間違ってもいいから思いっきり

私たち人間は、言葉で物事を考えている限り、あらゆるものを「是か非か」と格付けする乱暴な○×ゲームに絶えず影響されています。ここでは、万人が強制参加させられているこの言語ゲームを分析し、言葉の荒波に溺れてしまわないための知恵を模索していきます。

選挙制度の問題点から「支持政党なし」の主張を分析する

 2014年の第47回衆議院選挙で、「支持政党なし」という変わった名前の政党が北海道比例ブロック有効票の4.2%にあたる104854票を獲得しました。
http://mrbachikorn.hatenadiary.jp/entry/2016/06/22/233459mrbachikorn.hatenadiary.jp
 この党は、2016年の第24回参議院選挙でも比例代表全国区に2名立候補し、北海道、東京、神奈川、大阪、熊本の5選挙区で候補を擁立しました。
 
 「支持政党なし」の理念は、政党としての政策理念を全く持たずに、ただただ支持者の民意を国会での議決にできるかぎり反映させること。
 個別の法案ごとに支持者から賛否の声をネットやスマホで集め、当選した議員はその支持者の声の比率のままにしか議決権を行使しないというのが彼らの公約です。
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 この斬新過ぎる政党に対するリアクションはさまざま。
 その理念を「おもしろい」と好意的に評価する、「支持政党なし」が党名だと気付かない有権者から票を騙し取ろうとしていると決め付ける、その両論を併記して問題提起だけする、などなど。
 
 「支持政党なし」が問題にしているのは、現行の選挙制度では国民の声が政治にきちんと反映されないということ。
 たとえば、仮に「この人なら信頼できる」と思えた人に票を投じてその人が当選したところで、その議員が何らかの政党に所属していれば議決権は党の方針のためのコマとして消費されるだけで、選挙民の意志を反映するためには使われません。
 政党というものが所属議員の議決行為を支配している限り、有権者は既存の政党から自分に合うところを見付けるしかないわけで、全ての法案について意見が合致するような党を見付けるのは至難の業です。
 
 このようにして支持政党が見付けられずに困っている有権者にとって必要なのは、議員や政党に民意を代表させる間接民主主義ではなく、全ての議決に有権者みんなが関わる直接民主主義だというのが「支持政党なし」の考え方です。
 つまり、政策を全く掲げずにネットによる直接民主主義を目指すという「支持政党なし」の手法は、「現行の選挙制度のままでは民意を反映できないじゃないか」という類の民意を「現行の選挙制度の範囲内」で国家に突き付けるためのアイデアとも見れるわけです。
 
 この政党が党名を「支持政党なし」にした意図も、有権者から票を騙しとるためというよりは、現行の選挙制度を不満に思う人の声を「実際の選挙結果」という形ある姿にして届けるためと考えた方が妥当でしょう。
 だいたい、支持する政党を持たない人が「支持政党なし」のことを知らずに投票所にやってきて、わざわざ「支持政党なし」「支持なし」という言葉を選んで投票用紙に書いて帰るという事態が果たしてどれだけ起こるというのか。
 選挙演説をし、ポスターを貼り、ホームページやブログやテレビや雑誌の取材などを通じて積極的にPRしようとしている人たちが、立候補者一人あたり数百万円の供託金を払った上で、確率の薄い誤投票だけを狙っているというのは辻褄が合わないでしょう。
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 当選した後はネットによる直接民主主義を目指すという公約がどこまで信頼できるものかは分かりませんが、彼らは少なくとも「支持政党なし」が政党名だと有権者に分かってもらった上で、現状の政党政治に不満があるなら自分たちに投票することでアピールの機会にして欲しいと望んでいるはずです。
 世間の注目は「既存の枠内での勢力争い」にばかり集まりがちですが、その枠組み自体を問いただそうとする姿勢も忘れずにいたいものですね。
 
sirabee.com
jin115.com
grapee.jp
netgeek.biz
m.huffpost.com

「死ね」と言われるような国でも楽しく生きる3つの方法

どうすんだよ会社やめなくちゃならねーだろ。
 
ふざけんな日本。
 
保育園増やせないなら児童手当20万にしろよ。
 
保育園も増やせないし児童手当も数千円しか払えないけど少子化なんとかしたいんだよねーってそんなムシのいい話あるかよボケ。
 
国が子供産ませないでどうすんだよ。
 
金があれば子供産むってやつがゴマンといるんだから取り敢えず金出すか子供にかかる費用全てを無償にしろよ。
 
 これは2016年2月15日にインターネット上で投稿された「保育園落ちた日本死ね!!!」という記事の一部を抜粋したものです。
http://anond.hatelabo.jp/touch/20160215171759
 この記事は、最初の一週間はインターネット上でどんどんと拡散されていき、二週目からはテレビでも「インターネットで話題の記事」としてポツポツと取り上げられ始めました。
 
 こうした待機児童の問題がなかなか解消されない現状の日本で、楽しく生きていくにはどうしたらいいか。
 そんな問題を考えるのに参考になりそうな、三者三様の意見を今回は紹介してみたいと思います。
 
 まず最初に紹介するのは「子育てに関する日本の現状を変えていこう」とする王道の意見です。
www.komazaki.net
 
 都内で13園の小規模認可保育所を経営している駒崎弘樹は、「政府はいろいろと対策をこうじており、平成25年あたりから保育所数は劇的に増えているが、認可保育所に申し込む人が増えたこともあり、待機児童は減らせず、むしろ若干増えている」と報告します。
 その上で、この問題を解消していくには予算の壁、自治体の壁、物件の壁という3つの壁を崩さなければならないと述べますが、これらの壁を突き崩せるほど政府はこの問題に関心を抱いていないと論じます。
 
 その現状認識の上で彼が提案するのは、政府に対してもっと怒ること。
 彼は、ベビーカーを押すママたちが区役所前でデモをしてメディアに取り上げられた「杉並保育園一揆」が杉並区の認可保育園増設を加速させた例を取り上げ、現状を変えるには行政が無視できないほどに議論を加熱させるためのロビイングが必要であり、結局のところそれらを実現するほどの熱量が足りていないから日本はこの現状に甘んじてしまっていると読み解きます。
 その意味で、この「保育園落ちた日本死ね!!!」のような叫びは必要なものであったと意味づけます。

 
 この正攻法の議論の欠点は即効性がないことであり、5~10年先に子どもを生みたい若者たちのために起こす行動としては有効でしょうが、今すぐ子どもを生みたい人たちの策としては適当ではないかもしれません。
 そうした「今すぐ子どもを生みたい人」のために役立ちそうな記事が、こちらの「保育園の第一志望受かったけどやっぱり日本死ね」です。
 そこで書かれていた基本的な心構えや、筆者が実施した策の概要を抜粋してみましょう。
http://anond.hatelabo.jp/touch/20160218153103
 
こと保育関連については、この国を「日本」だと思ってはいけない。
東南アジアか中南米の行政糞国家の住民になったつもりで対策を立てた方がいい。
 
事実上、この国では首都で子どもを産み育てることは罰則の対象だ。
マジで日本死ね
 
うちは夫婦ともに海外(非欧米圏)での駐在経験があったので、国家の政策や行政のケア能力や社会のセーフティネットを最初から信用しておらず、かつ地味な情報収集やかゲームの裏技探し的な作業が夫婦共通の趣味だったことで勝てた感じである。
 
保活は各地区や各家庭環境によって動き方が異なるため絶対の解はない。
だが、不幸にも子どもを生んだせいでこの糞国家と糞行政に自分の人生を壊されたくない人のために、うちが保活の各段階で何を意識して、何をやっていたかをここで書いておこうと思う。
 
妊娠が判明し、両親への報告と産婦人科受診が終わったら、すぐに区役所の保育園関連課(名称は各区で違う)詣でを開始。
赤ん坊がミリ単位のおさかな生物状態のときから動く。
 
この段階では区役所側もヒマなので、早めに動いている人は歓迎される。
こと保活問題に関して、日本国家と地方行政はわれわれの人生を破壊する最低のゲスどもだが、その怒りや恨みを末端の小役人にぶつけてはいけない。
恫喝などはもってのほか。
むしろ、誠意ある態度で手続きについて教え請い、好感を持たれるようにこちらの顔と名前を相手側に刷り込む。
 
~中略~
 
他の行政糞国家と違って札束攻勢が通じないため、とにかく相手がヒマなときに接触回数を増やして篭絡するほうがいい。
日本人は実利的な利益がなくても情実のある長期的な人間関係が成立すれば相手に便宜を図る傾向がある。
 
結果、わが家は区役所方面から、保育点数を増やす上で合法の範囲内だが際どい裏技をリークしてもらった。
 
 つまり、保育に関しては「行政が何とかしてくれる」なんて受け身の期待を日本では決して持ってはならないということ。
 相手が糞みたいな国家ならばわざわざそれを変えようとはせずに、相手が糞であることは前提として認めた上で「糞国家に上手く取り入る方法」を模索したということです。
 
 そして、最後に紹介するのは女優の山口智子のインタビュー記事です。
http://laughy.jp/1455587836854186031laughy.jp
 
 この糞みたいな国で楽しく生きるために紹介した一つ目の考え方が国の現状を変える活動をすること、二つ目の考え方が国は変えずに糞国家に合わせて対応することでした。
 ですが、この国の糞みたいな部分は、生みたくても生めないことだけではなく、生まない人を生きづらく追い込むことでもあります。
 
 子どものいる家庭を標準と見なし、子どものいない家庭に対しては「まだいない」と未熟扱いしたり、「欲しくてもできない」とか「不仲なのか」と勘ぐって異端扱いするような「子なしハラスメント」が、日本ではまだまだ恥ずかしげもなく横行しています。
 そんな現状に、山口智子は雑誌のインタビューでこう答えて対抗しました。

私は、子供のいる人生じゃない人生がいい
 
子供を産んで育てる人生ではない、別の人生を望んでいました
 
 つまり、この糞みたいな国で楽しく生きる3つ目の考え方は、子のいない人生を選ぶこと。
 そして、世間の糞みたいな「子なしハラスメント」を蹴散らすことです。
mrbachikorn.hatenablog.com
 
 国の現状を変える、糞みたいな国に順応する、子がいる人生ばかりに囚われない、楽しくは生きない、などなど、どの生き方を選ぶかは本人次第。
 最終的に、自分の納得のいく選択をしたいものです。
 
 
※当ブログの主なテーマは、この世界を支配する「正しさ」という言葉のプロレスとの付き合い方。
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そのプロレス的世界観を支えている固定観念の源を「記述信仰」と名付け、その実態を以下のような図にまとめて解説しています。

人権思想もハラスメントの乱立も立派な武器

 すべての人間は生まれながらにして侵害されてはならない権利を有しているというのは、誰かが思い付いた作り話です
 ですがこのフィクションのあらすじは、フランス革命をきっかけとして西洋社会を中心に広まっていき、今現在の国際社会では無視することのできない強大なストーリーへと成長しています。
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 こうした「人権思想」も含むいくつもの作り話の積み重ねの上に成り立っているのが、私たちの生きる人間社会です。
 そんな人間社会を生きていくのに必要な知恵とは、身の回りではどの作り話がどれだけの力を持っているのかという「力関係の情勢」を察知し、その圧力の荒波に食い殺されてしまわないように気を付けておくことです。
 
 そういった意味で、前回は日本における育休と人権の話題を取り上げました。
 そのときまとめたラフスケッチは以下のようなものです。
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近代以前の封建的な支配の現実への対抗手段として「人権とはすべての人間が生まれながらにしてもっているものであり、その普遍的な人権を侵害する行為は許されるものではない」という方便が生まれ、この聞こえの良い大義名分を武器にのし上がった近代国家群が世界を席巻するようになった。
 
この「天賦人権説」を尊重しているようにふるまわないと相手にしてもらえなくなるような圧力が欧米を中心に広がっていき、日本もその圧力に巻き込まれて表向きは「天賦人権説を尊重する」という立場をとるようになった。
 
それによって「最低限の生存権が保障されている比較的マシな国だ」と見なされるようになってきた日本だが、女性の権利、子どもの権利、労働者の権利といった諸々の件で「まだまだ遅れている」とお叱りを受けることも多い。
 
日本においてリベラルと呼ばれる人々は、こうした国際的圧力を背景に「天賦人権説を蔑ろにするとは何事だ」といった綺麗事を恥ずかしげもなく口にする傾向がある。
 
保守と呼ばれる人々は「天賦人権説は近代における新たな支配体制のための建前・フィクションに過ぎない」という本音ベースの共感力を武器に、日本が公式には天賦人権説を尊重する立場にあることを軽んじるような言動をとる傾向がある。
 
 このまとめを通じて私がまず言いたかったのは、どの立場にも「客観的な正しさ」という次元でのアドバンテージはないということ。
 私たち人間は意図的にしろ無意識のうちにしろ、自分が巻き込まれてきた世界の力関係に応じて、それぞれが「支持する立場ごとの作り話」を演じているに過ぎないということです。
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 この手の作り話の最大手はもちろん「人権」ですが、この物語が創作されたおかげで「人権侵害」というレッテル貼りの技術が普及し、そのおかげで生命の危機や理不尽な支配から逃れられる人が増えたという功績があります。
 大事なのはその「お話」によってどんな変化が生まれるかという効果の方であり、その話がこの世の真理だろうが誰かが思い付いた作り話だろうがそんなことは大した問題ではないというのがその次に言いたかったことです。
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 このように、現象に名前をつけ、それに合わせてストーリーを築いていけば、影響力次第で世の中も変わっていきます。
 そして、レッテル貼りの王様である「人権侵害」のバリエーションとして、今もなお次々と発明されているのが「~~ハラスメント」というレッテル貼りです。
 
 パワハラ、セクハラが定義づけられたからこそ、部下の嫌がる行為の一部を上司が控えるようになりました。
 アルハラが定義されたおかげで、アルコールの強要による苦痛を受けずに済む人がだんだんと増えてきました。
 そして、マタハラという言葉によって「子どもができたら退職を無理強いさせられる」といった問題が定義され、まだ改善されてはいないにしろ「問題だ」という意識は広まりつつあります。
 
 こうして次々と開発されていく新造のハラスメントに対して、「なにかにつけて『ハラスメント』と言われるようになったためにやりにくくなった」と苦情を付けたがる人も、世の中には数多く存在します。
 その中には、世の中はでっちあげの綺麗事のように上手くは行かず、そんな理想論を無視した方が現実的に上手くいくんだという本音まじりの言い分も幅を利かせています。
 
 これは、どちらが正しいという話ではなく、どちらの圧力が優位にことを進められるかという「単なる戦争」です。
 人権侵害もハラスメントもただの作り話でしかありませんが、この種の戦争を戦うための立派な武器ではあります。
 どちらの陣営の味方をするか、どの陣営とも距離を置くのか、なんてことはそれぞれが好みや立場に応じて勝手に選べばいいでしょう。
 
 最近では「繊細チンピラ」や「クソバイス」といった造語による新たなレッテル貼りも、不快な攻撃から身を守るための武器として開発されています。
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 そしてこうした「武器としての作り話」や「武器としてのレッテル貼り」は、これから先もどんどんと作られていくことでしょう。
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 このように、私たちの世界が作り話で埋め尽くされていくこと自体は、特に嘆くべきことではありません。
 なぜって、そもそも私たちが言葉を使って考えているようなことはすべて、過去に作られてきた作り話の再利用や組み合わせでしかないんですから。
 
