると胸を張って言えるのでしょうか。
現実問題として、ほとんどすべての「科学者(と言えるかどうかは別としても、そう『呼ばれている』人たち)」は、ごく基本的な問題の解決に対してさえ全く無力な状態です。
 
彼ら無力な「科学者」たちは、うまいいいわけを思いつきました。
「科学の目的は問題の解決ではない」といういいわけです。
 
これは同情に値する事態です。
仕方がないのです。
問題を解決するための道具が与えられていない以上、解決できるはずもありません。
 
巨木を前にして素手で立っている科学者は、「こんな木、切れるわけないだろ!」と言い出したというわけです。
だから「木を切ることが私たちの目的ではない!」と言いたくなる気持ちはわかります。
だって、できないんですから。
 
しかし、彼らがそう宣言したとしても、切らなくてはならない木が消えてなくなるわけではありません。
20世紀末だというのに、地球の多くの地域には(驚くべきことに、まだ)飢えが存在しています。
差別も広範囲かつ多種に存在します。
貧富の格差、犯罪発生率の上昇、政治に対する不信、その帰結としての生活不安、若年層の低能化、家庭の崩壊……これら全部を「科学」が解決しなくてはならないというわけではないでしょうが、少なくとも「人文・社会科学」の喉もとにつきつけられている問題であることは当然です。
 
 貧富の格差を解消できない経済学。
 差別問題を解消できない社会学
 政治への不信を解消できない政治学。
 心理的不安を解消できない心理学。
 
 このように高田明典が人文・社会科学の無力を自信満々にあげつらうことができるのは、構造主義には先駆者レヴィ=ストロースらによる巨大な実績があるから。
 その実績とは、西欧的な価値観に支配されきっていた20世紀前半の国際社会に、西欧産である近代合理主義への盲信を反省させて世の風潮を変えたことです。mrbachikorn.hatenablog.com
 
 レヴィ=ストロースによると「普遍的な真理を解明するためのもの」という伝統的な科学観は西欧独特のただの偏見。
 私たちが「真実の見極め」だと考えている諸々の事象はただ単に「造り上げられた制度」でしかなく、どの文化圏も自らが造り上げた制度の下で「真実の見極め」をしたつもりにさせられているだけであり、近年うるさく言われている「科学的なエビデンス」もそうして造り上げられた西欧的な制度の一部に過ぎません。
 そして、科学や思想というのは「私たちにとっての世界」を形造っていくためのツールの一部に過ぎないんだから、道具としての利便性や弊害をその都度確かめながら試行錯誤を繰り返していこうとする、真実への信仰を重視しない現実的な制度設計の考え方こそが構造主義の真骨頂です。 mrbachikorn.hatenablog.com
 
 高田明典の問題意識は「真理の探究にかまけて『実在するかどうか』なんて問題に無駄にこだわっていては、いつまで経っても科学はこの世の問題を解決できない」ということ。
 その意味で「実在するかわからないものを語ったり、測定できないものについて論じたりするべきでない」といった世の科学者のこだわりは大きく的を外しているし、その無駄な力みのせいで人文・社会科学は大した成果をあげられていないのだと断じます。
 
 彼は、実在するかわからないものや測定できないものに名前をつけて論じることは、説明概念・構成概念として役に立つとその効能を評価しています。
 そして、構成概念でしかないはずの「心」や「無意識」を実在物として真に受けて扱ってしまう素人の姿勢や、逆に「実在するかどうか」「測定できるかどうか」にこだわり過ぎて構成概念としての有用性を評価できない頭でっかちな科学者の姿勢を、両方まとめて以下のようにばっさりと批判しています。
  
それぞれの分野にいる研究者は構成概念として様々なものを考え出します。
たとえば「欲望」とか「心」といったものも構成概念です。
それらの実在は問題にならないどころか、それらの「痕跡」さえも観察することはできません。
 
巷では「本当の私の心」とか「心って何?」とかいう問いが溢れているようですが、何のことやらさっぱりわけがわかりません。
「欲望」は、人間の行動の前段階にある過程として説明のためにおいた「説明概念」でしかなく、その実在を証明することなど不可能です。
 
「無意識」「意識」「知識」「記憶」などといった概念もすべて同じです。
「記憶」を直接観察することはできず、観察できるのはたとえば「一定時間をおいた後で、先ほど覚えさせた文字列を書かせた」ときの正解数です。
そして、この「正解数」という観察可能な対象を説明するために「記憶」という説明概念をおいたということにほかなりません。
 
位置エネルギー」「加速度」などといった物理で用いられる概念も多くは説明概念です。
位置エネルギー」を直接観測することが不可能であることは当然ですが、「そんなものは存在しない」と言い出す人も皆無です。
実在は、もとから問題ではないからです。
 
位置エネルギーを用いることによって、多くの力学的現象は単純な形式で記述されるようになりました。
それこそが、この「構成概念・説明概念」を導入したことの最大のメリットです。
 
話を心理学に持ってくるならば、これらの考え方はあまりにも軽視されていると思われます。
「心」や「無意識」が構成概念であることは当然なのですが、それらをあたかも「実在物」のように扱う人が(何と研究者の中にも)多いのは不幸といわざるを得ません。
ま、少々下品な言葉づかいになりますが「バッカじゃないの?」ということになります。
 
実際には、この種のバカは大学にも溢れているようです。
そんなことを考える機会がなく、のうのうと学部大学院を過ごしてしまった能天気な「ニセ心理学者」が増えているのが実情でしょう。
科学哲学・科学思想史・科学基礎論といった講義は学部でも配当されていますが、必修ではないところが多いようですし、たとえそれらの講義を取ったとしても当の担当教員が「無知」である場合があるので、仕方がないことかもしれません。
 
位置エネルギー」という構成概念が有用であるのは、きわめて合理的かつ功利的な理由によるものであり「真理」などと呼べるものの登場する余地はありません。
同様に「欲望」という構成概念が有用であるのも、きわめて合理的な理由によるものです。
行動の前段階に「ある種の欲望」が存在するとして、行動の関係式を記述するために必要となるものです。
 
私は「心は存在しない」とは言いませんし「無意識は存在しない」とも言いません。
それは「位置エネルギーは存在しない」と言う物理学者がいないのと同じです。
しかしそれが「構成概念」であることをはっきりと知っています。
 
私は一般書においては「人間の心というものは~」という言い方をしますが、それは方便でしかありません。
しかしそれをプロやプロ予備軍が読んで「ふむふむそうか」などと思うのであれば、それは問題です。
 
 彼も散々繰り返しているように、私たち自身の世界への解釈はほぼすべて、言葉から成る方便によって築かれています。
 そして、便利に活用するために造ったはずの方便をいろいろと真に受け、逆に振り回されてしまうのが私たち文明人の性と言えます。mrbachikorn.hatenablog.com
 
 キリストもシャカもマルクスも宗教も科学も構造主義も、世界の解釈(構成概念・説明概念)を与えることによって人々の行く末を左右するという点では本質的に何も変わりません。
 こうした方便としての作用こそが言葉の本質だということを、私たち人類はそろそろ常識として登録してしまっても良いのではないでしょうか。mrbachikorn.hatenablog.com
 