 「作り話でない本当の話がどこかにあるはず」「客観的な正しさ」といった『真理』の概念自体が、この「単なる戦争」を戦うための武器として発明された作り話。
 作り話であることを嘆いてしまう癖そのものは、『真理』という巧妙な大量洗脳兵器の圧力に負けている証拠なんです。
 
 
※当ブログの主なテーマは、この世界を支配する「正しさ」という言葉のプロレスとの付き合い方。
mrbachikorn.hatenablog.com
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そのプロレス的世界観を支えている固定観念の源を「記述信仰」と名付け、その実態を以下のような図にまとめて解説しています。

好ましい世界は自分たちで作るしかない

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自分が今いる場所が「ろくでもない場所」であり、まわりにいるのは「ろくでもない人間」ばかりなので、「そうではない社会」を創造したいと望む人がいるかもしれない。
残念ながらその望みは原理的に実現不能である。
 
人間は自分の手で、その「先駆的形態」あるいは「ミニチュア」あるいは「幼体」をつくることができたものしかフルスケールで再現することができないからである。
どれほど「ろくでもない世界」に住まいしようとも、その人の周囲だけは、それがわずかな空間、わずかな人々によって構成されているローカルな場であっても、そこだけは例外的に「気分のいい世界」であるような場を立ち上げることのできる人間だけが、「未来社会」の担い手になりうる。
 
 これは、以前紹介した内田樹の言葉。
 この世の欠陥をどれだけ的確に指摘することができたとしても、これまで自分の周りに「気分のいい空間」を少しも築いてこなかったような「気分の悪い人」が、これから「今よりも気分のいい社会」を実現する可能性は極めて低いでしょう。 mrbachikorn.hatenablog.com
 
 大言を吐いている暇があったら、まずは身近な問題から。
 さらに、内田樹は以下のように続けています。

 
人間社会を一気に「気分のいい場」にすることはできないし、望むべきでもない。
「公正で人間的な社会」はそのつど、 個人的創意によって小石を積み上げるようにして構築される以外に実現される方法を知らない。
 
だから、とりあえず「自分がそこにいると気分のいい場」をまず手近に作る。
そこの出入りするメンバーの数を少しずつ増やしてゆく。
 
別の「気分のいい場」で愉快にやっている「気分のいいやつら」とそのうちどこかで出会う。
そしたら「こんちは」と挨拶をして、双方のメンバーたちが誰でも出入りできる「気分のいい場所」ネットワークのリストに加える。
 
迂遠だけれど、それがもっとも確実な方法だと経験は私に教えている。
 
 そんなわけで、この世を住み良くするために私がしている身近な努力とは、長野を拠点に活動している歌舞劇団田楽座の舞台を、より多くの人に観てもらうための活動をすること。
 田楽座とは、お祭りの場で昔から人と人とを繋いできた日本の民俗芸能の温かみを舞台で伝えているプロ集団。www.dengakuza.com
 2004年に長野から田楽座を呼ぶための実行委員会を福岡で立ち上げ、活動を拡大していく中で長崎や大阪や堺や奈良や姫路の実行委員会とも交流を深めてきました。mrbachikorn.hatenablog.com
 
 2009年に関西に引っ越してからは西宮に「楽太鼓 笑宴快(ええんかい)」という和太鼓チームを立ち上げ、民俗芸能というジャンルへの興味を触発しようと試みてきました。
 そして、そこで知り合った西宮の仲間たちが「笑う門には田楽座実行委員会」という会を立ち上げ、2013年には初めての田楽座公演を開催するに至りました。
 
 こうして私たちなりの「気分のいい場所」ネットワークを広げていく中で「こんちわ」と出逢うことができたのが、NPO法人「人と地域の活動応援団ぽっかぽか」です。
 ぽっかぽかとは、都会の中で弱体化しつつあるコミュニティの結束力を取り戻すため、行政だけに頼らず自分たちの手でやれることをしていこうと活動している団体。
 放課後の子どもたちの居場所を作るために、校長と直接交渉をして小学校の敷地内に事務所を建てるなど、既存の枠に捕らわれない活動をしています。
 
 ぽっかぽかは、校区に関係なく子どもたちが立ち寄れる居場所というだけでなく、日本の伝統文化を次の世代に少しでも残していくための活動として、昔の遊び体験、そば打ち体験に着付け教室まで、幅広く活動しながら、それと同時に親の世代の横の繋がりをも育んでいます。
 そんなぽっかぽかと西宮の仲間たちが出会うことで、「瓦木楽太鼓たたき隊」という子どもたちのための太鼓チームが生まれました。
 「和太鼓を通じて世代を越えた繋がりを地域に築いていきたい」というぽっかぽかの願いに応えて、私も西宮の子どもたちと楽しく関わらせてもらっています。
 
 そして2015年、西宮の地域活動に貢献するため、西宮のための新たなお囃子「えびす田笑囃子 八祭(やっさい)」を、田楽座に作曲していただきました。
 2015年10月10日(土)開催の田楽座西宮公演で初お披露目するこの曲とともに、これからもええんかいと西宮実行委員会は西宮の地域活動に貢献していきます。
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 こういった経緯から、冒頭で紹介した内田樹の言葉には深く共感することができました。
 たとえどんな小さな一歩からであっても、愉快な実践を積み重ねていけば「気分のいい場所」のネットワークは確実に広がっていくんです。
 
  
※当ブログの主なテーマは、この世界を支配する「正しさ」という言葉のプロレスとの付き合い方mrbachikorn.hatenablog.com

※そのプロレス的世界観を支えている「記述信仰」の実態を、簡単な図にしてまとめています。mrbachikorn.hatenablog.com

日本はまだ主権国家ではない

 アメリカと日本の関係は、藤子不二雄Fの漫画『ドラえもん』における乱暴者ジャイアンとその舎弟スネ夫との関係のように喩えられることがあります。
 その現状が不満な日本人の中には、主権国家である日本は出来杉くんのような自立した優等生を目指すべきだという声が上がります。
 そして、どのような道筋で出来杉くんを目指すべきかという方法論の段階で右派と左派の意見は食い違うため、平行線の罵り合いが何十年も慢性的に繰り返されています。
 
 平和憲法の縛りによって軍事力を去勢されている現状を打破して「一人前の外交力を持った普通の国になりたい」とする右派の主張には、左派の側から「それは出来杉くんではなく乱暴者のジャイアンを目指す道だ」という批判が飛びます。
 「軍事力なんてなくても平和憲法の理想を堂々と訴えていけば日本は世界の模範になれる」とする左派の主張には、右派の側から「それは無力にやられるだけののび太を目指す道であり、平和憲法にはドラえもんの秘密道具のように都合よく助けてくれる力などない」といった批判が飛びます。
mrbachikorn.hatenablog.com
 
 こうした批判の応酬に対して「日本の現状はスネ夫なんかよりも遥かにひどいのに、そこを見ずに議論すること自体が無意味だ」と諭しているのが思想家の内田樹です。
 日本に平和憲法を押し付けながらも後に自衛隊の設立を後押ししたアメリカ側の思惑を「日本を無害かつ有益な属国の立場に留めておくこと」とする彼の言い分を翻訳すると、「スネ夫にはまだ個人としての自我がある分日本よりもマシだが、日本には国家の自我ともいうべき主権がいまだに存在していない」ということになるでしょう。
mrbachikorn.hatenablog.com
 
 そもそも出来杉くんになるのかジャイアンになるのかのび太になるのかという国としての選択は、日本国民が自らの意思で勝手にできることではない。
 この大前提から目を背けていては「自立した出来杉くん」になんて到底なれやしないといった類いの主張を、彼はそのブログや著作の中で繰り返してきました。
 その一例として、2015年6月22日のブログ記事の一部を抜粋してみましょう。
http://blog.tatsuru.com/2015/06/22_1436.php
 
まず私たちは、「日本は主権国家でなく、政策決定のフリーハンドを持っていない従属国だ」という現実をストレートに認識するところから始めなければなりません。
国家主権を回復するためには「今は主権がない」という事実を認めるところから始めるしかない。
 
病気を治すには、しっかりと病識を持つ必要があるのと同じです。
「日本は主権国家であり、すべての政策を自己決定している」という妄想からまず覚める必要がある。
 
戦後70年、日本の国家戦略は「対米従属を通じての対米自立」というものでした。
これは敗戦国、被占領国としては必至の選択でした。
ことの良否をあげつらっても始まらない。
それしか生きる道がなかったのです。
 
でも、対米従属はあくまで一時的な迂回であって、最終目標は対米自立であるということは統治にかかわる全員が了解していた。
面従腹背」を演じていたのです。
 
けれども、70年にわたって「一時的迂回としての対米従属」を続けてるうちに、「対米従属技術に長けた人間たち」だけがエリート層を形成するようになってしまった。
彼らにとっては「対米自立」という長期的な国家目標はすでにどうでもよいものになっている。
 
それよりも、「対米従属」技術を洗練させることで、国内的なヒエラルキーの上位を占めて、権力や威信や資産を増大させることの方が優先的に配慮されるようになった。
「対米従属を通じて自己利益を増大させようとする」人たちが現代日本の統治システムを制御している。
 
 つまり、アメリカというジャイアンとのケンカにボッコボコに負けて国土を占領された日本が出来杉くんとして再び自立するためには、一時的に「従順なスネ夫」を演じて占領主アメリカの信頼を勝ち取る必要があったということ。
 けれども、その演技を長年続けているうちに「スネ夫役を上手く演じないと出世できない構造」が日本のエリート層の中に組み込まれ、世代交代を通じて「いずれは出来杉くんとして自立する」という当初の目標が忘れ去られてしまったというわけです。
mrbachikorn.hatenablog.com
 
 内田樹は、スネ夫役を演じるという戦略が「日本の自立への道」に役立ったのは最初の27年間だけだと言います。
 彼はブログ記事の中で、日本が持っていたはずの目標が、現在のように忘れ去られていくまでの経緯を以下のように描写しています。
 
吉田茂以来、歴代の自民党政権は「短期的な対米従属」と「長期的な対米自立」という二つの政策目標を同時に追求していました。
そして、短期的対米従属という「一時の方便」はたしかに効果的だった。
 
敗戦後6年間、徹底的に対米従属をしたこと見返りに、1951年に日本はサンフランシスコ講和条約国際法上の主権を回復しました。
その後さらに20年間アメリカの世界戦略を支持し続けた結果、1972年には沖縄の施政権が返還されました。
 
少なくともこの時期までは、対米従属には主権の(部分的)回復、国土の(部分的)返還という「見返り」がたしかに与えられた。
その限りでは「対米従属を通じての対米自立」という戦略は実効的だったのです。
 
ところが、それ以降の対米従属はまったく日本に実利をもたらしませんでした。
沖縄返還以後43年間、日本はアメリカの変わることなく衛星国、従属国でした。
けれども、それに対する見返りは何もありません。
ゼロです。
 
沖縄の基地はもちろん本土の横田、厚木などの米軍基地も返還される気配もない。
そもそも「在留外国軍に撤収してもらって、国土を回復する」というアイディアそのものがもう日本の指導層にはありません。
 
アメリカと実際に戦った世代が政治家だった時代は、やむなく戦勝国アメリカに従属しはするが、一日も早く主権を回復したいという切実な意志があった。
けれども、主権回復が遅れるにつれて「主権のない国」で暮らすことが苦にならなくなってしまった。
その世代の人たちが今の日本の指導層を形成しているということです。
 
田中角栄は1972年に、ニクソンキッシンジャーの頭越しに日中共同声明を発表しました。
これが、日本政府がアメリカの許諾を得ないで独自に重要な外交政策を決定した最後の事例だと思います。
 
この田中の独断について、キッシンジャー国務長官は「絶対に許さない」と断言しました。
その結果はご存じの通りです。
アメリカはそのとき日本の政府が独自判断で外交政策を決定した場合にどういうペナルティを受けることになるかについて、はっきりとしたメッセージを送ったのです。
田中事件は、アメリカの逆鱗に触れると今の日本でも事実上の「公職追放」が行われるという教訓を日本の政治家や官僚に叩き込んだと思います。
 
それ以後では、小沢一郎鳩山由紀夫が相次いで「準・公職追放」的な処遇を受けました。
二人とも「対米自立」を改めて国家目標に掲げようとしたことを咎められたのです。
このときには政治家や官僚だけでなく、検察もメディアも一体となって、アメリカの意向を「忖度」して、彼らを引きずり下ろす統一行動に加担しました。
 
 このように本来国としてあるべき自立心を骨抜きにされてしまっている日本ですが、アメリカが永久に「世界のジャイアン」として磐石の支配力を維持していてくれるならば、保身のためにスネ夫としてジャイアンのご機嫌を取り続けるのも悪くない選択かもしれません。
 しかし、アメリカがいつまでも「世界のジャイアン」をやってくれるという保証はどこにもありません。
mrbachikorn.hatenablog.com
 
 もし将来、アメリカが「世界のジャイアン」という役割を降りるならば、日本はこれからどう対策を打っていくべきなのか。
 内田樹は次のように論を進めていきます。
 
アメリカが覇権国のポジションから降りる時期がいずれ来るでしょう。
その可能性は直視すべきです。
 
直近の例としてイギリスがあります。
20世紀の半ばまで、イギリスは7つの海を支配する大帝国でしたが、1950年代から60年代にかけて、短期間に一気に縮小してゆきました。
植民地や委任統治領を次々と手放し、独立するに任せました。
 
その結果、大英帝国はなくなりましたが、その後もイギリスは国際社会における大国として生き延びることには成功しました。
いまだにイギリスは国連安保理常任理事国であり、核保有国であり、政治的にも経済的にも文化的にも世界的影響力を維持しています。
60年代に「英国病」ということがよく言われましたが、世界帝国が一島国に縮減したことの影響を、経済活動が低迷し、社会に活気がなくなったという程度のことで済ませたイギリス人の手際に私たちはむしろ驚嘆すべきでしょう。
 
大英帝国の縮小はアングロ・サクソンにはおそらく成功例として記憶されています。
ですから、次にアメリカが「パックス・アメリカーナ」体制を放棄するときには、イギリスの前例に倣うだろうと私は思っています。
 
帝国がその覇権を自ら放棄することなんかありえないと思い込んでいる人がいますが、ローマ帝国以来すべての帝国はピークを迎えた後は、必ず衰退してゆきました。
そして、衰退するときの「手際の良さ」がそれから後のその国の運命を決定したのです。
ですから、「どうやって最小の被害、最小のコストで帝国のサイズを縮減するか?」をアメリカのエリートたちは今真剣に考えていると私は思います。
 
それと同時に、中国の台頭は避けられない趨勢です。
この流れは止めようがありません。
これから10年は、中国の政治的、経済的な影響力は右肩上がりで拡大し続けるでしょう。
つまり、東アジア諸国は「縮んで行くアメリカ」と「拡大する中国」という二人のプレイヤーを軸に、そのバランスの中でどう舵取りをするか、むずかしい外交を迫られることになります。
 
フィリピンはかつてクラーク、スービックという巨大な米軍基地を国内に置いていましたが、その後外国軍の国内駐留を認めないという憲法を制定して米軍を撤収させました。
けれども、その後中国が南シナ海に進出してくると、再び米軍に戻ってくるように要請しています。
 
韓国も国内の米軍基地の縮小や撤退を求めながら、米軍司令官の戦時統制権については返還を延期しています。
つまり、北朝鮮と戦争が始まったときは自動的にアメリカを戦闘に巻き込む仕組みを温存しているということです。
 
どちらも中国とアメリカの両方を横目で睨みながら、ときに天秤にかけて、利用できるものは利用するというしたたかな外交を展開しています。
これからの東アジア諸国に求められるのはそのようなクールでリアルな「合従連衡」型の外交技術でしょう。
 
残念ながら、今の日本の指導層には、そのような能力を備えた政治家も官僚もいないし、そのような実践知がなくてはならないと思っている人さえいない。
そもそも現実に何が起きているのか、日本という国のシステムがどのように構造化されていて、どう管理運営されているのかについてさえ主題的には意識していない。
 
それもこれも、「日本は主権国家ではない」という基本的な現実認識を日本人自身が忌避しているからです。
自分が何ものであるのかを知らない国民に適切な外交を展開することなどできるはずがありません。
私たちはまず「日本はまだ主権国家ではない。だから、主権を回復し、国土を回復するための気長な、多様な、忍耐づよい努力を続けるしかない」という基本的な認識を国民的に共有するところから始めるしかないでしょう。
 
 私も内田樹のこの「基本的な認識を国民的に共有するところから始めるしかない」という主張については大賛成です。
 たとえ現状がどんなに惨めで恥ずかしいものであろうと、そこから目を背けていてはいつまで経っても現状維持のままでしょうから。

ドラえもん (スネ夫編) (小学館コロコロ文庫)

ドラえもん (スネ夫編) (小学館コロコロ文庫)

 
 
※当ブログの主なテーマは、この世界を支配する「正しさ」という言葉のプロレスとの付き合い方
mrbachikorn.hatenablog.com

※そのプロレス的世界観を支えている「記述信仰」の実態を、簡単な図にしてまとめています。
mrbachikorn.hatenablog.com

どうして通貨危機は起こるのか

 経済の素人である私たち一般人の多くは、ニュースで通貨危機だとか金融危機といったフレーズを聞いても、具体的にはピンときていない場合がほとんど。
 ニュースのトーンから何となく「大変なことが起こったんだな」というニュアンスだけは感じることができますが、自然災害や感染症やテロや戦争等のニュースのように「人の傷病死」が直接は目に見えないため、何が大変なのかが分かりにくいのです。
 今回は、こうした私たち素人の疑問に応えてくれる一冊の参考書を紹介させていただきます。
 
“通貨”をめぐる話題が世間を騒がせている。
通貨危機」が突然のように何度も世界を襲い、なかでも2008年のリーマン・ショック大恐慌の再来のように恐れられ、衝撃を与えている。
 
その後もドバイ・ショックギリシャ危機を起点とした金融危機が発生し、その対応策として超金融緩和政策が導入され、その結果グローバルマネーが急増し、バブルの発生と崩壊の不安を高めている。
このような不安定な国際状況の下、中国などの新興国と米国、欧州などの先進国との間に「通貨安競走」が進行しているといわれており、第2次世界大戦につながった戦前の経済状況と類似していることが懸念されている。

通貨経済学入門

通貨経済学入門

 
 これは、国際通貨制度や決済システムに精通する宿輪純一による、2010年12月刊行の著作『通貨経済学入門』の序文です。
 メガバンクに勤めながら経済政策の提言などに携わり、いくつもの大学で経済学を教えてきた著者の願いは、通貨の問題をさほど理解していない日本の現状を少しずつ変えていくこと。
 彼はあとがきで、執筆の目的を以下のように語っています。
  
本書は入門書として、できるだけかみくだいて説明しており、一般の方には分かりにくい“通貨”の理解が少しでも進めば、望外の喜びである。
皆が理解することが、その国の経済政策をより高度化させると考える。
 
 このように「日本の経済をよりよくするためには、通貨への理解を国民レベルで高める必要がある」という信念を持つ彼は、一般人でも参加できる「宿輪ゼミ」というボランティア公開講義を主催し、ホームページやFacebookツイッターなどを通じて積極的な発信をしています。www.shukuwa.jp
 
 私もFacebookを通じて彼の存在を知ってからこの著書を読みましたが、国際通貨制度をめぐる近現代の歴史から現在のトピックまでを、できるだけ易しい言葉で分かりやすく紐解いてくれていると感じました。
 今回は、本書を読んでみての素人解釈を、ざっくりと乱暴に総括してみたいと思います。
 
 まずお金とは、その物自体には大して価値の無いものです。
 ですが、「日本銀行券一万円」と印刷された紙切れをコンビニエンスストアに持っていけば、「100円」と値付けられたパン100個と交換することができます。
 それ自体食べることもできず、メモ紙としてもちょっとしか使えないようなインクまみれの紙っぺらが、大量の食料と交換できてしまうんです。
 
 もしこの紙っぺら(貨幣)が存在せず物々交換しか交換の手段がなければ、互いに交換物を持ち寄った上で、お互いが条件に納得し合うという面倒くさい手間をかけないことにはその交換が成立しません。
 人類同士の「交換」という行動は、貨幣の誕生という一大事によって手軽になり、そのおかげで驚くほど活発になっていったのです。
 
 そんな貨幣の中でも、国の法律に基づいて法的通用力がある貨幣のことを「通貨」と呼ぶそうです。
 単なる紙切れでしかない通貨が「交換の手段」として国内で通用していられるのは、政府に「この紙切れを交換手段として使用する」という約束を守らせられるだけの統治能力があるとみなされているから。
 
 もし政府にこの約束を守らせるだけの実力がないと判断されれば、その通貨にくっついていた交換手段としての信用はなくなってしまい、単なる「インクで汚れた紙切れ」としての価値しか認められなくなってしまいます。
 このようにして、その国の通貨の貨幣としての信用が揺らぐ事態のことを「通貨危機」と呼びます。
 そしてこうした通貨危機は、歴史の中で何度も繰り返されているのです。
 
 ではなぜ通貨危機は起こってしまうのか。
 その原因は「通貨を発行できる」という政府当局(もしくは中央銀行)の特権的地位にあります。
 
 完全な素人考えで言うと、十分な量の通貨が既に市場に出回ってしまっているならば、それ以上追加で通貨を発行する必要なんてそもそもないはずですが、実際には通貨は発行され続けています。
 そこにはもちろん「市場規模が拡大すると交換に必要な通貨が足りなくなって経済活動が鈍るから」という大義名分もあるのでしょう。
 ですが、それ以外に「政府当局(中央銀行)の国内で使える資金が通貨を刷った分だけ増える」という、まるで錬金術のような誘惑もあるのです。
 
 ただしこの錬金術にはインフレという副作用があります。
 額面上の通貨がいくら増えたところで、市場で交換される物やサービスの総価値が増えなければ、物やサービスに対する通貨の価値は下がります。
 この「商品に対する通貨の価値の低下=額面上の物価上昇」が急激に起きてしまえば、「交換手段として役に立つ」という通貨への信頼が大きく損なわれ、「価値があると思って貯蓄してきた手持ちの通貨では商品を手にいれられない」といったパニックを招いてしまうのです。
 
 こうした通貨危機は戦争(政府当局が大量のお金を必要とする事業)があるたびに何度も引き起こされ、その都度反省も繰り返されてきました。
 そんな反省の上に、金本位固定制という国際通貨制度が1880年から1913年までの間、イギリスの主導で比較的安定的に運営されたそうです。
 この制度は、各国の通貨と純金との交換比率を固定することで「通貨がただの紙切れになってしまうのでは」という信用への不安を和らげる働きがあったのです。
 
 ですが、この金本位固定制は第1次世界大戦中に破棄されてしまいます。
 その後、第2次世界大戦後に生まれて1945年から1971年まで運営されたのが、各国の通貨とドルの交換比率を定め、35ドルを純金1オンスと交換するというブレトンウッズ体制です。
 この当時のアメリカ以外の国の通貨の信用は、『「純金と交換できるドル」と交換できる』という二重構造で成り立っていたわけです。
 
 このブレトンウッズ体制も、ベトナム戦争時の大量発行でドルの信用が損なわれ、ドルを金に交換する動きが世界的に高まったことに危機感を覚えたアメリカが金とドルとの交換を一方的に停止したことで終了します。
 これによって、国際通貨制度から「金との交換」という信頼性の拠り所が失われ、身勝手なドルのみを中心軸とするリスキーな変動相場制へとなし崩し的に移行しました。
 
 普通の通貨であれば、発行主が巨額の借金を作っているにも関わらず、さらに膨脹を繰り返して信用を損ない続けるドルの、通貨としての寿命はそう長くないはずです。
 ですがドルは、世界の通貨制度の屋台骨を担っているという立場を人質にとって、ピンチを迎える度に各国からの協力を引き出して延命を図ることができるものだと、完全にタカをくくっているようにも見えます。
 
  このような経緯から通貨危機へのリスク感覚が麻痺したのか、現在世界には発行されすぎた莫大な量の通貨が「相場で儲けを獲るマネーゲーム」のために動いています。
 世界中の実体経済の動きを反映する貿易取引量は、通貨同士の売買の動きを表す為替取引量のたった1%に過ぎないと言います。
 無節操に自由化されて大量のグローバルマネーを素早く動かせるようになってしまった金融市場は、儲けのためにちょっとの刺激にも過敏に反応して乱高下するようになり、売買の標的となった国に通貨危機をもたらしやすくなっているのです。
 
 こんな不安定な国際通貨制度を脱却すべく、ユーロや人民元といったドル以外の国際通貨で取引をする枠組みもだんだんと広がっていると言います。
 これから先、ドルという「裸の王様」が本当に裸だったとさらけ出される事態がやってくるのかもしれません。mrbachikorn.hatenablog.com
 
 
※当ブログの主なテーマは、この世界を支配する「正しさ」という言葉のプロレスとの付き合い方mrbachikorn.hatenablog.com

※そのプロレス的世界観を支えている「記述信仰」の実態を、簡単な図にしてまとめています。mrbachikorn.hatenablog.com

アメリカの自殺願望を疑ってみる

 私が考える情報リテラシーとは、話題の前提を疑う習慣のこと。
 これまでも、そんな内容の記事をいくつか紹介してきました。
 
「真実を見極めた『つもり』に振り回される愚かさ」mrbachikorn.hatenablog.com
「話の前提を操作するパワーゲームとの付き合い方」mrbachikorn.hatenablog.com
「そもそも洗脳のために『正しさ』は造られている」mrbachikorn.hatenablog.com
「言葉の用途は『物事の描写』なんかじゃない」  mrbachikorn.hatenablog.com
 
 そして今回紹介するのは、国際情勢解説者の田中宇の話題の前提を疑う姿勢について。
 報道の世界にいた彼は、報道にかかる政治的なバイアスを読み解くために世界中のニュースを多読しながら比較検討し、そうすることで見出だした独自の視点による解釈を「田中宇の国際ニュース解説」というウェブサイト上で発信し続けています。tanakanews.com
 
 彼の視点の一番の特色は、アメリカの指導者の多くが、アメリカの立場を危うくして自滅させるために、わざと失策を重ねているという見方。
 最近の彼の著作「金融世界大戦 第三次大戦はすでに始まっている」にもそんな彼の視点がまとめてあるので、引用して紹介してみましょう。

 
私が自分なりに国際政治を何年か分析してきて思うことは「近代の国際政治の根幹にあるものは、資本の論理と、帝国の論理(もしくは国家の論理)との対立・矛盾・暗闘ではないか」ということだ。
キャピタリズムナショナリズムの相克と言ってもよい。
 
第一次大戦以来、人類の歴史の隠された中心は、イギリスの国家戦略の発展型である「米英中心主義」(帝国の論理)と、資本主義の政治理念である「多極主義」(資本の論理)との相克・暗闘であり、それが数々の戦争の背景にある。
 
帝国・国家の論理、ナショナリズムの側では、最も重要なことは、自分の国が発展することである。
他の国々との関係は自国を発展させるために利用・搾取するものであり、自国に脅威となる他国は何とかして潰そうとする(国家の中には大国に搾取される一方の小国も多い。「国家の論理」より「帝国の論理」と呼ぶ方がふさわしい)。
 
半面、資本の論理、キャピタリズムの側では、最も重要なことは儲け・利潤の最大化である。
国内の投資先より外国の投資先の方が儲かるなら、資本を外国に移転して儲けようとする。
帝国の論理に基づくなら、脅威として潰すべき他国でも、資本の論理に基づくと、自国より利回り(成長率)が高い好ましい外国投資先だという、論理の対峙・相克が往々にして起きる。
 
帝国の論理に基づき国家を政治的に動かす支配層と、資本の論理に基づき経済的に動かす大資本家とは、往々にして重なりあう勢力である。
帝国と資本の対立というより、支配層内の内部葛藤というべきかもしれない。
 
重要なのは、アメリカの上層部が、自分たちが世界の中心であり続ける「米英中心主義」ではなく、あえて中国やロシア、インドなどに覇権を譲り渡す「多極主義」を選ぶ、ということである。
私は、その理由が「資本の論理」にあるのではないかと考えている。
 
欧米や日本といった先進国は、すでに経済的にかなり成熟しているため、この先あまり経済成長が望めない。
地球温暖化対策が途上国の足かせとして用意されていることを見るとわかるように、今後も欧米中心の世界体制を続けようとすることは、世界経済の全体としての成長を鈍化させることにつながる。
これは、世界の大資本家たちに不満を抱かせる。
欧米中心主義を捨て、中国やインド、ブラジルなどの大きな途上国を経済発展させる多極主義に移行することは、大資本家たちの儲け心を満たす。
 
 こんな風に「アメリカは欧米中心主義を捨てようとしている」などと書かれても、アメリカに対する「自己中心的で傲慢な正義をゴリ押しする国」といった一般的なイメージとのズレを感じる人もいるでしょう。
 そのズレを埋めるために、まずは田中宇なりの「覇権」の定義と、イギリスというサンプルを用いた解説を見てみましょう。
  
国際政治を考える際に「覇権」(ヘゲモニー、hegemony)という言葉はとても重要だ。
国家間の関係は、国連などの場での建前では、あらゆる国家が対等な関係にあるが、実際には大国と小国、覇権国とその他の国々の間に優劣がある。
今の覇権国はアメリカである。
覇権とは「武力を使わずに他国に影響力を持つこと」である。
 
なぜ世界を支配するのに、武力を使わない覇権というやり方が必要なのか。
結論から先に書くと「民主主義、主権在民が国家の理想の姿であるというのが近代の国際社会における建前であり、ある国が他国を武力で脅して強制的に動かす支配の手法は、被支配国の民意を無視する悪いことだから」である。
 
この建前があるため、表向きは、武力を使わず、国際政治の分野での権威とか、文化的影響力によって、世界的もしくは地域諸国に対する影響力が行使され、それが覇権だということになっている。
実際には、軍事力の強い国しか覇権国になれないので、武力が担保になっている。
 
人類史上、初めて世界的な覇権を構築したのはイギリスである。
イギリスが世界覇権を初めて構築できた主因は、1780年代から産業革命を引き起こし、それまで馬力や人力、水力などしかなかった動力の分野に蒸気機関やガソリンエンジンをもたらし、汽船や鉄道などを開発し、交通の所要時間の面で世界を縮小させたからである。
 