 
※当ブログの主なテーマは、この世界を支配する「正しさ」という言葉のプロレスとの付き合い方。mrbachikorn.hatenablog.com 
「正しさ」というゲームの最大の欠陥は、何を「正しい」とし何を「間違ってる」とするのかというルールや、その管理者たるレフェリーが、実際にはどこにも存在しないということ。
人類はこれまで数え切れないほどの論争を繰り広げてきましたが、それらのほとんどは「レフェリーの代弁者」という場を仕切る権限をめぐっての権力闘争でした。
 
「レフェリーの代弁者」という立場は、自分の個人的な要求でしかない主張を、まるでこの世の既成事実のように見せかけるための隠れ蓑です。
「それは正しい」とか「それは間違ってる」という言い方で裁きたがる人たちは、私はこの世のレフェリーの代弁をしているだけなんだという迫真の演技で己の発言の圧力を高めていたのです。
 
演技の迫力とは、演技者が役にどれだけ入り込めるかで決まるもの。
人々はいつしかレフェリーの代弁者のふりが説得のための演技であったことを忘れ、「どこかに本当の正しさがあるはず」といった物語を本気で信じこんでしまいます。
こうして人類の間には、「正しさ」という架空のレフェリーの存在をガチだと捉えてしまう、大がかりなプロレス社会が成立していきました。

そのプロレス的世界観を支えている固定観念の源を「記述信仰」と名付けました。
以下の記事では、この「記述信仰」の実態を上のような簡単な図まとめて解説していますので、ぜひご一読ください。mrbachikorn.hatenablog.com

心理植木のすがすがしい本音

「本当にわかる心理学を書いてください。『本当に』がポイントです。世間の流行やトレンドは気にしなくていいですから」……そう依頼されたとき、私は嬉しかった。
心理学の真骨頂を伝えられるときがやっと来た、と思った。
 
「でしたら、みんなが大好きな『心理テスト』も『深層心理』も、頭から否定しますけど?」——。
戸惑う編集者の顔を覗き込みながら、私の心は浮き足立っていた。
ずっと書きたかったのだ。
そういう本当の本が。

フシギなくらい見えてくる! 本当にわかる心理学

フシギなくらい見えてくる! 本当にわかる心理学

 
 これは、心理学の専門家としてメディアで活躍している植木理恵の著書『本当にわかる心理学』の序文です。
 この序文からは、心理学の専門家としてメディアに登場しながらも、ミーハーな世間のニーズに応えるためにこれまで「心理学の真骨頂」をちゃんと伝えることができなかったという彼女のストレスが伺い知れます。
 「心理学とは何か」という最初の章では彼女のそんなこだわりが爆発していますので、本文の一部を抜粋して紹介してみましょう。
 
フロイトユング、そしてアドラーらが「心」を研究していた19世紀、心理学は、哲学やキリスト教の影響を少なからず受けていた時代であった。
つまり、産声をあげたばかりの心理学は、まだ「現代科学」の体裁を整えておらず、当時の思想、文化、神話から独立していなかったのだ。
 
ちなみに、「抑圧された深層心理」は、他者の目には見えない(なぜなら「深層」なのだから)。
無意識も絶対に観測できない(なぜなら「無」意識なのだから)。
 
したがって、それらのものが本当にあるのかないのかも、科学的にはいまだに謎に包まれたままである。
そしてこれから先も、フロイトたちが提唱してきたさまざまな概念の「実存的な有無」を検証することは、理論上不可能だろう。
 
にもかかわらず、彼らの考え方は150年もの間、世界中の人々から熱心に支持され、研究者のみならず志井の人々の心をもとらえ続けている。
私の観察では、特に女性はこれに心酔する傾向にある。
 
「あなたは、無意識に潜むエゴに苦しめられている」……分析医がそう、厳かに告げれば、多くの女性は(はたから見ていて「エッ?」と思うくらい)、納得し涙する。
不思議である。
 
しかし、私はそういう不確かなことを、真実のように騙ることができないでいる。
心理学の真の意味が誤解されていくのには、もう耐えられないのだ。
 
「フロイディアン」や「ユンゲリアン」と呼ばれる熱狂的ファンからの反感を恐れずにあえて述べるが、もはや彼らの主張は、きわめて人気のある「古典神話」を系統立てて語り継いでいる行為に過ぎず、厳密な意味での心理学研究とは分けて考えるべきだと私は思っている。
 
さて一方で、「科学」の様式にこだわる実験心理学の研究者に「心理学の父は?」と問えば、例外なく、ヴントの名を挙げるだろう。
彼は、フロイトと同じく19〜20世紀初頭にかけての神経学者、生理学者であった。
彼は、実験的な心理学を確立させて体系化を行うとともに、心理学の中に測定や数学といった科学を持ち込み、哲学や宗教から「切り離す」ことに挑んだ、最初の人物であるといえよう。

私自身は、彼らが提唱してきた研究法、つまり「科学としての心理学」の研究に、ずいぶん前から傾倒してきた。
現代心理学は、その科学的アプローチが主流となっており、心理学の大きな潮流となっている。
 
それにしても実験心理学というこのアプローチは、あまりにもストイックで夢がないからか、フロイトらの学説ほどにポピュラーになったことが一度もない。
しかし、多くの生理学者や心理学者に対しては、長い年月を通して静かに根深く影響を及ぼし続けている。

特に、科学的エビデンス(根拠)が重んじられるようになったここ半世紀は、
・目に見えるものしか実在しない
・測定できないものについて、科学者は論じるべきでない
という考え方が心理学の世界でも主流となり、特に行動主義、認知主義と呼ばれる分野の心理学者の間では、いまや完全にそのルールが定着してきているといえる。
 
 彼女が区別したがっているのは、わずかな根拠から性格や過去などを乱暴に当てて生き方をやたらと指示したがる「占いとしての心理学」「人生訓としての心理学」と、厳密な手続きで集めたデータから慎重に仮説を積み重ねていく「科学としての心理学」との違い。
 これまで「科学としての心理学」に心血を注いできた彼女としては、大したエビデンスもない癖にズバズバと決めつけていくような占い風情とは一緒にして欲しくないのでしょう。
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 彼女が推す実験心理学はいくつもの「○○心理学」という分野に細分化されていますが、彼女は「便宜的に切り分けられたジャンルよりもどんな研究手法で調べたかが大事」と研究のプロセスの方をはるかに重視しています。
 以下の文章にも、ジャンル分けよりも研究手法を重視する彼女の心情が、飾りなく正直に描かれています。
 
私個人に関していえば、「人の信念は、人の行動をどのように変えるのか」ということに関心を持ってきた。
それを調べるためには、質問用紙に的確に答えられる「高校生以上の男女」であることが必要であり、かつ結果が見えやすい「学習場面」をリサーチしていくことが、一番の近道なのである(実のところ、教育にも高校生にもさして興味はない)。
しかし私には、「教育心理学者」という一応のラベリングがされている。
不思議な気持ちがする。
 
 このような記述ばかりを抜き出すと冷たいイメージが先攻するかもしれませんが、私個人は彼女の普段からの発信に「世に溢れる悩みの数々を少しでも軽減するためにテレビの場を活用できれば」という熱い気概を感じます。
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 また、自分が伝えたいことをただ訴えるだけではなく、テレビ局側の「面白ければ何でもいい」という下世話なニーズにも配慮するバランス感覚があるからこそ、彼女の発信はお茶の間に受け入れられています。
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 心理学者として表舞台に立つ彼女がこだわっているのは、科学を名乗るのに必要とされる最低限のエビデンス。
 人類の歴史において科学がその信頼を勝ち取ることができたのは、論文の通りにすれば誰がやっても同じような結果になるという再現性があったから。
 ですから彼女は、本書においてもテレビ出演の場でも、学者としての見解を述べる際は、科学的エビデンスが認められた学術論文を必ず引用しています。
 
 その意味では、フロイトユングアドラーといった時代の宗教がかった心理学は、再現性とエビデンスによって築かれてきた「科学としての威光」を流用するべきではありません。
 そういった巷で人気の心理学を、「科学としての心理学」と厳密に切り分けることこそが本書の主目的と言えるでしょう。
 
 それは、科学者としての最低限のモラルを守りたいという信念の現れです。
 教育心理学者が教育にさして興味がないとしても、彼女にとっての心理学は科学であって人生訓ではないので、別にそれはモラルや人間性の欠落を意味するわけではないのです。

 
※当ブログの主なテーマは、この世界を支配する「正しさ」という言葉のプロレスとの付き合い方
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※そのプロレス的世界観を支えている「記述信仰」の実態を、簡単な図にしてまとめています。
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リーガルハイ流の格付け考

 この世に存在するありとあらゆる格付けは、人々の都合によって勝手に決められたもの。
 言葉に左右されやすいという人間の性質を利用して、低いランクよりも高いランクを目指すようにと人類を調教していくことが、こうした格付けを導入する際の主な目的になります。
 
 そんな格付けの中でも、よく槍玉にあげられるのが、モンドセレクションミシュランガイド世界遺産など。
 2013年にテレビ放送されていた法廷ドラマ「リーガルハイ2」でも、「世界財産」という架空の格付けをめぐる醜い争いが描かれていました。

リーガルハイ 2ndシーズン 完全版 DVD-BOX

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 このとき登場した人口148人という山奥の小さな集落は、電気も極力使わず自然の中で昔ながらの生活を続けており、そばの「おざおざの森」には希少種とされる動植物が今も残されているという理由で数年前に世界財産に登録された村。
 しかし、世界財産に認定される前は別に昔ながらの生活など続けておらず、コンビニっぽい店やハンバーガーショップや渋谷の某ファッションビルのような店もあったといいます。
 
 どこにでもありそうな小さな集落が変化したきっかけは「おざおざの森」の特殊な生態系が新聞記事に取り上げられて世間の注目を浴びたこと。
 その途端に他所から役人がやってきてこの集落を世界財産にしようと動き始めたそうです。
 ですが、森自体の規模は小さく認定は難しかったため、「自然と共に昔ながらの生活を営みながら暮らす人々」という設定を作って、住民がグルになってその設定を演じ始めたら、めでたく世界財産に認定されたということです。
 「自然遺産としては認定されないから文化遺産で」という流れそのものは、山岳信仰が存在してくれたおかげで世界遺産の地位をやっと勝ち取れた富士山のようですね。
 
 この村には「集落が世界遺産として認定されるために昔ながらの生活を演じるべき」という同調圧力に逆らって、電気も商店もある便利な生活がしたいと望んでいる「反自然派」がスナックの営業などをしぶとく続けています。
 彼らの店が集落の景観を破壊していることが世界財産の審査会から問題視されており、次回の審査までに改善されなければ登録抹消になりかねないので、世界財産のお墨付きを失いたくない村の勢力は裁判所に訴えを起こし、両者の間で調停が行われることになります。
 
 堺雅人が演じる主人公の古美門弁護士は反自然派の代理人として呼ばれ、世界財産を獲得するための村人たち演技に対して「住居も生活もごく普通なのにまったく詐欺に等しい!」と糾弾します。
 これに対抗する弁護士たちは世界財産の理想や自然や景観を守ることの美徳を説き、古美門と以下のような討論を交わします。
 
彼らは「おざおざの森」の重要さに気付き、それを守るために自然と共に暮らす生き方を自ら選んだ。
素晴らしい選択じゃありませんか。
世界財産になったことで集落全体の収入も増え経済も活性化してるんです。
 
収入が増えたところで使うところがなければ無意味だ。
 
都会にあるものはなくても、都会にないものがあるんです。
その証拠に人々の幸福度は都会よりもはるかに高いですよ。
 
幸福度が高いのは不幸であることを自覚してないか「不幸である」と口に出せない統制国家のどちらかだ!
みんな本音は世界財産なんかより便利でぜいたくな暮らしがしたいんだよ。
 
便利でぜいたくな暮らしより大切なものがあるんです。
尊厳です。
みんな誇りある生き方がしたいんです!
 
 この村にはもともと燃料廃棄物処理上の誘致計画と、高速道路を通す事業計画とがあり、それらをきっかけに都市開発を進めて生活の便をよくしていこうというビジョンがありましたが、自然や文化の保護を謡う世界財産認定によってそれらの計画は頓挫していました。
 古美門は、世界財産という「よそ者が勝手に作った格付け」に評価されるために住民たちに不便な生活を強要するなんて馬鹿馬鹿しい話だとし、さらに暴論を続けます。
 
私は必ずや、この地を世界財産から登録抹消させ、このくそ田舎に最新型燃料廃棄物処理場を建設させる。
高速道路も造る!
NHK以外も見られるようにする!
コンビニもファミレスもカフェもアウトレットも造る!
キャバクラもおっぱいパブも造ろうじゃないか!
 
バカげてる!
世界財産は世界の宝です。
お金もうけのために破壊してはならない!
 
 両陣営による住民への説得工作の応酬の末に、住民たちの気持ちは徐々に反自然派の方へと傾いていきます。
 反対陣営の代理人は「世界財産が抹消されたら世界中の恥さらしですよ!」と権威を笠にきた苦し紛れの恫喝を行いますが、古美門は「燃料廃棄物処理場だって国民のためになる立派な施設だ。100年後には世界財産かもしれない」と涼しい顔で受け流します。
 
 そして、世界財産推進派が反自然派への訴えを取り下げることで、この調停は最終的な決着を迎えます。
 推進派の代理人を務めた弁護士による最後の罵倒と、その弁護士を古美門が圧倒するシーンがこの物語のクライマックスと言えるでしょう。
  
バカげてる!
こんな決断は絶対に間違ってる!
みんなが不幸になる決断だ!
なぜ分からない!
 
分かってないのは君だよ。
崇高な理念など欲望の前では無力だ。
しょせん人間は欲望の生き物なのだよ。
それを否定する生き方などできはしないしその欲望こそが文明を進化させてきたんだ。
これからも進化し続け決して後戻りはしない!
燃料廃棄物処理場を造り高速道路を造りショッピングモールができ、森が減り、希少種がいなくなり、いずれどこにでもある普通の町になるだろう!
そして失った昔を思って嘆くだろう!
だが、みんなそうしたいんだよ!
素晴らしいじゃないか!
 
愚かだ!
 