フランス革命自体、その少し前に起きたアメリカの独立とともに、イギリスの資本家が国際投資環境の実験的な整備のために誘発したのではないかとも思える。
フランス革命によって世界で初めて確立した国民国家体制(共和制民主主義)は、戦争に強いだけでなく、政府の財政面でも、国民の愛国心に基づく納税システムの確立につながり、先進的な国家財政制度となった。
それまでの欧州諸国は、土地に縛られた農民が、いやいやながら地主に収穫の一部を納税する制度で、農民の生産性は上がらず、国家の税収は増えにくかった。
 
フランス革命を発端に、世界各地で起きた国民国家革命は、人々を、喜んで国家のために金を出し、国土防衛のために命を投げ出させる「国民」という名のカルト信者に仕立てた。
権力者としては、国民に愛国心を植え付け、必要に応じて周辺国の脅威を煽動するだけで、財政と兵力が手に入る。
国民国家にとって教育とマスコミが重要なのは、このカルト制度を維持発展させる「洗脳機能」を担っているからだ。
 
国民国家は、最も効率のよい戦争装置となった。
どの国の為政者も、国民国家のシステムを導入したがった。
王候貴族は、自分たちが辞めたくないので立憲君主制国民国家制を抱き合わせる形にした。
また「国民」を形成するほどの結束力が人々の間になかった中国やロシアなどでは、一党独裁で「共産主義の理想」を実現するという共同幻想を軸に「国民」の代わりに「人民」の自覚を持たせ、いかがわしい「民主集中制」であって民主主義ではないものの、人々の愛国心や貢献心を煽って頑張らせる点では国民国家に劣らない「社会主義国」が作られた。
 
ナポレオンが英征服を企てた点では、フランス革命はイギリスにとって迷惑だった。
だが、フランス革命を皮切りに、欧州各国が政治体制を国民国家型(主に立憲君主制)に転換し、産業革命が欧州全体に拡大していく土壌を作り、英の資本家が海外投資して儲け続けることを可能にした点では、フランス革命は良いことだった。
 
イギリスを含む欧州各国は、キリスト教世界として同質の文化を持っていたので、イギリス発祥の産業革命と、フランス発祥の国民革命は、ロシアまでの全欧州に拡大した。
その中で、ナポレオンを打ち負かして欧州最強の状態を維持した後のイギリスは、欧州大陸諸国が団結せぬよう、また一国が抜きん出て強くならないよう、拮抗した状態を維持する均衡戦略を、外交的な策略を駆使して展開し、1815年のウィーン会議から1914年の第一次大戦までの覇権体制(パックス・ブリタニカ)を実現した。
 
 こうして築かれた「世界一の覇権国」としての地位は第一次大戦や第二次大戦を経てイギリスからアメリカへと譲り渡されますが、諜報活動に優れていたイギリスはマスコミや軍事産業への影響力を駆使してアメリカを利用し、米英中心の世界を演出してきたといいます。
 ですが、たとえ自国が不利益を被ろうとも自分たちが儲かればいいという資本家がイギリスの支配層に紛れていたのと同じように、アメリカの支配層にも「国家としての覇権維持よりも金儲けを優先したい」とする多極主義者が食い込んでおり、利害が食い違う米英中心主義者と暗闘を繰り広げてきたそうです。
 
 私たちがアメリカに「身勝手なジャイアン」のようなイメージを重ねていたのは、米英中心主義者の方がこれまでは優勢だったから。
 しかし、近年の世界情勢を見る限り、米英中心主義者のふりをした「隠れ多極主義者」たちが活躍することで、形勢は逆転しつつあると彼は分析しています。
 その解説をご覧ください。
  
アメリカの「自滅主義」は、多極主義者がホワイトハウスを握っているにもかかわらず、世論操作(マスコミのプロパガンダ)などの面で米英中心主義者(冷戦派)にかなわないので、米英中心主義者の戦略に乗らざるを得ないところに起因している。
相手の戦略に乗らざるを得ないが、乗った上でやりすぎによって自滅して相手の戦略を壊すという、複雑な戦略がとられている。
 
やりすぎによる自滅戦略の結果、アメリカはひどい経済難に陥り、ドル崩壊が予測される事態になった。
多極化が進むと、ドルは崩壊し、世界の各地域ごとに基軸通貨複数生まれ、国際通貨体制は多極化する。
ドルが崩壊すると、アメリカは政治社会的にも混乱が増し、連邦が崩壊するかもしれない。
 
アメリカの分析者の間では、ドル崩壊による米連邦崩壊の懸念が強まった。
多極主義者の資本家は、自国を破綻させ、ドルという自国の富の源泉を潰してもかまわないと思っているということだ。
 
彼らの本質は、16~17世紀にアムステルダムからロンドンに本拠を移転し、19世紀にロンドンからニューヨークに移り、移動のたびに覇権国も移転するという「覇権転がし」によって儲けを維持しているユダヤ的な「世界ネットワーク」である。
100年単位で戦略を考える彼らは、自分たちが米国民になって100年過ぎたからといって米国家に忠誠を尽くすようになるとは考えにくい。
 
米英中心主義者による延命策や逆流策がうまくいかなければ、ドルは崩壊し、米英中心の世界体制は崩れ、アメリカは財政の破綻と、もしかすると米連邦の解体まで起きる。
しかしアメリカが破綻するのは、イギリスなど覇権を維持したい勢力に牛耳られてきた状態をふりほどくためであり、アメリカは恒久的に崩壊状態になるのではなく、システムが「再起動」されるだけである。
いったん単独覇権型のアメリカの国家システムが「シャットダウン」された後、多極型の世界に対応した別のシステム(従来の中傷表現でいうところの「孤立主義」)を採用する新生アメリカが立ち上がってくるだろう。
 
米英を中心とする先進国のマスコミは、人々の善悪観を操作するプロパガンダマシンの機能を持つことが、少しずつ人々にばれてきた。
米英のマスコミは「人権」「民主化」「環境」といった、先進国が新興諸国を封じ込められるテーマにおいて人々の善悪観を操作する巧みな情報管理を行い、米英中心主義を維持することに貢献してきた(イスラム諸国に対する濡れ衣報道や、地球温暖化問題など)。
大不況の中、広告収入の減少などによってマスコミ各社が経営難になって潰れていくことも、多極化の一環と言える。
 
米英が中心だったG8は、世界の中心的な機関としての地位を、新興諸国が力を持つより多極型のG20に取って代わられた。
ドルの基軸制が崩壊しそうなので、多極型の基軸通貨体制に移行しようという提案も各国から次々と出ている。
米英中心の体制が崩れ、世界が多極化している観が強まっている。
 
 こうした彼の視点が妥当かどうかは意見の別れるところでしょうが、「どんなに権威ある人の言い分だろうが鵜呑みにせずに自分の頭で考える」という等身大の姿勢には大変好感が持てます。
 彼は自分なりの仮説や未来予測を積極的に発信し、たとえ具体的な予測が外れてもうやむやに誤魔化すことなく「自分が予測を外した理由」を検証して見せ、その欠点を乗り越えるような新たな説を再提案します。

 逆に、田中宇を権威ある識者と見なして彼の書いていることを「これこそが真実だ」と鵜呑みにしている陰謀論信者がいれば、たとえその発言が彼と同じ内容であろうと、その軽々しく信じこむ姿勢の方に気味の悪さを感じます。
 私も彼が実践しているように「健全な疑いの姿勢」を貫いていきたいものです。
 
 mrbachikorn.hatenablog.com
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保守とリベラルの仲良しプロレス

 プロレス興業の目的は、敵を倒すことではなく、試合をお客さんに観てもらって収入を得ること。
 プロレスがお客さんに注目してもらえる魅力的なエンターテイメントであるために、彼らは肉体を鍛え、技を磨き、演出を洗練させ、ストーリーを練り込んでいきます。
 例えば、ヒール対ベビーフェイスという軍団同士のお決まりの抗争なども、ストーリーを盛り上げてお客さんを取り込むための要素として活用されています。

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 では、日本の安全保障問題における保守とリベラルの論争は、何を目的に行われているように見えるのでしょうか。
 日本国内の当事者同士の言い分はともかくとして、この対立をアメリカ側から見れば、両者がグルになって「できの悪いプロレス」を演じているように見えるのかもしれません。
 その場合、プロレスの興業主である日本の目的は、安全保障上の盾としてアメリカを利用しつつも、アメリカへの軍事協力をネグレクトすることだと解釈されるでしょう。
 
 日本に平和憲法を押し付けながらも後に自衛隊の設立を後押ししたアメリカ側の思惑は、日本をアメリカにとって「無害かつ有益な属国」の立場に留めておくこと。
 自衛隊の活動範囲を狭く制限しておけば、アメリカの役に立つ場面自体は少なくなりますが、軍事的に去勢された日本がアメリカにとっての脅威になる危険性は減ります。
 憲法の縛りを緩くして自衛隊の活動範囲を拡大すれば、アメリカの利益のために日本の人員を活用できる場面が増える一方、将来的に日本を「自立できない属国」の立場に留めておくことが難しくなるかもしれません。
 
 アメリカとしては、日本を無害で無抵抗な属国の立場に留めたまま、より多くの場面でアメリカのために自衛隊を使い倒せる状況がベスト。
 宗主国であるアメリカ側のそんなリクエストに答えるべく、日本の政権は「国際社会への平和貢献」や「積極的平和主義」といった言い回しを駆使して、平和憲法の縛りをアメリカにとってのベストバランスにまで緩めようと努力させられます。
 
 ですがより威勢の良い右派は、日本がアメリカの属国として自立できていない状況を嫌って、アメリカにとってのベストバランスを越える程の現状変更を望んでいます。 
 憲法を改定して国としての交戦権を認め自衛隊国防軍に改名するだとか、日本も自衛のために核武装をすべきといった右派側の意見は、「日本は戦争のできる国にする気か」「日本を戦争に巻き込む気か」という左派側の反論をより一層煽ることになります。
 その結果、国論をまとめられない日本は、アメリカが求めるよりも遥かに狭い範囲でしか軍事協力ができなくなります。
 
 アメリカからすれば、日本は国の代表に「もっと協力する」と調子の良いことを言わせてアメリカ側の気を惹きながらも、最終的には「頑張ったけど無理でした」という言い訳をできるようにわざと国内でグチャグチャにもめさせているように見えるかもしれません。
 この茶番劇の目的は、アメリカへの軍事協力を最小限に絞りながらも、アメリカに対して「あなたのために尽くすつもりはちゃんとあるんです」「だから米軍は日本に置いててください」という態度だけはしっかりと見せておくこと。
 平和憲法によって防衛力を去勢された日本の、国を守るための狡猾な外交交渉の一環だととらえることができるでしょう。
 
 実りのないように見える日本のグチャグチャとした論争には、このような具体的な効能があります。
 ノンポリである私は、その論争の渦中に積極的に入っていくつもりはありませんが、やりたい者同士が活発に茶番をやりあっている分には、それを止めるつもりもありません。
 ただ、こうした茶番の材料として使われるそれぞれの陣営の説なり主張なりを真に受けて真剣に押し付けてくる輩がいれば、その相手が左派だろうが右派だろうが「お前らの茶番劇に巻き込むな」と振り払います。
 
 保守とリベラル、仲良く喧嘩しな。
 ノンポリの私はそのような心境で、日本人らしく的を外した罵り合いの様子を眺めているわけです。
 
ノンポリとして政治を眺める」mrbachikorn.hatenablog.com
 
「人殺しを抑止できるのは人を殺せる力でしかない」mrbachikorn.hatenablog.com
 
「平和とは戦線の後方でしかない」mrbachikorn.hatenablog.com
 
「真面目ぶりながら従順な子分に成り下がる日本」mrbachikorn.hatenablog.com
 
「夢や理想じゃなく日本の政治家は『どうすればアメリカが喜ぶか』が重要なんです」mrbachikorn.hatenablog.com
 
「日本の主な論争は立憲主義の仕組みをろくに理解しないままに行われている」mrbachikorn.hatenablog.com
 
「日本の安全保障は現状維持でグズグズしているくらいがちょうど良い」mrbachikorn.hatenablog.com


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ノンポリとして政治を眺める

ノンポリ
ノンポリは、英語の「nonpolitical」の略で、政治運動に関心が無いこと、あるいは関心が無い人。
元は1960-70年代の日本の学生運動に参加しなかった学生を指す用語である。
 
政治にまったく興味を持たなかった人だけではなく、政治問題に関心はあるものの次第にセクト化・過激化していった学生運動を嫌い、特定の党派に属することを拒否した人々(ノンセクト・ラジカル)なども含まれていた。
無党派の中の消極的無党派ノンポリと呼ぶことがある。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8E%E3%83%B3%E3%83%9D%E3%83%AA
 
 Wikipediaにおけるこの定義に従うならば、どんな政治運動にも荷担する気がない私の立場は「ノンポリ」に分類されます。
 これは「お前はどちらの味方か」という党派的な対立に関与するのが嫌いということであり、政治問題自体に関心がないわけではありません。
 これまでも、そういった下世話な対立の構造に簡単に組み入れられないようにと気をつけながら、自分なりに政治の問題を考えてきました。mrbachikorn.hatenablog.com
 
 とは言っても、「それを語っている当のお前は右寄りなのか左寄りなのか」とか「その発言は結局のところ現政権を批判しているのか擁護しているのか」という党派性の問題が、政治の話題をするときには必ず付いて回ります。
 この世の中では、「何が理に叶っているかを冷静に考えたい」という人の落ち着いた声よりも、「どちらの味方なのかはっきりしろ」という単細胞な人の叫び声の方が、どうしてもやかましく響きわたってしまうのです。
 
 しかし、「意見を持つこと」と「どちらかの味方をすること」は決して同じではありません。
 右派にしろ左派にしろ、私は「どちらの味方かという受け取り方しかできない湿った情念が気持ち悪い」という感性の持ち主ですので、どちらの味方とも誤解されないような言葉選びを慎重に心掛けています。mrbachikorn.hatenablog.com
 
 だからと言って「自分はどちらの味方でもなく、ただ客観的に物事を判断しているだけ」と自称する人間の言い分を鵜呑みにするのも危険です。
 それは、世に溢れる「右とか左とかではなく先入観抜きに真実だけを見つめよう」といった中立めいた発言は、多くの場合、どちらかの政治的立場に引き込むための巧妙な誘い水になっているから。
 怪しまれないようにと自身の立場を隠しながら接近して、客観的な事実を教えるようなふりをして「あなたは分かってない、本当はこうなのだ」と偏った信条を刷り込むその手法は、カルト宗教やカルトビジネスの洗脳のやり口にそっくりです。
 
 政治だろうが宗教だろうがビジネスだろうが、私は「真実に目覚めないと酷い目に会うぞ」「真剣に考えないやつがそんな態度でいるからこの世がおかしくなるんだ」などと恫喝することで自身の勢力に組み入れようとしてくる輩が、生理的に大嫌いです。
 私がこのブログで発信しようとしているのは、そんなうるさい小虫どもを遠ざけて近寄らせないための知恵でもあります。
 
 そのための一つの方法として、世間に溢れる「正論めいた脅迫」を気にしないでいられる気の持ちようを、私なりの視点から紹介しています。mrbachikorn.hatenablog.com
 特に政治の話題については、人生を豊かにするための「建設的な政治との関わり方」として4種類の在り方を紹介しました。 mrbachikorn.hatenablog.com
 
①世の中を直接動かす人になる
②政治運動に積極的に参加する
③政治を会話のネタにする
④政治に期待をかけず自分の人生に専念する
 
 この4つの順番は一応、政治にかける熱量が大きいとされる順に並べたもの。
 注意したいのは、自分の人生を豊かにするための政治との付き合い方は人それぞれであり、政治にかける熱量の大きさの差がそのまま人間性の高低に繋がるわけではないということ。
 ですがこの世には、こうした政治への熱量の差を根拠に、自分より熱量の低い相手を見下そうとする面倒くさい輩が一定数存在します。
 