それが人間だ。
 
 どんな崇高な理念も、その理念を代弁するという格付けも、所詮は人の手で造られた人心誘導の手段の一つに過ぎません。
 もしそれらのありがたい理念や格付けが自分たちの現実的なニーズに合わないのであれば、盲目的にありがたがって従う必要など全くないのです。
 
 このドラマでは、世界遺産という分かりやすい題材をパロディ化していましたが、世の中には同類の茶番がまだまだ数え切れないくらい溢れかえっています。
 例えば、国際標準化機構によって策定された各種のISO規格。
 S&Pやムーディーズやフィッチなど格付け機関による投資対象の格付け。
 さらには、ノーベル賞、科学信仰、お金信仰、善悪を始めとした倫理道徳などなど。
 
 企業としての品質向上の取り組みや環境保全への取り組みを認定するISOの国際規格は、その認定を得ることで企業に望ましい効果が実際にあるのなら取得できるよう努力したらいいと思いますが、取得のための事務手続きや監査対策にマンパワーをとられ過ぎて、箔付けのための取り組みがかえって邪魔になっているというのもよく聞く話です。
http://www.arktech.co.jp/iso/pu12.html
 こうした点にも「国際社会の基準はこうなんだ」と言われるとついつい従ってしまう日本のグローバルスタンダード信仰がよく現れています
http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2015/04/19/005822
 
 また、 金融商品や企業(株)・政府(国債)などの信用状態ををABCDなどで表していた格付け機関の信憑性は、AAAと認められていたサブプライム住宅ロー ン関連証券が破綻したことで随分と薄れてしまっています。
 これらの信用格付けはそもそも人々の金を金融商品に向かわせるために生まれたものであり、投資に対する警戒感を緩めるために実際よりも高い安全性を演出するような八百長が頻繁に行われていると主張する識者もいます。
http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2015/06/28/235308
 
 偉大な権威とされているノーベル賞なども、「西欧型の近代思想が理想とする価値の実現にどれだけ貢献したか」を評価して褒め称えることで、近代合理主義思想の刷り込みだけは「必要な教育」として正当化されるが、それに反する思想の刷り込みは時代遅れだと糾弾される国際的な同調圧力の一端を担っています。
http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2014/11/23/144020
 
 科学に「普遍的な真理を解明するためのもの」というキリスト教的な偏見を上乗せする科学信仰は、科学的かどうかという基準で物事の信用度を格付けするという独特の価値観を生み出しています。
http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2014/06/27/013900
 
 現代人ならば無視することができないお金も、人間たちがグルになって「この紙切れは交換に使用できる」という付加価値を付け足しているからこそ、人々を裕福だとか貧乏だとか格付けするための材料として機能できています。
http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2015/07/05/235459
 
 「人としての基本的な道徳観」などと呼ばれる善悪の概念ですら、善か悪かと格付けすることで人をコントロールするための発明品です。
http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2014/03/07/061900
 
 この世のすべての格付けは、人の勝手な都合によって雇われた利害関係含みのレフェリーに過ぎません。
 そして私たち一人一人は、この弱肉強食の説得合戦を生きるただのプレーヤーでしかありません。 mrbachikorn.hatenablog.com
 
 人間をとりまくこの説得合戦の世界には、「権威あるこの世のレフェリーの代弁者」を装って己のプレイヤーとしての影響力を高めるという狡猾な説得の技術があります。
 私がこのブログを通じてお伝えしたいのは、そうした狡猾なプレイヤーによる「レフェリーの代弁者のふりをした説得」の圧力に、容易く丸め込まれてしまわないための考え方です。
http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2015/01/18/002319
 
 「雇われレフェリー」の言い分を真に受けて「ねばならない」とか「してはいけない」とかいう机上の○×ゲームにばかり終始してしまう人たちは、リーガルハイで破れた弁護士のように「人間はもっと理性的な生き物だ」という架空の物語にすがりついているだけ。
 自分自身もそういった弱肉強食の説得合戦の世界の中にいて、現に力を行使しながら生きているという現実を、どうしても認めたくなくて足掻きながら空論を吐き続けている単なる夢想家です。
http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2014/03/31/200500
 
 それがどんなに権威のある格付けだろうと作り話は作り話として受け止め、その作り話が通用している世界では便利に活用していき、作り話が通用しない世界ではばっさりと切り捨てる。
 そんな「作り話だらけの世の中」を生きていくための大人の叡智を、古美門は示していたのです。
http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2014/08/31/000737
 
 この「作り話だらけの世の中」を賢く生き抜くため、私たちもただ「雇われレフェリー」たちの言い分を真に受けて従うだけでなく、自らの都合に合わせて意図的に付き合っていきたいものですね。

 
※当ブログの主なテーマは、この世界を支配する「正しさ」という言葉のプロレスとの付き合い方mrbachikorn.hatenablog.com

※そのプロレス的世界観を支えている「記述信仰」の実態を、簡単な図にしてまとめています。mrbachikorn.hatenablog.com

日本はまだ主権国家ではない

 アメリカと日本の関係は、藤子不二雄Fの漫画『ドラえもん』における乱暴者ジャイアンとその舎弟スネ夫との関係のように喩えられることがあります。
 その現状が不満な日本人の中には、主権国家である日本は出来杉くんのような自立した優等生を目指すべきだという声が上がります。
 そして、どのような道筋で出来杉くんを目指すべきかという方法論の段階で右派と左派の意見は食い違うため、平行線の罵り合いが何十年も慢性的に繰り返されています。
 
 平和憲法の縛りによって軍事力を去勢されている現状を打破して「一人前の外交力を持った普通の国になりたい」とする右派の主張には、左派の側から「それは出来杉くんではなく乱暴者のジャイアンを目指す道だ」という批判が飛びます。
 「軍事力なんてなくても平和憲法の理想を堂々と訴えていけば日本は世界の模範になれる」とする左派の主張には、右派の側から「それは無力にやられるだけののび太を目指す道であり、平和憲法にはドラえもんの秘密道具のように都合よく助けてくれる力などない」といった批判が飛びます。
mrbachikorn.hatenablog.com
 
 こうした批判の応酬に対して「日本の現状はスネ夫なんかよりも遥かにひどいのに、そこを見ずに議論すること自体が無意味だ」と諭しているのが思想家の内田樹です。
 日本に平和憲法を押し付けながらも後に自衛隊の設立を後押ししたアメリカ側の思惑を「日本を無害かつ有益な属国の立場に留めておくこと」とする彼の言い分を翻訳すると、「スネ夫にはまだ個人としての自我がある分日本よりもマシだが、日本には国家の自我ともいうべき主権がいまだに存在していない」ということになるでしょう。
mrbachikorn.hatenablog.com
 
 そもそも出来杉くんになるのかジャイアンになるのかのび太になるのかという国としての選択は、日本国民が自らの意思で勝手にできることではない。
 この大前提から目を背けていては「自立した出来杉くん」になんて到底なれやしないといった類いの主張を、彼はそのブログや著作の中で繰り返してきました。
 その一例として、2015年6月22日のブログ記事の一部を抜粋してみましょう。
http://blog.tatsuru.com/2015/06/22_1436.php
 
まず私たちは、「日本は主権国家でなく、政策決定のフリーハンドを持っていない従属国だ」という現実をストレートに認識するところから始めなければなりません。
国家主権を回復するためには「今は主権がない」という事実を認めるところから始めるしかない。
 
病気を治すには、しっかりと病識を持つ必要があるのと同じです。
「日本は主権国家であり、すべての政策を自己決定している」という妄想からまず覚める必要がある。
 
戦後70年、日本の国家戦略は「対米従属を通じての対米自立」というものでした。
これは敗戦国、被占領国としては必至の選択でした。
ことの良否をあげつらっても始まらない。
それしか生きる道がなかったのです。
 
でも、対米従属はあくまで一時的な迂回であって、最終目標は対米自立であるということは統治にかかわる全員が了解していた。
面従腹背」を演じていたのです。
 
けれども、70年にわたって「一時的迂回としての対米従属」を続けてるうちに、「対米従属技術に長けた人間たち」だけがエリート層を形成するようになってしまった。
彼らにとっては「対米自立」という長期的な国家目標はすでにどうでもよいものになっている。
 