 もしあなたが、そういった自称「真面目な人」から「あなたは政治に対して不真面目だ」とか「そんないい加減な人がのさばっているから世の中よくならないんだ」などと責められても、そんな使い古された決まり文句を真に受けて真剣に悩んだりする必要はありません。
 「この人はこのように言うことで自分なりの満足を守ろうとしてるんだな」ととらえて済ませればそれで十分です。mrbachikorn.hatenablog.com
 
 私に政治的な立場があるとすれば、それは「人がノンポリでいることを応援する」ということ。
 それは「ノンポリを攻撃する右派を責める」ということでも「ノンポリを攻撃する左派を責める」ということでもありません。

 そんな風に、立場の違う相手を攻撃したがる人がこの世に存在するのは、ヒトが感情を持った動物である以上仕方のないこと。
 だから、ノンポリである私たち自身が「正論めいた人格攻撃」をさらっと受け流すことのできる大人になろうという、建設的で前向きな提案なんです。

 
※当ブログの主なテーマは、この世界を支配する「正しさ」という言葉のプロレスとの付き合い方。mrbachikorn.hatenablog.com 
「正しさ」というゲームの最大の欠陥は、何を「正しい」とし何を「間違ってる」とするのかというルールや、その管理者たるレフェリーが、実際にはどこにも存在しないということ。
人類はこれまで数え切れないほどの論争を繰り広げてきましたが、それらのほとんどは「レフェリーの代弁者」という場を仕切る権限をめぐっての権力闘争でした。
 
「レフェリーの代弁者」という立場は、自分の個人的な要求でしかない主張を、まるでこの世の既成事実のように見せかけるための隠れ蓑です。
「それは正しい」とか「それは間違ってる」という言い方で裁きたがる人たちは、私はこの世のレフェリーの代弁をしているだけなんだという迫真の演技で己の発言の圧力を高めていたのです。
 
演技の迫力とは、演技者が役にどれだけ入り込めるかで決まるもの。
人々はいつしかレフェリーの代弁者のふりが説得のための演技であったことを忘れ、「どこかに本当の正しさがあるはず」といった物語を本気で信じこんでしまいます。
こうして人類の間には、「正しさ」という架空のレフェリーの存在をガチだと捉えてしまう、大がかりなプロレス社会が成立していきました。

そのプロレス的世界観を支えている固定観念の源を「記述信仰」と名付けました。
以下の記事では、この「記述信仰」の実態を上のような簡単な図まとめて解説していますので、ぜひご一読ください。mrbachikorn.hatenablog.com

自分の「湿り気」を自覚していますか?

 前回、私は2015年6月1日の改正道路交通法の施行に関して、「自転車運転に関する禁止事項が増えたわけではない」とする見解を述べました。
 そもそも法改正以前から「歩行者による信号無視」ですら厳密には違法行為なのですが、歩行者や自転車はバイクや自動車に比べて取り締まりがルーズだったというだけ。
 今回の法改正は、ただ単に「これまで違法なはずなのに見逃されてきた自転車の危険運転」への取り締まりを、改めて引き締めていくための単なるきっかけに過ぎません。
mrbachikorn.hatenablog.com
 
 私がこの記事を書いたのは、法律として書かれてある通りの内容と、取り締まりの場面での実際の運用のされ方と、世間での受け取られ方との間には、大きな隔たりがあるということを単に指摘するため。
 タイトルの「道交法違反は犯罪なんです」は、この認識のズレに対して「法律をマニュアルとして文面通りに解釈すればそういうことになるんですよ」と改めて確認しようとするニュアンスを込めたものです。
 
 自転車利用者を締め付けるために「危険運転は犯罪なんだからこれからは調子に乗るな」と言いたかったわけでもないし、だからといって自転車を利用する立場から「厳罰化は不当であり承服できない」とアピールしたかったわけでもありません。
 というよりはむしろ、私自身が常日頃からその種の「最初から結論を決めつけているポジショントーク」に嫌気がさしているので、「もう少しドライに事態を見つめる努力をしてみませんか?」と提案したかっただけでした。

 私は大学で数学を専攻していた20歳のころから、日常的な議論におけるこうした「湿り気」の問題が気にかかっていました。
 ここで私が言う「湿り気」とは、議論の結論をどちらか一方に持っていきたがる私たちの感情や現実世界の力関係のこと。
 
 数学という非日常の場面では、議論の結論は主張する人の感情やポジションには左右されません。
 公理や形式論理という数学の世界の約束事に従って、「証明ができたか」という基準だけでことの正否はドライに判定されます。
 
 真だと証明できればそれは正しい。
 偽だと証明できれば間違っている。
 どちらとも証明できなければその問題は「未解決問題」として保留しておく。
 
 数学の世界でこうしたきっちりとした判定ができるのは、数学が「公理と形式論理」という限られた世界の中でのゲームに過ぎないからです。
mrbachikorn.hatenablog.com
 
 ですが、私たちが生きる日常的な世界では、「公理や形式論理」のような参加者全員が守るべきルールが、数学のようにきっちりとは定められていません。
 宗教にしろ科学にしろ法律にしろ、そこから提案される諸々のルールには、主張者自身の「こうあってほしい」という感情や現実世界における力関係が必ず反映されています。
 そもそも人には、公正な視点による結論を、感情やポジションに左右されずにドライに導き出す能力など備わっていないのです。
 
 人はそれぞれ違った好みや立場を持っていますから、こうした感情的な対立がなくなることは原理的にありえません。
 こうした「じめじめした対立」を解決するためのマシな手段の一つとして、これまで人類は民主制という仕組みを工夫してきました。
 民主制とは、集団における意思決定のプロセスに、「最終的には多数決で決定する」という比較的ドライなルールを採用したものです。
mrbachikorn.hatenablog.com
 
 つまり、社会に民主制が導入されてきた背景には「人の営みにはじめじめとした対立がある」という大前提の人類知があるのです。
 しかし、民主制がある程度普及しきってしまった社会では、この大前提が忘れ去られることがあります。
 その結果、民主的な話し合いによって追求すべきなのは、客観的で理性的で感情に左右されない結論だとする妄想めいた理想論が生まれたりします。
 
 そうではなく、私たちのじめじめとした情念を叶えるための方便として、「ドライなふりをする」「情よりも理を優先するふりをする」という方法が一部の人に対して説得力を持っているというだけ。
 理想主義者が望むような真にドライな討論なんて、私たち人類はこれまで一度も経験していません。
 真実や「正しさ」なんていかにもドライぶった物言いは、じめじめとした感情や立場が言わせているものでしかないんです。
mrbachikorn.hatenablog.com
 
 数学というこの世でもっともドライな世界にいた私は、日常の現実世界で持て囃されている表向きのドライさが「中途半端な偽物」にしか見えていません。
 というわけで、そんな私が一番嫌いなのは、ドライでクールな正論を吐いているつもりのびちゃびちゃに湿った人。
 ですから、このブログでは世間に流通している中途半端なドライさを取り上げて、「正論ぶってドライに見せかけているけど、その背景は随分とじめじめしてるよね」と指摘することを目的の一つとしています。
mrbachikorn.hatenablog.com
  
 私はそうした「湿り気への無自覚」を毛嫌いする性格を持ってしまっているので、できる限り「己の湿り気」で理を汚してしまわないように語ろうと努力します。
 もっとドライに人心の誘導だけに徹するならば「中途半端なドライさ」を割り切って利用した方が効果的なのでしょうが、私は「そういうやり方は恥ずかしいし気持ち悪い」というウェットな感情を抱えているため、「ドライさを偽装しない伝え方」にこだわってしまいます。
 
 そんなわけで、私はどんな案件に関しても「どちらの立場に味方するか」という自分の好みに過ぎないものをドライぶって正当化するのを控えて、好き嫌いという「己の湿り気」を相対化した上での視点を探っていきます。
 そんな傾向こそが私の「湿り気」なので、これからも感情やポジション的には分かりにくい話ばかりを扱っていく所存です。
 立場を明らかにしない記事ばかりを見せてしまって、まことに申し訳ありません。

※当ブログの主なテーマは、この世界を支配する「正しさ」という言葉のプロレスとの付き合い方。

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※そのプロレス的世界観を支えている「記述信仰」の実態を、簡単な図にしてまとめています。

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道交法違反は犯罪なんです

 道路交通法の改正により、明日から「自転車運転者講習制度」という新しい制度が始まります。
 これまで自転車の危険運転に対しての取り締まりには、違反の摘発による「罰金の支払い」などの方法がありました。
 そして2015年の6月1日以降は、14歳以上の人が3年以内に2回以上の摘発を受けた場合、警察が実施する「安全講習」を受講しなければならなくなります。
 
 安全講習の受講には5700円の手数料がかかり、受講命令に従わない場合は5万円以下の罰金が科せられます。
 安全講習は運転免許試験場などで行われ、所要時間は休憩を除いて3時間。
 講習の中では、自転車事故の被害者や遺族の体験談などを通じて危険運転が社会に及ぼす悪影響を知らしめた上で、法で定められた自転車運転のルールを学んでいくことになります。
 
 2013年6月1日に公布されていたこの改正道路交通法は、今年の5月ごろからインターネット上で頻繁に言及され始め、施行直前の先週末あたりからマスメディアでも周知されるようになりました。
 そこでは、道路の右側通行や一時不停止や音楽を聴きながらの運転など、今回の法改正に合わせて「摘発の対象となる14の危険行為」が紹介されています。
 ですが、そもそも世間では道路交通法に関する理解がそれほどなされていないため、本質的でない議論ばかりが溢れているような印象を受けます。
 
 今回の法改正は、「自転車ならばこれまで守らなくても良かった交通ルールでも、これからは守らなければならなくなる」という種類の変更ではありません。
 そもそも道路交通法とは、車やバイクだけでなく、自転車も歩行者など、道路を利用する全ての人が守るべき法律として作られたものです。
 今回はただ単に「自転車に対する取り締まりの手段」として講習が一つ追加されるというだけのことであり、自転車運転における「違法とみなされる範囲」が根本的に変わるわけではないのです。
 
 もっと突き詰めて言うならば、道路交通法に対する違反行為は、たとえ「歩行者の信号無視」といったありふれたものであっても、それが「犯罪」であることに変わりはありません。
 しかし、道路交通法違反という犯罪の全てを本気で検挙しようと思ったら、該当する件数が多すぎて司法の機能はとても追い付きません。
 
 ですから実際の運用では、道路交通法違反という犯罪には軽重のグラデーションが細かく設定されており、歩行者や自転車といった優先順位の低い道路利用者の違法行為に関してはそのほとんどが見逃されてしまっています。
 こうした現状に甘んじて、これまで私たち道路利用者のほとんどが、道路交通法を軽視してきたというだけなんです。
 
 こうした軽重のグラデーションの中でも、これまでもっとも厳しく取り締まられてきたのが、その運転に免許を必要とするバイクや自動車です。 
 免許が必要ということは、警察に厳しく管理されることと引き換えに運転することを一時的に「免じて」「許されている」ということ。
 つまり、免許という「特例措置」を受けなければ、バイクや自動車の運転といった行為自体が、基本的には「市民の安全を脅かす行為」として法律で禁じられているということでもあります。
 
 ですが、もっとも厳しく取り締まられているバイクや自動車の運転でさえ、スピード違反や禁止区域への駐車、一時不停止などの「違法行為」は日常茶飯事です。
 これらの違反者すべてを裁判所に起訴してしまうとキリがないので、比較的軽微な違反には警察との手続きだけでことが済む「青切符」という制度が整えられています。
 
 通常、法を犯した罪で訴えられて裁判所で有罪が確定すれば、その人には前科がつく上に刑として「罰金」を支払わなければなりませんが、青切符であれば前科とならない「反則金」という扱いで済みます。
 この反則金の位置付けは「違法行為であっても前科者にはしてあげないための免除措置のようなもの」でしかなく、決して「軽微な違反であれば犯罪とみなさない」というわけではありません。
 
 一方、自転車の運転にはこうした「青切符による反則金」の制度がなく、危険な自動車運転に対してペナルティを科すには、前科者となってしまう「罰金」しか手段がありません。
 道路交通法をよく知らない大勢の自転車運転者を前科者にすることがためらわれるのか、これまでの自転車に対する危険運転への取り締まりは、バイクや自動車に比べると随分とゆるいものになっていました。
 
 こうした経緯があったため、今回の法改正に際してインターネット上では「自転車運転にも青切符のような講習制度を取り入れることでこれまでより取り締まりやすくするため」とする解釈が飛び交いました。
 これは先入観による勝手な思い込みで作られたデマであり、この見解は警察も正式に否定しています。

 改正法をきちんと読めば、自転車を取り締まるための大まかな枠組み自体はこれまでとほとんど変わっていないことが分かります。
 道路交通法の違反で検挙されて有罪が確定すればこれまでと同様に前科者となりますし、反則金のようなグレーな免除手段は自転車運転にはありません。
 変わったのは「3年以内に2回以上の危険運転(つまり犯罪)が摘発されてしまえば講習を受けさせられる」という部分だけです。
 
 それではこの法改正にはどんな意味があるのでしょうか。
 この疑問に対する私の仮説は次のようなものです。
 
 これまでは、社会通念上「自転車はそれほど厳しく取り締まる必要がない」といった認識が根強く、罰金刑を与えたからといってその後の遵法意識に結び付かない可能性が高かった。
 だが、今回の法改正で「常習的な違反者には関連法や自転車の危険性を学ばせるなど更正の機会を確保している」と言えるようになった。
 これで、法律通りに自転車を取り締まるようになっても国民への言い訳がしやすくなるので、「自転車であっても道路交通法は遵守しなければならない」という新しい常識を、堂々と日本国民に植え付けていける。
 
 今回まとめられた「摘発の対象となる14の危険行為」も、これまではなあなあで見逃されてきた違法行為を、改めて並び直しただけのことです。
 「法律によって国民をしつけていきたい」とする法治国家の論理と、「私たちの生活をそこまで杓子定規に法律で縛らなくても」とする庶民の感覚とのせめぎ合いは、明日から新たなラウンドを迎えていきます。
 
↓この記事の続きはこちら↓mrbachikorn.hatenablog.com
 
【14の危険運転の法的根拠】
 
信号無視(道路交通法第7条)
通行禁止違反(道路交通法第8条第1項)
歩行者用道路における車両の義務違反(徐行違反)(道路交通法第9条)
通行区分違反(道路交通法第17条第1項、第4項、第6項)
路側帯通行時の歩行者妨害(道路交通法第17条の2第2項)
遮断踏切立入り(道路交通法第33条第2項)
交差点安全進行義務違反等(道路交通法第36条)
交差点優先者妨害等(道路交通法第37条)
環状交差点安全進行義務違反等(道路交通法第37条の2)
指定場所一時不停止等(道路交通法第43条)
歩道通行時の通行方法違反(道路交通法第63条の4第2項)
制動装置(ブレーキ)不良自転車運転(道路交通法第63条の9第1項)
酒酔い運転(道路交通法第65条第1項)
安全運転義務違反(道路交通法第70条)