それよりも、「対米従属」技術を洗練させることで、国内的なヒエラルキーの上位を占めて、権力や威信や資産を増大させることの方が優先的に配慮されるようになった。
「対米従属を通じて自己利益を増大させようとする」人たちが現代日本の統治システムを制御している。
 
 つまり、アメリカというジャイアンとのケンカにボッコボコに負けて国土を占領された日本が出来杉くんとして再び自立するためには、一時的に「従順なスネ夫」を演じて占領主アメリカの信頼を勝ち取る必要があったということ。
 けれども、その演技を長年続けているうちに「スネ夫役を上手く演じないと出世できない構造」が日本のエリート層の中に組み込まれ、世代交代を通じて「いずれは出来杉くんとして自立する」という当初の目標が忘れ去られてしまったというわけです。
mrbachikorn.hatenablog.com
 
 内田樹は、スネ夫役を演じるという戦略が「日本の自立への道」に役立ったのは最初の27年間だけだと言います。
 彼はブログ記事の中で、日本が持っていたはずの目標が、現在のように忘れ去られていくまでの経緯を以下のように描写しています。
 
吉田茂以来、歴代の自民党政権は「短期的な対米従属」と「長期的な対米自立」という二つの政策目標を同時に追求していました。
そして、短期的対米従属という「一時の方便」はたしかに効果的だった。
 
敗戦後6年間、徹底的に対米従属をしたこと見返りに、1951年に日本はサンフランシスコ講和条約国際法上の主権を回復しました。
その後さらに20年間アメリカの世界戦略を支持し続けた結果、1972年には沖縄の施政権が返還されました。
 
少なくともこの時期までは、対米従属には主権の(部分的)回復、国土の(部分的)返還という「見返り」がたしかに与えられた。
その限りでは「対米従属を通じての対米自立」という戦略は実効的だったのです。
 
ところが、それ以降の対米従属はまったく日本に実利をもたらしませんでした。
沖縄返還以後43年間、日本はアメリカの変わることなく衛星国、従属国でした。
けれども、それに対する見返りは何もありません。
ゼロです。
 
沖縄の基地はもちろん本土の横田、厚木などの米軍基地も返還される気配もない。
そもそも「在留外国軍に撤収してもらって、国土を回復する」というアイディアそのものがもう日本の指導層にはありません。
 
アメリカと実際に戦った世代が政治家だった時代は、やむなく戦勝国アメリカに従属しはするが、一日も早く主権を回復したいという切実な意志があった。
けれども、主権回復が遅れるにつれて「主権のない国」で暮らすことが苦にならなくなってしまった。
その世代の人たちが今の日本の指導層を形成しているということです。
 
田中角栄は1972年に、ニクソンキッシンジャーの頭越しに日中共同声明を発表しました。
これが、日本政府がアメリカの許諾を得ないで独自に重要な外交政策を決定した最後の事例だと思います。
 
この田中の独断について、キッシンジャー国務長官は「絶対に許さない」と断言しました。
その結果はご存じの通りです。
アメリカはそのとき日本の政府が独自判断で外交政策を決定した場合にどういうペナルティを受けることになるかについて、はっきりとしたメッセージを送ったのです。
田中事件は、アメリカの逆鱗に触れると今の日本でも事実上の「公職追放」が行われるという教訓を日本の政治家や官僚に叩き込んだと思います。
 
それ以後では、小沢一郎鳩山由紀夫が相次いで「準・公職追放」的な処遇を受けました。
二人とも「対米自立」を改めて国家目標に掲げようとしたことを咎められたのです。
このときには政治家や官僚だけでなく、検察もメディアも一体となって、アメリカの意向を「忖度」して、彼らを引きずり下ろす統一行動に加担しました。
 
 このように本来国としてあるべき自立心を骨抜きにされてしまっている日本ですが、アメリカが永久に「世界のジャイアン」として磐石の支配力を維持していてくれるならば、保身のためにスネ夫としてジャイアンのご機嫌を取り続けるのも悪くない選択かもしれません。
 しかし、アメリカがいつまでも「世界のジャイアン」をやってくれるという保証はどこにもありません。
mrbachikorn.hatenablog.com
 
 もし将来、アメリカが「世界のジャイアン」という役割を降りるならば、日本はこれからどう対策を打っていくべきなのか。
 内田樹は次のように論を進めていきます。
 
アメリカが覇権国のポジションから降りる時期がいずれ来るでしょう。
その可能性は直視すべきです。
 
直近の例としてイギリスがあります。
20世紀の半ばまで、イギリスは7つの海を支配する大帝国でしたが、1950年代から60年代にかけて、短期間に一気に縮小してゆきました。
植民地や委任統治領を次々と手放し、独立するに任せました。
 
その結果、大英帝国はなくなりましたが、その後もイギリスは国際社会における大国として生き延びることには成功しました。
いまだにイギリスは国連安保理常任理事国であり、核保有国であり、政治的にも経済的にも文化的にも世界的影響力を維持しています。
60年代に「英国病」ということがよく言われましたが、世界帝国が一島国に縮減したことの影響を、経済活動が低迷し、社会に活気がなくなったという程度のことで済ませたイギリス人の手際に私たちはむしろ驚嘆すべきでしょう。
 
大英帝国の縮小はアングロ・サクソンにはおそらく成功例として記憶されています。
ですから、次にアメリカが「パックス・アメリカーナ」体制を放棄するときには、イギリスの前例に倣うだろうと私は思っています。
 
帝国がその覇権を自ら放棄することなんかありえないと思い込んでいる人がいますが、ローマ帝国以来すべての帝国はピークを迎えた後は、必ず衰退してゆきました。
そして、衰退するときの「手際の良さ」がそれから後のその国の運命を決定したのです。
ですから、「どうやって最小の被害、最小のコストで帝国のサイズを縮減するか?」をアメリカのエリートたちは今真剣に考えていると私は思います。
 
それと同時に、中国の台頭は避けられない趨勢です。
この流れは止めようがありません。
これから10年は、中国の政治的、経済的な影響力は右肩上がりで拡大し続けるでしょう。
つまり、東アジア諸国は「縮んで行くアメリカ」と「拡大する中国」という二人のプレイヤーを軸に、そのバランスの中でどう舵取りをするか、むずかしい外交を迫られることになります。
 
フィリピンはかつてクラーク、スービックという巨大な米軍基地を国内に置いていましたが、その後外国軍の国内駐留を認めないという憲法を制定して米軍を撤収させました。
けれども、その後中国が南シナ海に進出してくると、再び米軍に戻ってくるように要請しています。
 
韓国も国内の米軍基地の縮小や撤退を求めながら、米軍司令官の戦時統制権については返還を延期しています。
つまり、北朝鮮と戦争が始まったときは自動的にアメリカを戦闘に巻き込む仕組みを温存しているということです。
 
どちらも中国とアメリカの両方を横目で睨みながら、ときに天秤にかけて、利用できるものは利用するというしたたかな外交を展開しています。
これからの東アジア諸国に求められるのはそのようなクールでリアルな「合従連衡」型の外交技術でしょう。
 
残念ながら、今の日本の指導層には、そのような能力を備えた政治家も官僚もいないし、そのような実践知がなくてはならないと思っている人さえいない。
そもそも現実に何が起きているのか、日本という国のシステムがどのように構造化されていて、どう管理運営されているのかについてさえ主題的には意識していない。
 
それもこれも、「日本は主権国家ではない」という基本的な現実認識を日本人自身が忌避しているからです。
自分が何ものであるのかを知らない国民に適切な外交を展開することなどできるはずがありません。
私たちはまず「日本はまだ主権国家ではない。だから、主権を回復し、国土を回復するための気長な、多様な、忍耐づよい努力を続けるしかない」という基本的な認識を国民的に共有するところから始めるしかないでしょう。
 
 私も内田樹のこの「基本的な認識を国民的に共有するところから始めるしかない」という主張については大賛成です。
 たとえ現状がどんなに惨めで恥ずかしいものであろうと、そこから目を背けていてはいつまで経っても現状維持のままでしょうから。

ドラえもん (スネ夫編) (小学館コロコロ文庫)

ドラえもん (スネ夫編) (小学館コロコロ文庫)

 
 
※当ブログの主なテーマは、この世界を支配する「正しさ」という言葉のプロレスとの付き合い方
mrbachikorn.hatenablog.com

※そのプロレス的世界観を支えている「記述信仰」の実態を、簡単な図にしてまとめています。
mrbachikorn.hatenablog.com

どうして通貨危機は起こるのか

 経済の素人である私たち一般人の多くは、ニュースで通貨危機だとか金融危機といったフレーズを聞いても、具体的にはピンときていない場合がほとんど。
 ニュースのトーンから何となく「大変なことが起こったんだな」というニュアンスだけは感じることができますが、自然災害や感染症やテロや戦争等のニュースのように「人の傷病死」が直接は目に見えないため、何が大変なのかが分かりにくいのです。
 今回は、こうした私たち素人の疑問に応えてくれる一冊の参考書を紹介させていただきます。
 
“通貨”をめぐる話題が世間を騒がせている。
通貨危機」が突然のように何度も世界を襲い、なかでも2008年のリーマン・ショック大恐慌の再来のように恐れられ、衝撃を与えている。
 
その後もドバイ・ショックギリシャ危機を起点とした金融危機が発生し、その対応策として超金融緩和政策が導入され、その結果グローバルマネーが急増し、バブルの発生と崩壊の不安を高めている。
このような不安定な国際状況の下、中国などの新興国と米国、欧州などの先進国との間に「通貨安競走」が進行しているといわれており、第2次世界大戦につながった戦前の経済状況と類似していることが懸念されている。

通貨経済学入門

通貨経済学入門

 
 これは、国際通貨制度や決済システムに精通する宿輪純一による、2010年12月刊行の著作『通貨経済学入門』の序文です。
 メガバンクに勤めながら経済政策の提言などに携わり、いくつもの大学で経済学を教えてきた著者の願いは、通貨の問題をさほど理解していない日本の現状を少しずつ変えていくこと。
 彼はあとがきで、執筆の目的を以下のように語っています。
  
本書は入門書として、できるだけかみくだいて説明しており、一般の方には分かりにくい“通貨”の理解が少しでも進めば、望外の喜びである。
皆が理解することが、その国の経済政策をより高度化させると考える。
 
 このように「日本の経済をよりよくするためには、通貨への理解を国民レベルで高める必要がある」という信念を持つ彼は、一般人でも参加できる「宿輪ゼミ」というボランティア公開講義を主催し、ホームページやFacebookツイッターなどを通じて積極的な発信をしています。www.shukuwa.jp
 
 私もFacebookを通じて彼の存在を知ってからこの著書を読みましたが、国際通貨制度をめぐる近現代の歴史から現在のトピックまでを、できるだけ易しい言葉で分かりやすく紐解いてくれていると感じました。
 今回は、本書を読んでみての素人解釈を、ざっくりと乱暴に総括してみたいと思います。
 
 まずお金とは、その物自体には大して価値の無いものです。
 ですが、「日本銀行券一万円」と印刷された紙切れをコンビニエンスストアに持っていけば、「100円」と値付けられたパン100個と交換することができます。
 それ自体食べることもできず、メモ紙としてもちょっとしか使えないようなインクまみれの紙っぺらが、大量の食料と交換できてしまうんです。
 
 もしこの紙っぺら(貨幣)が存在せず物々交換しか交換の手段がなければ、互いに交換物を持ち寄った上で、お互いが条件に納得し合うという面倒くさい手間をかけないことにはその交換が成立しません。
 人類同士の「交換」という行動は、貨幣の誕生という一大事によって手軽になり、そのおかげで驚くほど活発になっていったのです。
 
 そんな貨幣の中でも、国の法律に基づいて法的通用力がある貨幣のことを「通貨」と呼ぶそうです。
 単なる紙切れでしかない通貨が「交換の手段」として国内で通用していられるのは、政府に「この紙切れを交換手段として使用する」という約束を守らせられるだけの統治能力があるとみなされているから。
 
 もし政府にこの約束を守らせるだけの実力がないと判断されれば、その通貨にくっついていた交換手段としての信用はなくなってしまい、単なる「インクで汚れた紙切れ」としての価値しか認められなくなってしまいます。
 このようにして、その国の通貨の貨幣としての信用が揺らぐ事態のことを「通貨危機」と呼びます。
 そしてこうした通貨危機は、歴史の中で何度も繰り返されているのです。
 
 ではなぜ通貨危機は起こってしまうのか。
 その原因は「通貨を発行できる」という政府当局(もしくは中央銀行)の特権的地位にあります。
 
 完全な素人考えで言うと、十分な量の通貨が既に市場に出回ってしまっているならば、それ以上追加で通貨を発行する必要なんてそもそもないはずですが、実際には通貨は発行され続けています。
 そこにはもちろん「市場規模が拡大すると交換に必要な通貨が足りなくなって経済活動が鈍るから」という大義名分もあるのでしょう。
 ですが、それ以外に「政府当局(中央銀行)の国内で使える資金が通貨を刷った分だけ増える」という、まるで錬金術のような誘惑もあるのです。
 
 ただしこの錬金術にはインフレという副作用があります。
 額面上の通貨がいくら増えたところで、市場で交換される物やサービスの総価値が増えなければ、物やサービスに対する通貨の価値は下がります。
 この「商品に対する通貨の価値の低下=額面上の物価上昇」が急激に起きてしまえば、「交換手段として役に立つ」という通貨への信頼が大きく損なわれ、「価値があると思って貯蓄してきた手持ちの通貨では商品を手にいれられない」といったパニックを招いてしまうのです。
 
 こうした通貨危機は戦争(政府当局が大量のお金を必要とする事業)があるたびに何度も引き起こされ、その都度反省も繰り返されてきました。
 そんな反省の上に、金本位固定制という国際通貨制度が1880年から1913年までの間、イギリスの主導で比較的安定的に運営されたそうです。
 この制度は、各国の通貨と純金との交換比率を固定することで「通貨がただの紙切れになってしまうのでは」という信用への不安を和らげる働きがあったのです。
 
 ですが、この金本位固定制は第1次世界大戦中に破棄されてしまいます。
 その後、第2次世界大戦後に生まれて1945年から1971年まで運営されたのが、各国の通貨とドルの交換比率を定め、35ドルを純金1オンスと交換するというブレトンウッズ体制です。
 この当時のアメリカ以外の国の通貨の信用は、『「純金と交換できるドル」と交換できる』という二重構造で成り立っていたわけです。
 