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劇場版パトレイバーの戦争論

 『機動警察パトレイバー』とは、レイバーというロボット技術を応用した作業機械が、軍事や海底探査や大規模な建設工事の場面にまで広く普及した近未来を描いたSF作品。
 この物語に登場するのは、レイバーを悪用した犯罪やテロに対応するため、警察内に設置されたレイバー部隊。
 といっても「作業ロボットが頻繁に登場する」という設定以外は私たちとほとんど変わらない日常が舞台となっており、ロボットアクションというよりむしろ現代社会の複雑な利害関係の中で起こる人間模様の方がリアルに描かれています。
 
 2015年公開の『THE NEXT GENERATION パトレイバー 首都決戦』は、1993年のアニメ作品『機動警察パトレイバー 2 the Movie』の続編と言うべき作品。
 両作品の監督である押井守は22年前の前作において、東京で起こった疑似クーデター事件を描き、竹中直人が演じる荒川という自衛官に「日本の戦争観の幼稚さ」を語らせています。

EMOTION the Best 機動警察パトレイバー2 the Movie [DVD]

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俺たちが守るべき平和。
だがこの国のこの街の平和とは一体何だ。
 
かつての総力戦とその敗北。
米軍の占領政策。
ついこの間まで続いていた核抑止による冷戦とその代理戦争。
そして今も世界の大半で繰り返されている内戦、民族衝突、武力紛争。
 
そういった無数の戦争によって合成され支えられてきた、血まみれの経済的繁栄。
それが俺たちの平和の中身だ。
 
戦争への恐怖に基づくなりふり構わぬ平和。
正当な対価を、よその国の戦争で支払い、そのことから目を反らし続ける不正義の平和。
 
平和という言葉が、嘘つきたちの正義になってから、俺たちは俺たちの平和を信じることができずにいる。
戦争が平和を生むように、平和もまた戦争を生む。
その成果だけはしっかり受け取っていながら、モニターの向こうに戦争を押し込め、ここが戦線の単なる後方に過ぎないことを忘れる。
いや、忘れたふりをし続ける。
 
 荒川が言う「嘘つきたちの正義になった平和」とは、例えば「戦争や人殺しは絶対悪であり決して許されない」というレッテル貼りであり「世界中の皆が武器を捨て戦争を止めれば平和が訪れる」といった非現実的な妄想のことでしょう。
 歴史を見れば「戦争と平和」は表裏一体の概念でしかなく、戦争や殺人から切り離された「無垢な平和」など過去に存在した試しがありません。
 
 今日私たちが野生動物から食い殺される脅威に怯えずに済むのは、「そこにいたはずの動物たち」を殺したり追い出したりして人間専用の居住地を切り開いてくれた先人がいてくれたから。
 今日私たちが日本国内で治安の保たれた暮らしを享受できているのは、過去の数々の戦によって国土が統一され、殺人や略奪を取り締まれるだけの実力を持つ行政組織ができたから。
 今日私たちが他国からの武力侵攻に合わずに済んでいるのは、武力にものを言わせて世界を席巻してきたアメリカの軍隊を国内に駐留させているから。
 
 どれだけ高潔な理想論をかざしたところで、誰かがどこかで武力を備えてくれなければ、私たちは自分の身の安全を守れていないはずです。
 ですが、現代の日本社会は敗戦のトラウマや戦後教育から戦争行為や暴力行為が必要以上にタブー視されてしまっているため、実際に武力を用いて我々の安全を守ってくれている人々の存在はほとんど顧みられることがありません。
 ですから私たちは、私たちの安全を保障するために、いくつもの前線で武力がふるわれているという事実をいとも容易く忘れてしまいます。
 
 ですが、限りあるこの地球上で、生きる糧を得るための戦いが途絶えたことはありません。
 そして、生きるための糧を確保し、外敵から身を守るために、人類が編み出したが独自の戦略こそが「武器の使用」です。
 荒川が言うように、私たちがぬくぬくと暮らしているこの「平和」な日常の世界は、単なる「戦線の後方」に過ぎないのです。
 
 「どんな理由があっても人殺しは許されない」といった道義的な主張が優勢でいられるのも、それを押し付けられるだけの軍隊や警察といった殺傷能力の後ろ楯があってこそ。
mrbachikorn.hatenablog.com
 どれだけきれいごとを並べ立てたところで、人殺しを抑えこめるのは「人を殺せる力」でしかありません。
mrbachikorn.hatenablog.com
 
 もし仮に「戦争や人殺しは絶対悪であり決して許されない」とか「世界中の皆が武器を捨て戦争を止めれば平和が訪れる」といったお題目を唱えながら、別の局面では「野生動物に食い殺されるのは嫌だ」とか「隣人や隣国に襲われるのは嫌だ」なんて自分の身の安全を優先しているのであれば、それはまさに「嘘つきの正義」でしょう。
 言うなれば、他人に「汚れ仕事」をさせておきながら「人は手を汚してはならない」と叫んで「汚れ仕事の従事者」を貶めるような、厚顔無恥な行為です。
 
 物語の終盤、疑似クーデターの首謀者である柘植は、埋め立て地から東京の街を眺めながら「あの街が蜃気楼の様に見える」と語ります。
  彼の犯行の動機は政権の転覆などではなく、いかにも「戦争とは無縁だ」という素振りで経済的繁栄を享受しているこの国の人々に、「この見せかけの平和は無数の武力行使による血まみれの獲得品であり、空虚な平和論を唱えるだけで維持できるものではない」と知らせることだったのでしょう。
 
 警察官という立場で街の治安を守る南雲は「例え幻であろうとあの街ではそれを現実として生きる人々がいる」と応答し、住民たちの「平穏な生活」を脅かした柘植を逮捕します。
 「俺もその幻の中で生きてきた。そしてそれが幻であることを知らせようとした」と答える柘植は、疑似クーデターを通じて「平和ボケした国民への啓発」という当初の目的をすでに達成していたために、甘んじて逮捕を受け入れます。
 
 この柘植と同じ目的の啓発行為を、映画という手段で行っているのが押井守と言えるでしょう。
 22年前に一度アニメで表現されたテーマが、今度は実写でどう描かれているのでしょうか。
http://patlabor-nextgeneration.com/movie/patlabor-nextgeneration.com

 
 ※当ブログの主なテーマは、この世界を支配する「正しさ」という言葉のプロレスとの付き合い方。

http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2014/03/12/175400
※そのプロレス的世界観を支えている「記述信仰」の実態を、簡単な図にしてまとめています。

http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2014/07/06/051300

銃社会生まれのグローバリズム

 グローバリズムとは、株式会社というフィクションを延命させ、国民国家というフィクションを終わらせるために、アメリカの新自由主義者たちが広めた不自然で作為的なイデオロギーである。
 これが平川克美の著書『グローバリズムという病』におけるグローバリズムの大まかな定義です。
 ここでは「グローバリズム」が単なる自然過程を指す用語ではなく作為的な立場であること強調するために、科学技術の進展によって世界が小さくなったことを表す「グローバリゼーション」とは明確に区別されています。

グローバリズムという病

グローバリズムという病

 

 

 株式会社とは、17世紀の大航海時代にヨーロッパで始まった資金調達の仕組み。
 「株券を買って株主になっていただければ、集めた資金をもとに事業を行い利益を出してその株券の価値を上げていきますし、利益に応じて配当金もお渡しします」
 こう約束して資産家たちから巨額の資金を集めることで、当時の東インド会社はインドや中国との大規模な貿易が可能になりました。

 

 また、30年間に渡るヨーロッパの宗教戦争の末にウエストファリア条約によって結ばれたのが、「固有の領土と国民を有すると認められた国家には内政干渉されない主権を認める」という紛争抑止のためのお約束です。
 こうして17世紀に発明された「国民国家」という名の方便は、西欧諸国の海外進出とともに世界中に押し付けられ、今もなお国際社会を支配する主要なルールとして君臨しています。

 

 この国民国家という暴力機関に保護されながら株式会社は発展し、株式会社による国民経済の活性化によって国民国家はより強固なシステムへと成長します。
 ですが、この国民国家と株式会社の幸せな共犯関係は永遠に続くものではありません。
 株式会社には「株主を喜ばせるために利益を拡大し続けなければならない」という宿命が課せられているので、国内需要の拡大だけで増収が見込めないほどに国家が成熟してしまえば、金儲けの範囲を国外や投機的なマネーゲームの創出などへ広げていくしかなくなってくるのです。

 

 その際、国外に進出する企業にとって障害となるのが、商売における国ごとのルールの違いです。
 そうした障害を打開するために多国籍企業が相手国に要求するのが、関税や規制の撤廃であり、統一された産業基準であり、同一の決済システムであり、同一の言語環境です。
 そこにあるのは「個人や企業の自由な経済活動を国なんかが邪魔するのは不当だ」とする新自由主義思想です。

 
 そもそも国ごとの関税や規制や多様性などは、国外の大企業による搾取の脅威から国民経済を守るための防波堤として機能しています。
 こうした国家特有の防衛機能を、新自由主義者は「競争は自由かつ平等であるべきだ」という一見美しい名目の下に切り崩そうとします。
 グローバリズムとは、「株価は上がっていくものだ」という株式会社のフィクションを守るために、国家の主権というフィクションをなし崩しにしたがるイデオロギーとも言えるのです。

 

 このようないびつなイデオロギーはどうして生まれたのか。
 平川克美は、この思想の起源がアメリカの建国史にあると指摘します。

 

 アメリカは、銃を所持する権利が憲法で保証されている国です。
 一般的にアメリカで銃の所持が正当化されている理由は、イギリスの支配から独立するために立ち上がった過去の経緯からだとか、たとえ悪政が行われてもそれを倒す力を民衆が持つためなどと説明されています。

 

 しかし彼は「アメリカの民主主義を守るために民衆の武装が必要不可欠と言うのなら『皆の義務』として扱われる方が自然なのに何故『一個人の権利』という言い方になっているのか」と疑問を投げかけます。
 そして、銃による武装を『一個人の権利』として認めているのは「先住民の居住地を暴力的に奪い取ってきた」というアメリカ大陸開拓の歴史を正当化するためだとする持論を、以下のように説明します。
 
人間の尊厳。
機会の平等。
フェアプレイ精神。

 

アメリカは何よりも、理念の国である。
前記の理念をつくり上げてきたアメリカ建国の歴史を見ていくと、アメリカという国家が持つ(持たざるを得なかった)、人間観、自然観、倫理観すべてに通底する独特の価値観に逢着することになる。

 

国民国家という共同体を揺るぎないものにするためには、人権、公共心、道徳心、倫理観といったものを国家の構成員たちが共有する必要があった。
アメリカはまず、自らの出自に纏わりつく加害性というものを、正当化する論理を打ち立てる必要があった。

しかし、先住民たちに対する殺戮と簒奪の歴史はどこまでいっても人権や公正さといったものと折り合うことはできない。
先住民にだって人権はあったわけだ。
かといって、自らの出自を反省し謝罪することは、アメリカ合衆国自体を否定することに繋がってしまう。

 

ここでアメリカはトリッキーな論理をつくり出すほかはなかった。
それはアメリカを開拓した人々にも、アメリカ先住民にも「平等かつ公正に」武器を持って闘う権利が与えられているという論理である。
つまり、戦闘は論理的にイーブンなもの同士で土地所有をめぐる紛争の解決法のひとつとして行われたのだという権利の平等性の物語をつくり出すことであった。
アメリカ合衆国は先住民を略取してでき上がった国家ではなく、自然の摂理たる生存競争に勝ち抜くことででき上がった国家であるという物語が完成する。

 

アメリカという国の国是は、まさにアメリカという国をつくるということであり、生存競争に勝ち抜くことである。
アメリカは建国以来、強く大きなアメリカをつくることを国家目標としてきた。
当初は大陸の東海岸の小さな入植地からはじまった理想の土地を世界の隅々まで広げていくというかたちをとり、現在でも局地紛争への介入というかたちで引き継がれてきている。

 

アメリカが銃規制できない理由のひとつは、それがアメリカ建国の理念を支える論理の中に銃による闘争が組み込まれているからである。
「自由」は、すべてに優先する絶対的な価値でなければならない。
アメリカは、まさにその「自由」を達成するために建国された国家なのだ。

 

 そして著者は、アメリカ開拓時代における先住民への仕打ちを「非人道的な侵略ではなくフェアプレイ精神に基づく自由競争だった」と正当化してしまえる図太い根性が、それぞれの国家の事情を無視して「競争は自由かつ平等であるべきだ」とゴリ押ししたがる新自由主義の精神にも現れていると述べます。
 こうして押し付けられたグローバリズムの宣伝文句を、真に受けて踊っているのが日本という国です。

 筆者は以下のように続けます。

 

日本におけるグローバリズムの流行は、世界の中でも独特の様相を呈している。
日本人はグローバルという言葉を前にすると、ほとんど反射的に自分たちが責め立てられたような気持ちになり、そわそわしてしまうようなところがある。
日本人は、元来、グローバルという言葉に弱いのである。

 

その理由は、明治期以降、東アジアの島国から脱皮して、西欧近代国家にキャッチアップすることが国是であった時代、産官あげて西欧に範を求め、西欧に学んできた経験が、世界有数の経済大国になった今でも、西欧コンプレックスというかたちで一種のトラウマになって残っているからだろう。
ビジネスの世界において、この傾向はさらに顕著であり、会社における共通言語さえも母語である日本語ではなく、英語にすべきだというものまで現れてきたのである。
そして、グローバル時代に世界で戦える日本人、内向きにならずに、海外雄飛する若者の育成が急務であることが、時代のメッセージであるかのように喧伝されている。

 

日本人は絶えず世界を気にしている。
メディアは国際機関が発表する国民総生産の世界ランキングや、会社の売り上げランキングといったことから、児童の学力ランキング、平均身長ランキングに至るまで事細かに伝えている。
識者がこれらに評論を加えて、わたしたちはいつも世界の中でどのあたりに位置しているのかを気にしている。

 

それが、「アメリカでは、すでに……」とか「普通の国家は……」とか、「イギリスの大学制度は……」とか、「世界の標準は……」といった言葉になってあらわれる。
メディアのみならず、大学でも、ときに政府の政策においても、この傾向はあらわれる。

 

グローバルスタンダードなんていうものは本来存在していない。
日本の政府も、企業も、自分たちが何にビハインドしているかの明確な指標が欲しいのだ。
そして、それがなければつくり出す。
こうして、グローバルスタンダード信仰が生まれてきたのだろう。

 

 そもそも国民国家というフィクションにおいて、国家同士はクラスメートのような同格の存在であり、国際社会とは単にクラスメート同士の対等な相互関係のことです。
 ですが、自立した者同士の「何でもありの争い」が苦手な日本人は「守るべき共通の基準の下での正々堂々とした競争」というフィクションを求めて、他者が造ったルールの軍門に易々と下ってしまいます。
 グローバルスタンダードを信仰する人は、国家という生徒たちの上に立つ「先生としての国際社会」を求めており、グローバルスタンダードという「先生からの言いつけ」に率先して従いたがっているのです。

mrbachikorn.hatenablog.com

 

 ですが日本が従いたがっているグローバルスタンダードとは、そわそわしてアメリカの真似をするだけの日本の新自由主義者たちが宣伝している一種のはったりに過ぎません。

 つまりグローバルスタンダードを真に受けている日本人は、ジャイアンのような力の強いクラスメートの言い分を勝手に「先生の言いつけ」と思い込むことによって、「先生の決めたルールは守らなきゃ」と真面目ぶりながら実際は一生徒の従順な子分に成り下がっていることになります。

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 こうした奴隷気質から「グローバル化する国際社会を生き延びるには実践的な英語教育が必要だ」などと叫ばれている論調に対して、筆者はこう反論します。

 

そこには必ず覇権的なバイアスがかかっているということを知るべきである。
英米人とのビジネスを、習い覚えた英語でやらなければならないという非対称的な関係にもっと注意を払うべきではないのかと思う。
それは、フェアでもなければ、合理的でも透明でもない。
ほんとうは、単に、やむ得ず、押し付けられたルールに従っているだけなのだ。

 

郷に入れば郷に従えだろうと言われるかもしれないが、郷に入らない選択も排除すべきではないのである。
少なくとも国民国家の教育理念の中で、グローバル人材の育成というかたちで、英語を優先させるべきではない。
それらは、専門学校でやればよい。
英語使いが必要なのは、その程度に限定的な場所だけである。

 

 筆者も指摘しているように、現在の日本社会における英会話のスキルとは、選択可能な数多くのオプションの一つに過ぎず、生存のための必要不可欠な要素ではありません。
 日本はまだまだ、英語なんか身に付けなくても貧困に苦しまずに生きていく選択肢はいくらでも残されているような比較的裕福な社会です。

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 英語教育推進論者たちは「そのうち日本も英語が話せないとまともに生きていけない社会になるんだ」としきりに脅したがりますが、その未来予測は「グローバリズムの押し付け工作に逆らうつもりはない」という降服宣言と同じです。

 英語が話せないとまともに生きていけないような「不幸な社会」の到来に備えて先回りして準備することなんかよりも、そんな「不幸な社会」を実現しないために努力をすることの方がはるかに重要な課題ではないでしょうか。

 

 グローバリズムとは、「不自然な押し付け」をあたかも「自然の摂理」であるかのように錯覚させるための洗脳戦略の一環とも言えます。
 この先日本が「英語が話せないとまともに生きていけない社会」になったとしたら、それはグローバリズムの「作為的な押し付け工作」に飲み込まれてしまったということですが、後世には「自然なグローバル化の過程だった」などと語られてしまうのでしょう。
 ちょうどアメリカ建国の歴史において、先住民の不遇が正当化されたのと同じように。

 


※当ブログの主なテーマは、この世界を支配する「正しさ」という言葉のプロレスとの付き合い方。

http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2014/03/12/175400
※そのプロレス的世界観を支えている「記述信仰」の実態を、簡単な図にしてまとめています。

http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2014/07/06/051300

この国に「大人」はどれだけいますか?

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 『キーチvs』は、前回紹介した新井英樹の漫画『キーチ!!』の10年後の世界を描いた続編。
http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2015/03/29/000754
 世の中の矛盾と戦うために小学5年生で立ち上がった染谷輝一という少年が、既得権益を相手にとことん戦ってしまったが故に「秩序に反逆するテロリスト」として米軍の特殊部隊に射殺されるまでのお話です。

キーチVS 9 (ビッグコミックス)

キーチVS 9 (ビッグコミックス)

 
 輝一が世間の醜い有り様と戦っていた理由は、「世界はもっと正しくあるべきだ」という模範解答のような正義感からではなく、「見えるところにムカつかせることがあるとぶっ壊したくなる」という単純な生理的嫌悪感からでした。
 そして輝一のこの「誰もやらないなら俺がやる」という強引なまでのわがままさを、世間一般の民衆にも前向きに響くようにと計算ずくでカリスマ像をマネジメントし、小学生にして「キーチズカンパニー」という法人を立ち上げたのが同級生の甲斐慶一郎です。
 
 こうして始まった小学生二人の世直し運動も、日本の既得権益の分厚い壁をぶち破ることはできず、10年後には大悪人のレッテルを貼られて潰えてしまいます。
 ですが、醜い世間に立ち向かう二人の果敢な姿勢は、次の世代へと確かに受け継がれていきました。
 
 どこまでも人任せで自分から動かない民衆は結局のところ既得権益のなすがままなので、一人のカリスマに頼る世直しでは世の中は変えられない。
 そう学んだ次世代の子供たちは、カリスマに頼らない自分たちの手による世直しを決意します。
 
今の大人なんかモノ買ってゲーム、ケータイ、ネットいじるだけで俺ら子供とほぼ変わんねぇ。
だったら子供でもっ、少しガンバリゃ、世の中変わるんじゃねえのか!!
 
 輝一と甲斐に共鳴してこのように考えた子供たちは「大人を捨てよう」という運動を始めました。
 輝一らの助力でテレビ生放送の場を与えられた子供たちは、全国に向けて「人任せではない世直し」を訴えます。
 
この国の子供に言います。
いいですか、世の中は変えられるんですよお。
 
「この先この国の子供たちは、世の中がこのまま変わらなければ酷い目に遭う」
大人は口癖のようにそう言います。
 
でも動きません、言うだけなんです。
そこでボクらは同世代に向けて、この国のしくみを、簡単な図にしてみました。
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もし今あなたの側に大人がいるなら、この図がおおまかに正解かどうか聞いて下さい。
強く反論はできないはずです。
大人はこんな世の中でもいいかって変えずにきたんですよお。
 
つまりどんな酷い目に遭おうが子供たちの未来は勝手にしろ、と、大人は世を変えるフリと見て見ぬフリだったんです。
それは本当に責任感のないなまけ者たちです。
 
だから子供の皆さん、大人を軽蔑して下さい。
育ててもらってることには感謝して軽蔑するんです。
 
そしたら「自分は違うぞ」って「世の中を変えるぞ」って決意しませんか。
ボクら子供の未来は「ボクら子供が変える」って、今、子供の皆さんが本気で決めれば絶対変わるんですよお!!
 
 この緊急生放送番組の場でPRをしたのは、世間の仕組みの歪みによって肉親や友人が犠牲になるのを間近で見てきた5人の小学生。
 彼らはカメラの前で自分が見てきた世の醜い現状を語り、時の政府が語っていた「金持ちがもっとお金を持てれば下にもおこぼれがくる」というトリクルダウンの理論は嘘で、「下々の親の不幸が余り余って子供に落ちる」という負のトリクルダウンこそが自分たちを襲っていると説明します。
 そして、現状にただクレームを付けているだけでは、この社会を作ったダメな大人と一緒だと訴えます。mrbachikorn.hatenablog.com
  
だからって、俺らが、「被害者だ」って威張ってたら、ダメな大人になっちまうぞ。
だからっ子供たちよ、俺たちだけで集まらねえか。
今すぐ集まって世の中動かす準備しねえか!?
 
政治家、官僚目指す奴!!
学者になりたい奴、法律、勉強する奴、夢は本物のジャーナリスト、国民の側に立つ警察官、将来大もうけする予定で困ってる人にお金を出すのを惜しまない奴。
 
みんな集まって上に居座る大人に嫌だって言えりゃ、今よか絶対まともになる。
大人ども文句があるなら叱りに来い!!
 
 また別の子は、機能不全に陥っている日本の民主主義の現状を、大人たちに問い正します。
 
だから教えて欲しいんです。
私が大嫌いな多数決、民主主義のことを。
歴史の中で「今はこれが流行」ぐらいの規則でしかないくせに、みんなが正しさを決めてるつもりが気持ち悪いです。
 
大人の皆さんは何を基準に代表を選んでますか。
多数決なんかで選ばれた政治家は民意を楯に威張る。
政治家村に住むと党やグループが優先。
これも何を基準に判断してるのか…
 
官僚の命令が基準ですか?
企業のおもわくで判断しますか?
やっぱり基準はアメリカですか?
目的のためなら検察・警察・裁判所・メディア利用してインチキやるって本当ですか?
 
日本が本当にアメリカの言いなり、属国なら、「属国は嫌だ」って言える人だけが政治家だと思うけどそんな人、本当にいるんですか?
いつまで属国のままなんですか?
 
国民が世の中を知るため政治を考えるための新聞やテレビが正義のふりをして、官僚の天下り先、官僚の広報として世論を操作してるって本当ですか。
 
 輝一と甲斐は権力の象徴である各界の要人たちを追い詰め、この子供たちの問いかけに対する「本音の回答」を力ずくで引き出して全国に放送させます。
 まず、在日米軍司令官が語った本音がこちらです。
 
日本が米軍の属国だとは聞いていた。
勿論、日本における米国の影響力は絶大だ。
実際、米国からの物言いひとつで、日本が10年かけても変わらなかったことが1日で変わる。
通常、他国に隷属させられた国家には強い反発があるので、宗主国はそれを強権で抑えるものなのだが、驚いたことに日本人は「現状、属国」を認識しながら、自ら我先にと…隷属する真の奴隷だ。
 
 そして、この米軍司令官の「日本人は真の奴隷」発言を裏付けるかのような証言を、情けない前総理大臣が吐き出します。
 
グローバリズムの世界で、日本が生き残るにはっ、アメリカとの関係をより密に太く強くすることですっ!!
過去もそう未来もそうですぅ
自由も平和も安全も経済も全部、日米同盟が基軸なんですよぉぉ
日米同盟を良好に保つことで自由が生まれるんです。
平和と安全が保障され、経済も拡大成長するんです。
そのために日夜我々は額に汗するんですよぉ。
夢や理想じゃなく日本の政治家は「どうすればアメリカが喜ぶか」が重要なんですよぉぉ!!
 
 さらに輝一と甲斐は、経団連会長にこう詰め寄ります。
 
経団連に加盟の企業は大権力、金持ち同士でつるんで。
まともに税金も払わずに金、貯め込んで。
社会なんかクソ喰らえ。
税も人も安くしてもっと稼がせろ。
でなきゃ拠点を海外に移すぞ。
国際競争力を題目にわがままし放題のクソガキ。
カネ、カネ、カネで肥え太った豚の集まりが経団連か。
 
 問い詰められた経団連会長は、その質問に「そうだ」と肯定した上で、さらに開き直ってこう演説します。
 
「金儲けは善」
これが企業の論理かつ倫理だ。
企業が金を稼いで何が悪い?
誰だって税金なんぞ払いたかないだろ。
損したくない得をしたい。
なら、その要望を実現してくれる政治家を援助する。
恩も義理もカネが一番ならカネで返す。
カネを出した者が儲けを得るのは当然の権利だ。
我々が儲ければ国が富む、なにが不満だ。
 
 この尊大な態度に甲斐は「それで非道い目ぇ遭う奴死ぬ程おるやろ」と反論しますが、会長は知らん顔でこう答えます。
 
そんなことにまで、責任は持てんよ。
選挙で弱肉強食の新自由主義を選んだのは国民だよ。
 
 このようなグロテスクな世の中の仕組みを生放送の場で語ることに成功した5人の小学生は、大人たちに向かって「この汚ない現状を分かっていて放置してきたのが大人だ」と糾弾します。
 
大人の皆さんが知ってても放っていることですよね。
それが世の中のしくみでしょ。
それ、子供でも知ってますよ。
 
理想とか現実だとか何を言ったって「お金が一番」なんですよね。
今の大人がそれをどんな言葉で飾っても、恥知らずにしか見えません。
 
知ってますか。
子供が信用できる大人の言葉はもうたったひとつ、「お金が一番」ってことだけですよ。
 
そうじゃないなら、お手本の言葉と行動をボクらに伝えて下さい。
大人の皆さんっ!!
「お金が一番」以外に、なにかありますか?
 
ほかに言えますか?やれますか?
子供たちに心の底から伝えたいこと、伝えなきゃいけないことがありますか?
 
「大人」というのは、自分より前の世代の人から大切ななにかを受け取って、あとの世代に一番大切なことを手渡す人のことじゃないんですか?
 
だとしたら今、この国に「大人」はどれだけいますか?
みな「子供」に見えますよ。
 
 この全国へのPRをきっかけにして、輝一と甲斐の志を受け継いだ小学生たちは「まず私から頑張る」を合言葉に「大人を捨てよう」運動を広げていくことになります。
 私たち大人は、この子供たちに向かって何を語ることができるでしょうか。mrbachikorn.hatenablog.com
   

※当ブログの主なテーマは、この世界を支配する「正しさ」という言葉のプロレスとの付き合い方。

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※そのプロレス的世界観を支えている「記述信仰」の実態を、簡単な図にしてまとめています。

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クソみたいな現実に立ち向かう

キーチ!! 8 (ビッグコミックス)

キーチ!! 8 (ビッグコミックス)

 新井英樹は、その過激な作風で知られる漫画家。
 理不尽な無差別殺人犯、斡旋業者に大金を払ってフィリピン人と結婚するモテない男、失敗と挫折を何度も繰り返す未熟で暑苦しい新人サラリーマン、凡人の努力を屁とも思わない天才ボクサーなど、彼はこれまで滅多に描かれてこなかったような人物像をこれでもかと描写し続けてきました。
 
 そんな彼が、「カリスマ美容師」「カリスマ講師」など「カリスマ」という言葉が軽々しく使われている世間の軽薄な風潮に対して、「本物のカリスマとは何か」をテーマに描いたのが「キーチ!!」です。
 この作品には、社会のさまざまな矛盾に対して単にクレームを付けるだけでなく、現実を変えるために自ら率先して行動していく驚異の小学5年生の姿が描かれています。mrbachikorn.hatenablog.com
 
 エリート銀行マンの家庭に生まれた甲斐慶一郎は、幼いころから何かにつけて要領がよく、塾の全国模試でもトップをとるほどの秀才。
 彼は4歳のときに、親しく遊んでいた町工場の息子が借金による一家心中で亡くなったことをきっかけにPTSDへと陥ります。
 そんな彼を立ち直らせたのは、同い年で全国的な有名人となっていた染谷輝一でした。
 
 わずか3歳にして目の前で両親を通り魔に殺された輝一は、傷心で街中を徘徊しているところを、浮気中の火事が原因で我が子を亡くし夫に捨てられた自暴自棄のホームレス中年女性に連れ去られます。
 中年女性との逃亡生活の挙げ句に見捨てられて山中に迷いこんだ輝一は、虫や魚を捕まえて食べながら生き延びていましたが、魚が採れなくなって山から降りてきたところを発見され、ニュースやワイドショーなどに取り上げられます。
 
ひとりすごい。
ひとりだいじ。
みんなひとり。
大丈夫。
生きる楽しいひとりだから。
 
 「祖父母たち家族と再会できて嬉しいか」と猫なで声で聴いてくるリポーターたちに向けて、4歳の輝一はぶっきらぼうにこう返しました。
 これは逃亡生活の中で出会った恩人から受けた激励を、幼児の彼なりに解釈したもの。
 突然の両親の死によって悲しみのドン底にいた輝一を、ワイルドに立ち直らせた言葉だったのです。
 
 友人の死によって泣きくれていた4歳の甲斐は同い年の輝一のたくましく生きる姿に激しく揺さぶられ、輝一に関する情報ならなんでも収集する熱烈なファンになります。
 そうして小学5年生になった甲斐のもとに、数々の問題を起こして担当教師たちを潰してきた有名人の輝一が転校してきます。
 
 人を寄せ付けない問題児の輝一に積極的に近付いていった甲斐は、輝一の魅力に改めて惚れ直すことになります。
 甲斐が気に入ったのは、輝一がこの人間社会の作り話に全く飼い慣らされていないこと。mrbachikorn.hatenablog.com
 
 それを象徴するのが、二人が特急電車に乗ったときのエピソードです。
 運行中の車内にいたのは、横柄な態度と大きな声で下衆な金儲けの話を電話で堂々と繰り広げている背広姿の大柄な中年男。
 輝一はその男に近付いて無言で携帯電話を奪い取り、有無を言わさず通路の向こうへと放り投げます。
 
ジブンただの「正義漢」か?
 