 このブレトンウッズ体制も、ベトナム戦争時の大量発行でドルの信用が損なわれ、ドルを金に交換する動きが世界的に高まったことに危機感を覚えたアメリカが金とドルとの交換を一方的に停止したことで終了します。
 これによって、国際通貨制度から「金との交換」という信頼性の拠り所が失われ、身勝手なドルのみを中心軸とするリスキーな変動相場制へとなし崩し的に移行しました。
 
 普通の通貨であれば、発行主が巨額の借金を作っているにも関わらず、さらに膨脹を繰り返して信用を損ない続けるドルの、通貨としての寿命はそう長くないはずです。
 ですがドルは、世界の通貨制度の屋台骨を担っているという立場を人質にとって、ピンチを迎える度に各国からの協力を引き出して延命を図ることができるものだと、完全にタカをくくっているようにも見えます。
 
  このような経緯から通貨危機へのリスク感覚が麻痺したのか、現在世界には発行されすぎた莫大な量の通貨が「相場で儲けを獲るマネーゲーム」のために動いています。
 世界中の実体経済の動きを反映する貿易取引量は、通貨同士の売買の動きを表す為替取引量のたった1%に過ぎないと言います。
 無節操に自由化されて大量のグローバルマネーを素早く動かせるようになってしまった金融市場は、儲けのためにちょっとの刺激にも過敏に反応して乱高下するようになり、売買の標的となった国に通貨危機をもたらしやすくなっているのです。
 
 こんな不安定な国際通貨制度を脱却すべく、ユーロや人民元といったドル以外の国際通貨で取引をする枠組みもだんだんと広がっていると言います。
 これから先、ドルという「裸の王様」が本当に裸だったとさらけ出される事態がやってくるのかもしれません。mrbachikorn.hatenablog.com
 
 
※当ブログの主なテーマは、この世界を支配する「正しさ」という言葉のプロレスとの付き合い方mrbachikorn.hatenablog.com

※そのプロレス的世界観を支えている「記述信仰」の実態を、簡単な図にしてまとめています。mrbachikorn.hatenablog.com

アメリカの自殺願望を疑ってみる

 私が考える情報リテラシーとは、話題の前提を疑う習慣のこと。
 これまでも、そんな内容の記事をいくつか紹介してきました。
 
「真実を見極めた『つもり』に振り回される愚かさ」mrbachikorn.hatenablog.com
「話の前提を操作するパワーゲームとの付き合い方」mrbachikorn.hatenablog.com
「そもそも洗脳のために『正しさ』は造られている」mrbachikorn.hatenablog.com
「言葉の用途は『物事の描写』なんかじゃない」  mrbachikorn.hatenablog.com
 
 そして今回紹介するのは、国際情勢解説者の田中宇の話題の前提を疑う姿勢について。
 報道の世界にいた彼は、報道にかかる政治的なバイアスを読み解くために世界中のニュースを多読しながら比較検討し、そうすることで見出だした独自の視点による解釈を「田中宇の国際ニュース解説」というウェブサイト上で発信し続けています。tanakanews.com
 
 彼の視点の一番の特色は、アメリカの指導者の多くが、アメリカの立場を危うくして自滅させるために、わざと失策を重ねているという見方。
 最近の彼の著作「金融世界大戦 第三次大戦はすでに始まっている」にもそんな彼の視点がまとめてあるので、引用して紹介してみましょう。

 
私が自分なりに国際政治を何年か分析してきて思うことは「近代の国際政治の根幹にあるものは、資本の論理と、帝国の論理(もしくは国家の論理)との対立・矛盾・暗闘ではないか」ということだ。
キャピタリズムナショナリズムの相克と言ってもよい。
 
第一次大戦以来、人類の歴史の隠された中心は、イギリスの国家戦略の発展型である「米英中心主義」(帝国の論理)と、資本主義の政治理念である「多極主義」(資本の論理)との相克・暗闘であり、それが数々の戦争の背景にある。
 
帝国・国家の論理、ナショナリズムの側では、最も重要なことは、自分の国が発展することである。
他の国々との関係は自国を発展させるために利用・搾取するものであり、自国に脅威となる他国は何とかして潰そうとする(国家の中には大国に搾取される一方の小国も多い。「国家の論理」より「帝国の論理」と呼ぶ方がふさわしい)。
 
半面、資本の論理、キャピタリズムの側では、最も重要なことは儲け・利潤の最大化である。
国内の投資先より外国の投資先の方が儲かるなら、資本を外国に移転して儲けようとする。
帝国の論理に基づくなら、脅威として潰すべき他国でも、資本の論理に基づくと、自国より利回り(成長率)が高い好ましい外国投資先だという、論理の対峙・相克が往々にして起きる。
 
帝国の論理に基づき国家を政治的に動かす支配層と、資本の論理に基づき経済的に動かす大資本家とは、往々にして重なりあう勢力である。
帝国と資本の対立というより、支配層内の内部葛藤というべきかもしれない。
 
重要なのは、アメリカの上層部が、自分たちが世界の中心であり続ける「米英中心主義」ではなく、あえて中国やロシア、インドなどに覇権を譲り渡す「多極主義」を選ぶ、ということである。
私は、その理由が「資本の論理」にあるのではないかと考えている。
 
欧米や日本といった先進国は、すでに経済的にかなり成熟しているため、この先あまり経済成長が望めない。
地球温暖化対策が途上国の足かせとして用意されていることを見るとわかるように、今後も欧米中心の世界体制を続けようとすることは、世界経済の全体としての成長を鈍化させることにつながる。
これは、世界の大資本家たちに不満を抱かせる。
欧米中心主義を捨て、中国やインド、ブラジルなどの大きな途上国を経済発展させる多極主義に移行することは、大資本家たちの儲け心を満たす。
 
 こんな風に「アメリカは欧米中心主義を捨てようとしている」などと書かれても、アメリカに対する「自己中心的で傲慢な正義をゴリ押しする国」といった一般的なイメージとのズレを感じる人もいるでしょう。
 そのズレを埋めるために、まずは田中宇なりの「覇権」の定義と、イギリスというサンプルを用いた解説を見てみましょう。
  
国際政治を考える際に「覇権」(ヘゲモニー、hegemony)という言葉はとても重要だ。
国家間の関係は、国連などの場での建前では、あらゆる国家が対等な関係にあるが、実際には大国と小国、覇権国とその他の国々の間に優劣がある。
今の覇権国はアメリカである。
覇権とは「武力を使わずに他国に影響力を持つこと」である。
 
なぜ世界を支配するのに、武力を使わない覇権というやり方が必要なのか。
結論から先に書くと「民主主義、主権在民が国家の理想の姿であるというのが近代の国際社会における建前であり、ある国が他国を武力で脅して強制的に動かす支配の手法は、被支配国の民意を無視する悪いことだから」である。
 
この建前があるため、表向きは、武力を使わず、国際政治の分野での権威とか、文化的影響力によって、世界的もしくは地域諸国に対する影響力が行使され、それが覇権だということになっている。
実際には、軍事力の強い国しか覇権国になれないので、武力が担保になっている。
 
人類史上、初めて世界的な覇権を構築したのはイギリスである。
イギリスが世界覇権を初めて構築できた主因は、1780年代から産業革命を引き起こし、それまで馬力や人力、水力などしかなかった動力の分野に蒸気機関やガソリンエンジンをもたらし、汽船や鉄道などを開発し、交通の所要時間の面で世界を縮小させたからである。
 