 輝一の突然の行動に、甲斐は思わず失望しかけます。
 自分の憧れた男が、安っぽい社会道徳に飼い慣らされた「正義漢」なんかでいて欲しくはなかったのです。
 ですがその一瞬の危惧は、輝一が中年男に向けて発した次の一言ですぐに帳消しになります。
 
お前は嫌いだ。
 
 この言葉を聞いた瞬間、甲斐は思わずガッツポーズをとります。
 輝一は単に世間で理想とされるような正義感に従って行動していたわけではなく、己の「好き嫌い」というきわめてシンプルで本能的な基準で行動していただけだったからです。
 こうして輝一という人間の規格外のスケールを再確認した甲斐は、幼いころから胸に秘めていた壮大な野望を輝一に打ち明けます。

ふたりで日本動かさへんか。
 
お前なにしたいの?
…金か?
お前「日本、動かす」って言ったろ?
 
金はつかむ!!
つかんだ金で「金こそ力」ゆう価値ぶっ壊すつもりや。
そこで質問や輝一くん!!
ジブンっ今に満足か!?
先の予定と希望あるんか!?
 
今も先も…なにしていいかわからない。
俺動くとみんな…壊れるから。
 
なら…どや?
「カリスマ」にならへんか?
マジやで。
 
お前は…頑丈そうだな。
 
 甲斐の野望とは、友人を死なせた「金こそ力」という世の中の在り方をぶっ壊すこと。
 周囲からの圧力など意に介さずに図太く逞しく育ってきた輝一は、気に入らない世の現状を変えたい甲斐にとってまさにカリスマ的存在だったのです。
 
 しかし輝一は、周囲の人間の気持ちを操りながら調子よく生きているように見える甲斐をなかなか信用しません。
 輝一は同じクラスにいる佐治みさとの「壊れかけた弱々しい姿」を目にするのが気に食わないと言い、みさとに対して行われている陰湿ないじめを甲斐の影響力で止めさせるようにと要求します。
 輝一に認められたい甲斐は、学校の内外でみさとにちょっかいを出し続けている女子グループに圧力をかけ、みさとへのいじめは一先ず収束したかのように見えます。
 
 ですが、ドッジボールの時間にみさとと同じチームになったリーダー格のゴサキは、二人ともが外野にいる時を狙ってみさとの無防備な顔面に至近距離から思いきりボールをぶつけます。
 過失を装ってみさとに謝るゴサキに甲斐は詰め寄りますが、故意ではないという申告を受けてその場にいた担任や周りのクラスメートたちは「わざとじゃないし本人も謝ってるんだし」と事態を丸く収めようとします。
 
 そんなクラス全体での共犯的な「見てみぬふりのことなかれ主義」に心底ムカついた輝一は、担任や甲斐やみさとも含めたクラスの全員に鉄拳を食らわせて大問題になります。
 出校停止などの処分から輝一を救いたい甲斐は、保護者会の席に乗り込んでいじめの実態を正直に語ろうと言葉巧みにクラスメートを誘います。
 
人間つるむとロクなこと考えんからな…
なかよし、協力、一体感に酔う多数カサに着た連中ぐらい、信用ならんもんないで!!
まんま「魔女狩り」する人種や。
 
ほんでこの教室の魔女が「みさと」や。
ボクも例外ちゃう。
ええ子でおる気はない。
「魔女」狩っとった人間や。
 
そこで相談なんやけどな、みんな、見て見ぬフリしてたなかよし同士!!
どやろ協力して、輝一くんを助けたってくれへんか?
 
 こうしてクラスメートの協力を得た甲斐は、いじめをやめさせようとした輝一を処分から救うことに成功します。
 この件で甲斐は、刷り込まれた価値観に飼い慣らされているクラスメートたちを心の中でこき下ろし、社会のお約束にまるで去勢されていない輝一に喝采を送ります。
 
ホイホイ踊らされよったあのアホども!!
初めに断り入れてもどこ吹く風や。
「協力」だ「勇気」 だ「正義感」だのがそんなに好きか?
 
ヘラヘラと!!
殴られても気づかへんか。
お前らの罪、「好き嫌い」だけで裁いたやないかあの…輝一はっ。
 
 こうした輝一や甲斐の働きによってクラス内でのみさとへのいじめはほぼ消滅しましたが、みさとの抱えている絶望はそんな生易しいものではありませんでした。
 父と二人暮らしのみさとは、父が連れてくる客を相手に少女売春を強制されていたのです。
 
 そんなみさとから助けを求められた輝一は、売春の現場で仲介役のみさとの父親を殴りつけて妨害し、この犯罪行為を警察に通報します。
 しかし、輝一の度重なる訴えに対して警察は「ちゃんと調査している」と返すだけで、みさとへの売春強要が止む気配は全くありません。
 単純に怒りをぶつけるだけの方法に限界を感じた輝一は、世間の仕組みに対抗するためにとうとう甲斐に協力を求めます。
 
俺は…俺の見えるとこに、ムカつかせること…そういうことがあるってのが…絶対に許せねぇ。
敵は…まとめてぶっ壊したくなる
俺は世間知らずで怒るしか能がない…違うか?
 
 輝一から協力を求められ、少女売春の現場を目の当たりにして気分が悪くなっていた甲斐は、怒れる輝一に共感してそのままでいいとフォローします。
 
ゆうべ…世間を一緒に見たやろ。
クソ現実やで!!
そんなもんに価値なんかない!!
「好き」と「嫌い」、「敵」と「味方」分けて理想話したらええんや!!
 
ほしたら…険しくとも道は見える。
せやっ!!
お前は道を示せ、術はボクが使う、…カッコええやろ。
 
 こうして、世間のクソみたいな現実に対する二人の戦いが始まります。
 みさとを通じて手に入れた顧客リストには、元文部科学大臣にして政権与党の幹事長である曽根しんを始めとして、日弁連No.3、電話会社支店長、県教育委員会教育次長、宗教指導者、電力会社幹部、医大の外科部長といった顔ぶれがあり、政治家も警察もグルであることが発覚。
 さらに顧客リストには、銀行支店長である甲斐の父親の名前もあり、甲斐は強いショックを受けながらも大好きだった父親を告発する覚悟を決めます。
 
 しかし、二人が敵に回した相手の力はすさまじく、取材していたテレビ局とのパイプは断ち切られ、輝一の家は何者かに火炎瓶を投げ込まれて燃やされてしまいます。
 放火によって祖母を失いかけた輝一は激昂し、人気政治家の曽根しんが自宅前で行う囲いこみ会見の場を襲撃して、少女売春を握り潰そうとする勢力に宣戦布告します。
 曽根しんを殴りつけSPに取り押さえられた輝一を引き取りにきた祖父に、権力者側は児童施設への強制収容をちらつかせて札束を積み上げるなど、あらゆる手段で口止めをしてきます。
 
 そんな権力側からの揉み消し工作に対向すべく、彼らは仲間のフリージャーナリストらに人質役を演じてもらい、入手してもらった銃を片手に国会議事堂前にワゴン車を止めて立て籠ります。
 この過激な計画の実行に身震いする甲斐は、少しも物怖じしない輝一に問いかけます。
 
ほんま…少しも気遅れ…せえへんのか?
敵は、この国でトップレベルの力持った者たちやで。
 
力…ってなんだよ?
 
4つや!!
金、…情報、法と暴力や。
 
…くだらねえ。
 
 これまで受けてきた数々の圧力にも屈せずこう言い捨ててしまえる輝一は、立て籠りをやめるように拡声器で説得してくる刑事も、同じようにバッサリと切り捨てます。
 
いいかあ!?
キミたちは今きまりを守らないよくないことをしているんだあ。
 
……法律か?
 
そうだ法律だ!!
キミたちがしていることは法律で禁じられている!!
みんなの約束ごとは守らなきゃダメだろ!?
 
俺がすることをジャマするなら、お前ら警察も法律も、敵だ!!
俺の目に入らないように消え失せろ。
 
 この痛快な輝一の姿に奮い立った甲斐は「銃を持った小学生による国会議事堂前の占拠」という特大ニュースのネタを武器にテレビ局との電話交渉を有利に進め、報道機関へのあらゆる政治的な圧力を突き崩します。
 こうして彼らは、少女売春とそれを揉み消そうとした権力者側の非道をとことんまで告発する映像を、全国ネットで生放送させることに成功します。
 
 目的を果たした彼らは素直に投降し、小学生の甲斐と輝一は児童相談所に送られ、彼らの立て籠りを支援したフリージャーナリストたちは容疑者として警察署で取り調べを受けます。
 自分と大人たちとの境遇の違いに憤った輝一は児童相談所を飛び出し、彼を英雄視して群がる民衆やマスコミたちをすり抜けながら警察署に向かい、仲間たちを釈放するよう警察に直接掛け合います。
 
 警察署の前で「国が定めた法律を破った者を釈放するわけにはいかない」と門前払いを受けた輝一は「わかったもういい」と吐き捨てて児童相談所に帰り、甲斐に「俺の思い通りに国や法律、動かす方法を教えろ!!」と要求します。
 ほんの少し動いただけで大きな人垣を作ってしまう輝一の求心力に注目した甲斐は、捕まった大人たちを早期解放するための現実的な方法論を語ります。
 
テレビ始めおそらく新聞も「ボクらに味方」の論調や…
ええか輝一、ここが重要や。
今の扱いは、いわば人気者アザラシと同じ素材や。
 
幸いなことに普段通り自分らの行為に無自覚なマスコミ連中は、目の前のエサに喰らいつくだけで本質が見えてへん。
こいつらな、国が定めた法律を破った側に味方してんねや。
「法さえ守れば」って世間に「法を破っても」やるべきことがあるって画を、タレ流してしもたんや。
 
4つの力を持ってる奴らを動かすには、こっちも対抗できる力を持たなあかん。
なら今、ボクらに持てる力ゆうたら…あの「人垣」や。
力持ってる奴らが無視できんようなより大きな「人垣」世論を作ることや。
 
……「よろん」?
 
世の中の声!!
支持する声や。
奴らマズいと思たらきっと損得勘定するわ!!
せやから輝一が今…すぐ、少しでも世の中動かす気ぃなら、独裁者なみに大衆を魅了することや。
 
 こうして甲斐はテレビ局に出演交渉を行い、輝一というカリスマ像を盛り立てることで、仲間たちの早期釈放を助長するような世論を築き上げようとします。
 最終話で描かれた甲斐のこのスピーチは、この現代社会を平然と生きている私たち大人にとって耳が痛い言葉だらけです。
 
4歳の輝一が吐いた言葉を覚えていますか?
 
ひとりすごい。
ひとりだいじ。
みんなひとり。
生きる楽しいひとりだから。
 
当時ももちろん今のこんな世やから余計に響く言葉や思いませんか?
ボクには民主主義とかゆう多数派が得する世の中に、喝入れた言葉に聞こえるんですよ。
 
例えばボクが見た輝一は、こんな行動をとりました。
学校でイジメがあれば助ける。
酷い親がいるから子供を助ける。
間違ったことは立場、状況を問わず間違いや言う。
卑怯な奴はこらしめる。
 
今の、中身をひも解けば…イジメの加害者も、児童虐待の発見や救助より、プライバシーを優先したい奴らも、「卑怯」の感覚もなく「合法の範囲内の自由を」と叫ぶ連中も、買春政治家を持ち上げたアホも、みんなひとりじゃなく多数派や!!
 
当たり前の正しいことしよて思たら損をする。
こらしめるにも合法を求める。
見てみぬフリは違法やないから多数派はいつも得ばっかりや!!
 
そんな損得勘定で、多数派が涼しげに知たり顔で選んでることを、「現実」て呼んでません?
ボクらに味方してくれた少数派の大人。
石塚さん、バカ村、カメの3人は今、違法の名のもとに警察に捕まり、刑務所行きの…予定?
嫌な「現実」や。
 
逆にボクらの敵となった奴らは、「バレなきゃOK」「バレたら法を盾に」「現実は金で買え」て、政治家、警察、テレビ局みんなっほくそ笑んでたわ。
それが小学生のボクらが見た大人の「現実」と「民主主義」の世の中でした!!
 
俺は俺が汚えと思うもんが嫌いでそんなもん消えて失くなりゃいい。
誰もやらねえから俺がやる。
 
これ…多数派やなく「ひとり」の言葉や。
国益」が口癖の「現実」的で多数派の評論家は、独裁者を夢見てるて断罪してたけども……構へんよ。
なら、味方の釈放を求めて輝一が言うた言葉は、独裁者の理不尽ですか?
 
お前の理屈は正しくても醜い。
まともに考えろ。
 
…ボクには今の現実が理不尽で、輝一の言葉と行動こそ選ぶべき「まっとうな現実」に思えるんですよ。
 
ほしたら負けたらあかん。
「ひとり」の戦いや。
輝一は「現実」に挑み勝つ気です。
 
ボクが信じるように、輝一を信用に足る人間や思うた人、響いた人、ボクらの戦いに続いてください。
 
一歩っ
踏み出せば世の中変わると信じてる人!!
奇跡を信じる人!!
 
輝一の「ひとり」の戦いに参加してください!!
 
 この甲斐の問いかけはフィクションの枠に収まるものではなく、読者を直接揺さぶりかけるためのもの。
 私たちは多数派に流されることなく、甲斐や輝一のように自分の頭で考えて生きているでしょうか。
 
 私個人について言うならば、私が気に入らないと思うものは甲斐や輝一とは違いますから、私は私なりの「ひとり」の戦いをこのブログでしています。mrbachikorn.hatenablog.com
 新井英樹は、漫画という手段で「ひとり」の戦いをしています。
 皆さんは、どのような「ひとり」の戦いをしていきますか。
 




※当ブログの主なテーマは、この世界を支配する「正しさ」という言葉のプロレスとの付き合い方。mrbachikorn.hatenablog.com 

「正しさ」というゲームの最大の欠陥は、何を「正しい」とし何を「間違ってる」とするのかというルールや、その管理者たるレフェリーが、実際にはどこにも存在しないということ。

人類はこれまで数え切れないほどの論争を繰り広げてきましたが、それらのほとんどは「レフェリーの代弁者」という場を仕切る権限をめぐっての権力闘争でした。
 


「レフェリーの代弁者」という立場は、自分の個人的な要求でしかない主張を、まるでこの世の既成事実のように見せかけるための隠れ蓑です。

「それは正しい」とか「それは間違ってる」という言い方で裁きたがる人たちは、私はこの世のレフェリーの代弁をしているだけなんだという迫真の演技で己の発言の圧力を高めていたのです。
 


演技の迫力とは、演技者が役にどれだけ入り込めるかで決まるもの。

人々はいつしかレフェリーの代弁者のふりが説得のための演技であったことを忘れ、「どこかに本当の正しさがあるはず」といった物語を本気で信じこんでしまいます。

こうして人類の間には、「正しさ」という架空のレフェリーの存在をガチだと捉えてしまう、大がかりなプロレス社会が成立していきました。

そのプロレス的世界観を支えている固定観念の源を「記述信仰」と名付けました。

以下の記事では、この「記述信仰」の実態を上のような簡単な図にまとめて解説していますので、ぜひご一読ください。mrbachikorn.hatenablog.com