フランス革命自体、その少し前に起きたアメリカの独立とともに、イギリスの資本家が国際投資環境の実験的な整備のために誘発したのではないかとも思える。
フランス革命によって世界で初めて確立した国民国家体制(共和制民主主義)は、戦争に強いだけでなく、政府の財政面でも、国民の愛国心に基づく納税システムの確立につながり、先進的な国家財政制度となった。
それまでの欧州諸国は、土地に縛られた農民が、いやいやながら地主に収穫の一部を納税する制度で、農民の生産性は上がらず、国家の税収は増えにくかった。
 
フランス革命を発端に、世界各地で起きた国民国家革命は、人々を、喜んで国家のために金を出し、国土防衛のために命を投げ出させる「国民」という名のカルト信者に仕立てた。
権力者としては、国民に愛国心を植え付け、必要に応じて周辺国の脅威を煽動するだけで、財政と兵力が手に入る。
国民国家にとって教育とマスコミが重要なのは、このカルト制度を維持発展させる「洗脳機能」を担っているからだ。
 
国民国家は、最も効率のよい戦争装置となった。
どの国の為政者も、国民国家のシステムを導入したがった。
王候貴族は、自分たちが辞めたくないので立憲君主制国民国家制を抱き合わせる形にした。
また「国民」を形成するほどの結束力が人々の間になかった中国やロシアなどでは、一党独裁で「共産主義の理想」を実現するという共同幻想を軸に「国民」の代わりに「人民」の自覚を持たせ、いかがわしい「民主集中制」であって民主主義ではないものの、人々の愛国心や貢献心を煽って頑張らせる点では国民国家に劣らない「社会主義国」が作られた。
 
ナポレオンが英征服を企てた点では、フランス革命はイギリスにとって迷惑だった。
だが、フランス革命を皮切りに、欧州各国が政治体制を国民国家型(主に立憲君主制)に転換し、産業革命が欧州全体に拡大していく土壌を作り、英の資本家が海外投資して儲け続けることを可能にした点では、フランス革命は良いことだった。
 
イギリスを含む欧州各国は、キリスト教世界として同質の文化を持っていたので、イギリス発祥の産業革命と、フランス発祥の国民革命は、ロシアまでの全欧州に拡大した。
その中で、ナポレオンを打ち負かして欧州最強の状態を維持した後のイギリスは、欧州大陸諸国が団結せぬよう、また一国が抜きん出て強くならないよう、拮抗した状態を維持する均衡戦略を、外交的な策略を駆使して展開し、1815年のウィーン会議から1914年の第一次大戦までの覇権体制(パックス・ブリタニカ)を実現した。
 
 こうして築かれた「世界一の覇権国」としての地位は第一次大戦や第二次大戦を経てイギリスからアメリカへと譲り渡されますが、諜報活動に優れていたイギリスはマスコミや軍事産業への影響力を駆使してアメリカを利用し、米英中心の世界を演出してきたといいます。
 ですが、たとえ自国が不利益を被ろうとも自分たちが儲かればいいという資本家がイギリスの支配層に紛れていたのと同じように、アメリカの支配層にも「国家としての覇権維持よりも金儲けを優先したい」とする多極主義者が食い込んでおり、利害が食い違う米英中心主義者と暗闘を繰り広げてきたそうです。
 
 私たちがアメリカに「身勝手なジャイアン」のようなイメージを重ねていたのは、米英中心主義者の方がこれまでは優勢だったから。
 しかし、近年の世界情勢を見る限り、米英中心主義者のふりをした「隠れ多極主義者」たちが活躍することで、形勢は逆転しつつあると彼は分析しています。
 その解説をご覧ください。
  
アメリカの「自滅主義」は、多極主義者がホワイトハウスを握っているにもかかわらず、世論操作(マスコミのプロパガンダ)などの面で米英中心主義者(冷戦派)にかなわないので、米英中心主義者の戦略に乗らざるを得ないところに起因している。
相手の戦略に乗らざるを得ないが、乗った上でやりすぎによって自滅して相手の戦略を壊すという、複雑な戦略がとられている。
 
やりすぎによる自滅戦略の結果、アメリカはひどい経済難に陥り、ドル崩壊が予測される事態になった。
多極化が進むと、ドルは崩壊し、世界の各地域ごとに基軸通貨複数生まれ、国際通貨体制は多極化する。
ドルが崩壊すると、アメリカは政治社会的にも混乱が増し、連邦が崩壊するかもしれない。
 
アメリカの分析者の間では、ドル崩壊による米連邦崩壊の懸念が強まった。
多極主義者の資本家は、自国を破綻させ、ドルという自国の富の源泉を潰してもかまわないと思っているということだ。
 
彼らの本質は、16~17世紀にアムステルダムからロンドンに本拠を移転し、19世紀にロンドンからニューヨークに移り、移動のたびに覇権国も移転するという「覇権転がし」によって儲けを維持しているユダヤ的な「世界ネットワーク」である。
100年単位で戦略を考える彼らは、自分たちが米国民になって100年過ぎたからといって米国家に忠誠を尽くすようになるとは考えにくい。
 
米英中心主義者による延命策や逆流策がうまくいかなければ、ドルは崩壊し、米英中心の世界体制は崩れ、アメリカは財政の破綻と、もしかすると米連邦の解体まで起きる。
しかしアメリカが破綻するのは、イギリスなど覇権を維持したい勢力に牛耳られてきた状態をふりほどくためであり、アメリカは恒久的に崩壊状態になるのではなく、システムが「再起動」されるだけである。
いったん単独覇権型のアメリカの国家システムが「シャットダウン」された後、多極型の世界に対応した別のシステム(従来の中傷表現でいうところの「孤立主義」)を採用する新生アメリカが立ち上がってくるだろう。
 
米英を中心とする先進国のマスコミは、人々の善悪観を操作するプロパガンダマシンの機能を持つことが、少しずつ人々にばれてきた。
米英のマスコミは「人権」「民主化」「環境」といった、先進国が新興諸国を封じ込められるテーマにおいて人々の善悪観を操作する巧みな情報管理を行い、米英中心主義を維持することに貢献してきた(イスラム諸国に対する濡れ衣報道や、地球温暖化問題など)。
大不況の中、広告収入の減少などによってマスコミ各社が経営難になって潰れていくことも、多極化の一環と言える。
 
米英が中心だったG8は、世界の中心的な機関としての地位を、新興諸国が力を持つより多極型のG20に取って代わられた。
ドルの基軸制が崩壊しそうなので、多極型の基軸通貨体制に移行しようという提案も各国から次々と出ている。
米英中心の体制が崩れ、世界が多極化している観が強まっている。
 
 こうした彼の視点が妥当かどうかは意見の別れるところでしょうが、「どんなに権威ある人の言い分だろうが鵜呑みにせずに自分の頭で考える」という等身大の姿勢には大変好感が持てます。
 彼は自分なりの仮説や未来予測を積極的に発信し、たとえ具体的な予測が外れてもうやむやに誤魔化すことなく「自分が予測を外した理由」を検証して見せ、その欠点を乗り越えるような新たな説を再提案します。

 逆に、田中宇を権威ある識者と見なして彼の書いていることを「これこそが真実だ」と鵜呑みにしている陰謀論信者がいれば、たとえその発言が彼と同じ内容であろうと、その軽々しく信じこむ姿勢の方に気味の悪さを感じます。
 私も彼が実践しているように「健全な疑いの姿勢」を貫いていきたいものです。
 
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